エイプリルフール2010・丸井編


「なぁ、竜崎…」
「あら、お早うございます、ジャッカル先輩…どうしたんですか?」
 四月一日…世間ではエイプリルフールと呼ばれる日。
 春休み期間中だった桜乃達、立海大附属中学の生徒達は、この日を臨時登校日に設定した学校の方針に従い、通常と同じ様に登校していた。
 通常と言っても男子テニス部マネージャーとしての立場もある桜乃は、帰宅部の生徒よりはかなり早く学校に向かい、部の朝練などの管理を行っており、それはこの春休みになっても休むことなく続けられている。
 そんな彼女がいつもの様に部員達がコートに出ている間、部室の中を軽く掃除していた時、そこに卒業生であるジャッカル桑原が訪れてきたのだ。
 これも、別に今日に限ったことではない。
 三年生達は既に部を引退している身である為、今の時期の活動に参加する義務はないのだが、元レギュラー達はどうも過去の習性が抜けないと、今も尚暇を見つけては足繁く通い、顔を出してくれているのだった。
 しかし何故か今日は、先輩のジャッカルの顔色が優れない。
「お元気ありませんね、お身体の調子でも?」
「いや…竜崎、ちょっと助けてくれないか?」
「はい?」
「丸井の奴のことで、ちょっと困ったことになってなぁ」
「丸井先輩…?」


 問題の発端は今日の登校時でのことだった。
「おはよーい、ジャッカル」
「おう、お早う丸井」
 登校途中、ジャッカルは同じ通学路を行く丸井と偶然出会い、そのままの流れで一緒に学校に向かうことになった。
 歩き出した当初は別に普段と変わりない日常の風景だったのだが、ふとした切っ掛けがその流れを大きく変えた。
「ったく、卒業生の俺達までまだ登校しなきゃいけないなんてなー。テニスはいいけど、ちょっと憂鬱だぜい」
「だな…しかも四月の始まりの日にってのがまた…」
 そこまで言ったところで、ふと、ジャッカルは自分の発言である事を思い出した。
(そういや今日はエイプリルフールじゃないか…!)
 ジャッカルも、当然この日の慣習については知っている…いや、悲しい程に関わりがあると言っても過言ではない。
 彼自身は非常に善良で温和な人柄の為、嘘をつくという行為は馴染がないのだが、やたらやんちゃで生意気な後輩や、嘘と真を自在に掌の上で躍らせる同級生、そして目の前にいる超甘党で楽天家の相棒が、毎年この日はここぞとばかりに嘘のトラップを次々と仕掛けてくるのである。
 元々が人の良い性格である為、ジャッカルがその罠に嵌ること、数知れず。
 この日はまさに彼にとっては厄日、鬼門そのものとも言えた。
(きつく叱れない俺の責任ってのもあるかもしれないが、それにしたってこいつらは何でこう毎年毎年…あ、何だか思い出したら段々腹が立ってきた…)
 複雑な胸中でちらっと隣の赤毛の男を見たら、向こうは今は口に入れたばかりのガムを味わうのに夢中らしく、こちらの様子には意識を向けていない。
 そんな無防備な丸井の姿を見て、ジャッカルは普段は滅多に思いつかないアイデアを頭の中に閃かせた。
 そうだ、いつもは騙されてばかりの自分だが、たまには仕返ししてみよう。
 エイプリルフールにあれだけ騙されているのだから、こちらも同じくエイプリルフール返しをしても、罰は当たらない筈だ。
 そうと決まれば善は急げ!
 こいつが真っ先に食いついてきそうなネタで、信じてもらえそうな嘘は…
(…よし!)
 嘘を言った後、相手がそれを信じた事を確認したらすぐにその場で種明かしをして、悔しがる顔を見てやろうと決めたジャッカルが、いよいよ行動に移る。
「な…なぁ丸井、知ってるか?」
「んあ? 何だよい?」
「今日ってエイプリルフールだろ? それに因んで〇〇パティスリーで、今日限定の『嘘みたいにでっかいケーキ』が売り出されるんだってさ。しかもお手頃価格で」
「!!!」
 食いついた!!
 様子を窺うまでもなく、相手の爛々と輝き始めた目と、じゅるっと音をたてた口元を見た時点で、勝敗は明らかだった。
 こんな信じられないような嘘なのに、あっさりと信じてくれるとは…!
(うおお! 何か気持ちいいな! こんなに綺麗に決まると、仁王の気持ちがちょっとだけ分かるような…)
 そんな事を思いながら、さて、いよいよ真実を伝えるか…と考えていたところで、予定していた流れが一気に違う方向へと向かい出した。
「マジで!? すっげー! 俺それ欲しいー、絶対に買いに行くぜいっ!」
「や…実はな丸井…」
 本当の事を伝えようとするジャッカルの言葉はもう聞こえていないかの如く、丸井は一人で大はしゃぎ。
「わーいわーい! うっれしいなーっ! 今日のデザート何にするか迷ってたんだよい!! 良い事教えてくれてサンキューなジャッカル! 俺、急いで買いに行くよい!!」
「……」
 心の底から喜んでいる相棒の姿を見て、ジャッカルは慣れない事をしてしまった自分を激しく呪っていた……


「…い、言ったんですか?」
 『真実を』という目的語を伏せての問い掛けだったが、十分通じたらしく、ジャッカルが桜乃に力なく頷いた。
「言った…凄ぇ痛かったけど、良心が」
「そ、それで…?」
「最初はこの世の終わりみたいな顔をして…それからのアイツはもうとても言葉では言い表せねぇ。正直、死を覚悟したぜ」
「うわぁ〜…」
「で、だ、ここからが本題なんだが…」
 話を切り出されたところで、桜乃は相手が何か自分に助力を乞うていた事を思い出した。
「あ、そうでしたね…何か私にお願いが?」
「ああ…それで、アイツをぬか喜びさせた代償に、美味いケーキ屋を知っている奴を一人紹介して、今日一日案内させろって言うんだよ。つまり、食べ歩きの連れって事だな…お前、良かったら付き合ってやってくれないか?」
「ええ!? 私がですか!?」
 驚く少女に、ジャッカルが頼むと頭を下げた。
「俺が知っている奴の中でも、アイツを満足させるレベルの味が分かるのはお前ぐらいなんだ! 丸井の奴も、お前が相手なら文句は言わないだろうしな、頼む!」
「う〜…そりゃあ、嫌じゃありませんけど…」
 二人っきりで、しかも男女でそんなお店に行くのはデートの様に見えなくもない…
 実は最近、丸井のことが気になっていた桜乃にとっては決して悪い相談ではないのだが、いざこういう好機を振られると恥ずかしさに遠慮したい気持ちも湧いてくる。
 が、頼むジャッカルもかなり必死で、彼女に強く丸井との同行を願った。
「本当に頼む! もし同行者を見つけられなかったら、俺、間違いなくアイツに塩まぶされてシメられる!!」
「相手が丸井さんだけに笑えませんねソレ…」
 結局、ジャッカルの身を思うと断ることも出来ずに、桜乃は流されるままにその日、丸井と付き合う事に決まったのだった。


「おっ、おさげちゃん。片付け済んだ?」
「はい、お待たせしました、丸井先輩」
「いーっていーって、おさげちゃんと一緒に行けるってだけで俺嬉しいし!」
「ん、もう…」
 部活動終了後、部室外で待ち合わせることにしていた二人が揃うと、片割れの丸井は目に見えて上機嫌だった。
 余程桜乃と一緒に出かけるのが楽しみになのか、朝、ジャッカルに騙された恨みらしき感情はとっくに忘れてしまっている様だ。
「でも私、丸井先輩ほど、美味しいお店知りませんよ? 私が知っている処なら、丸井先輩もきっとご存知だと思いますし…良いんですか? 本当に」
「ぜんっぜん問題ない! ジャッカルと向き合って甘いモンつつくよりよっぽど良いって。それに俺…」
「…? 何ですか?」
 何かを言いかけた若者に桜乃が続きを尋ねたが、相手は結局首を横に振って話題を変えた。
「…や、いいや、今は。じゃあさ、今日は俺のお薦めの店行く? お洒落で女の子が好きそうなケーキ一杯あんだけど」
「わぁ、楽しそう!」
「だろい? んじゃ行こうぜ」
 桜乃を促し、その場から離れ…かけたところで、丸井の視線が部室の陰に立ってこちらの様子を覗いていたジャッカルのそれと合った。
「…」
「…」
 無言で相棒達が視線で何事か語り合い、ぐっと同時に親指を立てると、ジャッカルは笑いながらその場から立ち去っていった。
「どうしたんですか?」
「いや、別に」
 桜乃にばれることなく、ばらすことなく、丸井は今日の企みを完遂するべく、彼女と再び歩き出していた。


『いい!? 俺が誘うのか?』
『なぁ〜、頼むってジャッカル、相棒のよしみでさぁ。俺、もうすぐ高校上がっちゃうじゃん。その前にどーしてもおさげちゃんともう一歩近づきたいんだよい』
 三月三十一日の夜…ジャッカルは丸井からそんな相談を持ちかけられていた。
『うーむ…お前があいつに惚れてんのは知ってたがな…けどそんな小技使わなくても、部活終わった後に告白でもしたらいいんじゃないか?』
『それじゃあムードがねぇって! どっかの店に連れて行ってさ、さり気なく会話しながらここぞってところで攻めてみたいんだ。あいつかなり内気だしさ、いきなり俺が誘ってもそれだけで萎縮しちゃうかもしれないじゃん? 別の理由で誘った方が、向こうも気楽に乗ってくれると思うんだ』
 何でそこまで考えられるのに、今まで手をこまねいていたんだ…という台詞は、恋の話の中では禁句か。
 ジャッカルはやれやれ、と溜息をつきながら、で?と相手の提示してきた条件について確認した。
『…俺がお前の願いを呑めば、明日のエイプリルフールは平和に過ごせるように手配してくれるんだな?』
『おうっ、赤也にも仁王にも話つけて、今年はお前に手ぇ出さないように言っとくからさ』
『……ま、いいか。あの子もお前を随分気に入ってたみたいだから、断られはしないだろ』
 そして、立海のダブルス・ペアは、見事なチームワークで敵(?)を囲い込む事に成功したのである。
 最後はやはり、企みを仕掛けた張本人、丸井の出番。
 その成果は、春休みが終わり、彼が高校に進学した後も、頻繁に桜乃と会っている姿を目撃されていることから推して知るべし…・




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