エイプリルフール2010・仁王編


「そうよね…そう言えばそうだったわ」
 校舎の玄関に立ち、桜乃は低く垂れ込めた雲から降り注がれる雨を恨めしげに見詰めながら、独り言を呟いていた。
 今日は春休み期間中の、臨時登校日。
 しっかりと必要物品を揃え、朝の天気予報で雨の可能性が高い事を確認し、折り畳み傘を鞄に放り込んで、万全の状態で登校した…筈だった。
 そんな少女の手に握られているのは、正に今、役に立つ瞬間を待ち望んでいる筈の折り畳み傘…だったのだが、いつまで経っても桜乃の手がそれを開く様子は見られない。
 何故なら…びくともしないからだ、開こうと思って力を込めてもかなりの抵抗が手に返って来る。
 そこに来てようやく少女は、結構以前にその折り畳み傘が壊れていた事実を思い出したのだった。
(あの時は新しい傘を買わなきゃって思ってたのに、すっかり忘れてた…あうう、傘の予備なんか持ってこなかったし…これは覚悟を決めるしかないかな〜〜〜)
 覚悟を決めるというのは、無論、濡れて帰るということである。
 いつまでも開かない傘に未練を残していても仕方がないし、この場に留まる訳にもいかない。
 雨天ということで、今日予定されていたテニス部の練習も中止になってしまったし、校舎の中に留まる理由もない。
(…しょうがないな)
 自分の寮は幸いここからそんなに離れていないし、濡れて帰ってもすぐにシャワーを浴びて温まれば風邪を引く危険性も少ないだろう。
 そこまで決心して、いざ外へと踏み出そうと意気込んだ瞬間、
「お、竜崎じゃ」
「っ!!」
 不意に名を呼ばれて踏み出そうとした足がバランスを崩し、桜乃はこれ以上ない見事な『おっとっと』ポーズを披露してしまった。
「…」
 それを背後から傍観していた、呼びかけた当人は暫し沈黙していたが、何も言わずにくるっと背を向ける。
「うわぁーん! スルーするぐらいなら最初から声掛けないで下さいよう〜〜!」
「見なかったフリするんが優しさだと思うんじゃがのう…」
 物凄いいたたまれなさに訴えてくる少女に、銀髪を揺らしながら若者が振り向いた。
 整った顔をした彼は、相手の反応が面白いとばかりに唇を歪め笑っていたが、そこに嫌味は含まれていない。
 彼は仁王雅治と言い、立海テニス部レギュラーだった三年生…現在は高校入学を控えた卒業生という立場に当たる。
 詐欺師という呼び名を持つ通り、己の本心を見せず人を騙し、翻弄する術に長けた男なのだ。
 しかし彼の隠れた一面をよく知っているからこそ、桜乃は物怖じせずに彼と話すことが出来た。
「別に驚かすつもりはなくて、姿を見たから声掛けただけじゃよ。お前さんのおさげは目立つからのう…本人は極めて地味じゃが」
「最後の一言が余計です。仁王先輩だってその銀髪凄く目立ちますよ…本人も感心出来ない意味で派手だし」
「何言うちょるんじゃ、俺ほどに慎ましく生きとる人間はそうおらんよ」
 人を食った返事を返した仁王は、で?と改めて桜乃の傍に近づき、上から覗き込んできた。
「今、帰りか?」
「う…あ、あの」
 覗き込むついでに結構な至近距離まで顔を近づけられ、桜乃が照れて頬を染める。
 学内でもモテル男にそんな事をされたら普通の女子なら至極真っ当な反応だが、そんな桜乃も赤くなったまま伏目がちで瞳を潤ませる姿は結構男心にクるものがある。
「…」
 軽く接近するだけでその表情が見られるものなら安いものだとばかりに、仁王はまた薄く笑いながら相手のそれを楽しみつつ、彼女の返事を待った。
「…そ、そうです、けど…」
「ほぉ…しかし生憎の雨で残念じゃな」
「ですね…」
「…」
「……な、何ですか?」
 じっとこちらの様子を窺ってくる詐欺師に、たじ、と退きながら桜乃が尋ねると、向こうは首を傾げつつ思っていた疑問を口にした。
「お前さん、傘は持っとるようじゃが、一向に開こうとせんかったんでの。気になったんじゃが…」
「うっ…」
 鋭いっ! 流石、詐欺師…っ!
(本当に、よく人を見ているというか観察しているというか…そうでないと詐欺なんて出来ないんだろうけど…いや、本当はするべき事でもないんだろうけど…)
 普段から『詐欺師』、『詐欺師』と何気なく相手が呼ばれている所為か、自分の観念も一般的なそれとは外れてきているかもしれない…と桜乃は懸念しつつ、一方では別の事を考えていた。
(もし傘が故障してる、なんて言ったら、仁王先輩、自分の分の傘を貸してくれるかもしれないなぁ…嬉しいけど、そうしたら先輩が今度は濡れちゃうし、気を遣わせるのも申し訳ないよね…)
 マネージャーは知っている。
 詐欺師と呼ばれている男が、実は野良猫にこっそりと餌を買い与える程に優しい性だということを。
 人を詐欺にかけ、からかいはするが、本当に困っている人間にはさり気なく手を貸す器を持っているということを。
 だから…そんな彼の事を思えばこそ、ここで自分の不都合を相手に明かす訳にはいかなかった。
(どうしよう…嘘はあまりつきたくないけど…あ、でも今日って確かエイプリルフール…)
 嘘をついても許される日…それに、別に誰を傷つけるものでもないなら、これぐらいはいいよね。
「え、ええと、それはですねぇ…この傘、新品で…」
「新品?」
 咄嗟に考え付いた嘘だったが、何とかそれに現実味を持たせようと桜乃は渾身の演技を披露した。
「買ったばかりで、濡らすの勿体無いなーと思ってましたから…ちょっと貧乏くさくて話しづらかったんですけど」
「…ほう」
「でも、勿論ちゃんとさして帰りますから、大丈夫ですよ」
「…ふーん」
「……」
 おざなりっぽい返答を返す男の目に、何となく疑惑の色が宿っているのは気のせいだろうか…?
 いや…間違いなく疑っている…何故なら…
(う、動こうとしない…確認する気満々だよう〜)
 本当に傘が開くのか、この目で見定めてやろうというかの様にその場に居座る詐欺師に、少女が心の中で大汗をかく。
 どうしよう…と困っていたその時。
「お、竜崎!」
「? 切原部長?」
 不意に二人の間に割って入った声に桜乃が振り向くと、くせっ毛の若者が少女を見つけて嬉しそうに走ってきていた。
 先輩達の引退と同時に、立海テニス部の部長となった切原赤也だ。
「どうしました?」
「あー良かった、見つかって。なぁ、来年度の部活動について、ちょっと確認したいことがあるって職員室に呼ばれてんだけど、一緒に来てくんね? 俺一人だと何かこう落ち着かなくってさ、マネージャーのアンタが一緒にいてくれたら凄え助かる!」
(こっちこそ助かります〜〜〜〜!!)
 これは千載一遇のチャンス!!とばかりに、桜乃が二つ返事で相手の申し出を受ける。
「は、はい、すぐに行きます! じゃあ仁王先輩、失礼します」
「ん…」
 慌しく切原に連れられて去ってゆく少女の後姿を眺めていた詐欺師は、二人が先の廊下の角を曲がったところで、ちっと小さく舌打ちをしていた。
「…余計なコトを…赤也の奴」


 職員室に行ってからの説明は、特に問題もなく滞りなく進み、三十分もしたら二人とも解放された。
 しかし、やはり場所が場所なので、堅苦しい空気が苦手な切原はついて来てくれた桜乃に大いに感謝していた。
「サンキューな、たーすかったぜー竜崎」
「どういたしまして。でも、部長だけでも問題ありませんでしたよ? きっと」
「いや、アンタがいてくれたお蔭でリラックスしてたから、上手く説明出来たんだって。ほんと、帰るところだったのに悪いな」
「いえいえ…じゃあ失礼しますね」
「おう、ありがとさん」
 そして切原と別れ、桜乃は再び玄関へと戻ると、首を曲げて空を見上げた。
 職員室にいる間に止んでくれないかと願ってもみたが、まだ相変わらず空は泣いている…
(…ま、しょうがないよね…でも、仁王先輩も流石にもう帰ったでしょ)
 あれから結構時間経ってるし、と心の何処かで安堵しながら、桜乃は壊れた傘を取り出す事もなく靴に履き替えると、いよいよ雨の中へと歩き出した。
 目で見るだけでは今ひとつ分からない雨粒の大きさや勢いを身体で直に感じ取り、予想以上のものだと判断した少女は、やはり走ろうかと数歩助走をつける形で早歩きをする。
 すぅ…
「…!?」
 そんな彼女を止める様に、暗かった世界に更に深い影が差し、代わりに身体に降り注ぐ水滴が止んだ。
「え…?」
 暗くなったのに雨が止んだ…?
 振り仰ぐと、目に鮮やかな銀の光が飛び込んできた。
 そして、こちらを見下ろしてくる悪戯っぽい目をした若者の顔も。
「…っ!?」
「お前さんの足じゃ、どんなに走ってもびしょ濡れになるぜよ、竜崎」
 まさかと思ったが何度見ても間違いない、仁王だ。
 もうとっくに帰っていると思っていた男の登場で、桜乃は先程、彼に会った時以上に驚いてしまった。
「仁王先輩っ…! ど、どうして…」
 狼狽する相手とは対照的に、若者はのんびりと視線を上に逸らしつつゆっくりと答える。
「んー? そうじゃな…大好きな子が濡れて風邪でも引いたら、俺も心配で堪らんからのう…待っとったんよ」
「…またそういう嘘を」
 相手のモテっぷりから考えたら本気である筈がない、とぷぅと頬を膨らませて非難するマネージャーに対し、おやおやと相手が笑う。
「何じゃ、嘘と言うならお互い様じゃろ。壊れた傘持って来て、何でもない振りをしたのは誰じゃ?」
「う…」
 痛いところを突かれて口篭る桜乃にまた笑い…それをふと打ち消しながら仁王は手を彼女の肩に回してぐいと自分の方へと抱き寄せた。
 もっともっと、近づくように、濡れないように…
「…っ、先輩?」
「それにな…詐欺師なら、逆にエイプリルフールにこそ、本当のコトを言うかもしれんよ」
「え…?」
「相合傘が嫌なら、とっくに一人で帰っとったってコト…兎に角、今日は俺とラブラブになってもらうぜよ。そのまま寮に直帰、なんて甘い考えは持たん事じゃな」
 どうやら今日一日、桜乃を独占する事を企んでいるらしい詐欺師は、同じ傘の下に拘束した彼女に、雨音に紛れてこっそりと囁いた。

『ずぅっと、お前さんとデートしたかったんじゃ……ホントじゃよ?』




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