エイプリルフール2010・真田編


「ね、桜乃聞いた? 三年の真田先輩の話」
「え…?」
 四月一日、立海大附属中学の春休み期間中での臨時登校日に、桜乃は同クラスの女子からやや興奮気味にそう話しかけられていた。
 真田先輩と言えば、彼女がマネージャーとして所属している男子テニス部の元副部長であり、校内でも年齢不相応の強面で有名な若者だ。
 桜乃にとっては厳しい一面は確かにあるが、優しい心遣いを見せてくれる先輩であり、人として尊敬しつつ、女性としても気になっている存在だった。
 その彼の話題を出され、桜乃は思わず身を乗り出して興味を示したのだが、相手はそんな桜乃にこっそりと耳を疑う様な事を言ってきた。
「何かー、先輩が他の女子にセクハラして、今職員室に呼び出されてるんだって! 信じられないけど、実際脇を通った子がそれらしい話してたって言ってたよ」
「っ!!??」
 セクハラ!? 真田先輩が!?
 有り得ないと思いつつも、彼が職員室に呼び出されているのは事実らしいという事が彼女を大いに驚かせ、焦らせた。
「う、嘘でしょ? あの真田先輩がそんな事する筈が…っ」
「でも、本当に友達が見てたって…先輩も最初何か反論はしていたみたいだけど…」
「…っ、ちょっと行って来る」
 まだ朝のホームルームまでには時間があると判断した桜乃は、普段のおっとりした姿からは考えられない敏捷さで立ち上がったかと思うと、もう教室を飛び出していた。
(何かの間違いよ…! 先輩がそんな事…)
 心の中で自分に言い聞かせながら、桜乃がいよいよ職員室に到着し、扉を開けて中に踏み込む。
 用事がない生徒が好んで入り込む場所ではないが、そんな事はもう少女の頭からはすっぽりと抜け落ちていた。
(…真田先輩!)
 いた!!
 三年生の担任達の机が並んでいるスペースの端で、生徒指導役の教師が椅子に座っており、その教師に向き合う形で真田が直立不動の状態で立っていた。
 人の噂は千里を走るというが、早速彼の下世話な噂を聞きつけたのか、周囲には用事を理由に様子を伺う他の生徒の姿もちらほらと見える。
 興味ない様に装ってはいるが、彼らの視線は明らかにちらちらと校内一の固い男と呼ばれている真田に向けられていた。
 足早にそちらに向かっていくと、徐々に教師の声が桜乃の耳にも届けられてきた。
『…しかし、君が確かにそういう事をしたという声が来ているんだよ。君もその場にいたのは事実なんだろう』
『いたのは事実です。しかし、それだけです』
『…拉致が明かないねぇ』
 口調から、教師も真田に嫌疑を掛けているのは間違いないと思った時には、桜乃は自分が何をしているのか分からないまま、真田と教師の間に割り込んできた。
「あのっ…! 何かの間違いです!」
「!? 竜崎!?」
「誰かな? 君は」
 割り込まれ、教師は不思議そうな視線で桜乃を見たが、彼女は相手の反応に構わずその場で真田を庇う様に立ち…その時初めて、これまで堂々と立っていた真田が明らかに狼狽し始め、その後輩を遠ざけようとした。
「竜崎! お前には関係ない話だ、用がないなら出て行け」
「でも…!」
「後輩かね?」
「…部のマネージャーです」
 教師の質問に真田が答えると、向こうはふぅと面倒そうに大袈裟なため息をついた。
「…先輩を思い遣る気持ちは分かるが、野次馬の様な行動はどうかと思うね」
 そして相手は更に、明らかに真田をセクハラの実行犯だと看做したような態度で付け加えたのだ。
「君もねぇ、こんな健気な後輩がいるんだから、ちょっとは行動を考えてくれないと」
「……」
 その時
 確かに、真田の顔面が蒼白になり、ぶるっと身体が震えると共に唇がきつく噛み締められた。
 そんな彼の僅かな変化には、桜乃は遂に気付かなかった。
「真田先輩はそんな事してません! 決め付けないで下さい!!」
 変化に気付こうにも、真田に背を向け、教師に必死の態で反論している桜乃には、見える訳もなかったのだ。
「いい加減にせんかっ!!」
「っ…!」
 そんな場に轟いた真田の怒号。
 向けられたのは教師ではなく、周囲の野次馬の生徒達でもなく…桜乃だった。
 男の視線はいつにも増して鋭く、華奢な少女を真っ直ぐに射抜いている。
「真田…先輩…?」
「さっきから聞いていれば、己を見失って勝手な事を言いおって…先生に失礼だろうが!」
 自分を庇ってくれる後輩に、敢えてきつい叱責をした後、真田は自分の気迫に圧されていた目前の教師に軽く会釈して断った。
「自分の後輩が失礼しました…すぐに叩き出します」
「い、いや…そこまでは」
「さぁ来い!」
 寧ろ、今度は桜乃を気遣う教師の言葉に構わず、真田はむんずと相手の襟首と片腕を掴み、有無を言わさずずるずると職員室の扉へと連行すると、二度と入らないように言い含めているのか何事かを彼女に言って、そのまま廊下へと押し出してしまった。
 相手が女性であっても規律を乱す者には容赦しない…男の姿はその噂を確かに真実だと周囲の者達に明らかにしていた。


「……」
「おうおう、随分と賑やかだったのう」
「大丈夫ですか? 竜崎さん」
「! 仁王先輩、柳生先輩…」
 職員室の外に追い出され、茫然自失の態だった桜乃に、優しげに話しかけてきた二人の男子生徒がいた。
 真田と同じテニス部レギュラーだった、仁王と柳生だ。
 彼らも職員室に用事があったのか、二人一緒に扉の前に来たところで桜乃達の小さな騒動を目撃していたらしい。
「あの…お二人も何か職員室に御用が…?」
 尋ねる少女に二人はほぼ同時に笑顔を浮かべたものの、明確な説明は避ける。
「いや、俺らも半分は野次馬なんじゃ…幸村と柳に、真田の騒動を教えられてのう」
「見に来たら、貴女が先にいましたから驚きましたよ…しかし、あれ以上は貴女は関わらない方が宜しい」
 真田に追い出されたところも見ていたらしい紳士は、彼女の代わりに今度は仁王が扉を開けて入室していくのを追いながら、こそっと桜乃に付け加えた。
「真田君の気持ちを無駄にしてはいけませんよ。賢明な貴女なら、もうお解りでしょう?」
「…」
 そんな二人が職員室に消えていくのを、桜乃はただ黙って見送るしかなかった…


 色々と騒ぎ立てられるかと思われていた真田のセクハラ疑惑だったが、それは実にあっさりと終結を迎えることになった。
 結論は、それを最初に言い出した別の生徒達の『嘘』だったらしい。
 普段から厳しい指導を行ってくる真田を逆恨みし、卒業前に困らせてやろうと思って前日に事実無根の嘘を吹聴して回ったらしいのだが、それが予想以上に大騒ぎになり、本人が職員室にまで呼びつけられる大事になってしまったのだ。
 画策した生徒達は軽いエイプリルフールのノリだったらしいが、流石に事が大きくなって怯えていたところに、何処から秘密を探り出してきたのか二人の某生徒達まで乗り込んできて精神的に散々脅され、最後は泣きながら教師達に事実を告白したらしい。
 某二人の生徒というのが、幸村と柳だったのか…それとも仁王と柳生だったのか…それとも他の者達だったのかは分からない。
 兎に角、そんなこんなで、真田は晴れてその日の内に無罪放免が決定したのだった。


「真田がセクハラのう〜…地球が引っくり返ってもあり得ん事を、よう教師も信じたもんよ」
「その笑い方はやめろ、仁王」
 午後の部活の特別指導に向かおうと三年生の教室前の廊下を歩いていた真田と、他の元レギュラー達も、この時ばかりはその話題について盛り上がっていた。
 いや、真田は別に盛り上げるつもりもないのだろうが、無罪が決まってる分、周囲も気楽に話のネタに出来るということなのだろう。
「しかしあの教師も酷いな…普通は生徒を信じるもんだろ?」
 少しばかり不満が残っているらしいジャッカルに、ガム風船を膨らませながら丸井が呑気に返した。
「しょーがねって、アイツより真田の方が貫禄あって指導力もあったってのが気に入らなかったんだろい? ここぞとばかりに仕返しするつもりだったんじゃねーの?」
「結局、逆に自分の株を下げる結果になったがな…まぁ自業自得だ」
「だね…おっと」
 気にすることはないだろう、と柳が答えて結論付けたところで、不意に先頭を歩いていた幸村が歩みを遅くし…止まった。
 他の男達も彼と同じく正面を見たところで、一様に足を止め、立ち止まる。
 少し先の廊下の角で、こっそりとこちらを窺う様に覗いてきているおさげの少女。
 『ふーん』と何かを思っている男達の中で、真田だけがまたそわそわし始めたが、そんな彼を置いて他のレギュラー達はぐるっと同時に方向転換した。
「じゃ、後は若い二人に任せて」
「約一名は若く見えんがのう」
「それは言いっこなしですよ仁王君」
「上手くやれよい、真田!」
「いや〜、いいッスねぇ、青春って感じで」
「成功する確率は九十パーセント以上だ…自信を持て」
「後でちゃんと聞かせてよ、弦一郎」
「お、おい! お前ら…!」
 各々、言いたい放題の事を言いながら別の道を使って部室に向かおうとする仲間達に、狼狽しながら真田が声を掛けたが、この時ばかりは全員スルー。
 見事に見捨てられた形になってしまった真田は、彼らの後を追う訳にもいかず、結局一人で後輩が待つ廊下の角へと向かう事になってしまった。
「…」
「…」
 廊下の隅で向き合う形になっても、お互いが遠慮して無言を守る…
 少しだけ気まずい雰囲気になったが、その沈黙を真田が破った。
「すまなかったな、竜崎」
「え…?」
「お前は俺の事を心配してあの時、言ってくれたのだろうが…その…酷い事を言った」
 腕を組み、目を閉じてそう自戒する様に呟く若者を少女はじっと見上げていたが、やがてにこ、といつもと変わらない笑顔を見せた。
「…気遣って下さったんですよね、私の事」
「…?」
「ああでも言って追い出さないと、今度は私が先生に叱られてしまったでしょうから…そうなる前に先輩が」
「いや…それは、その」
 必死に何かを言おうとするも、照れで言葉が継げない若者が視線をあちこちに彷徨わせる。
 職員室で桜乃を追い出した時の彼と同一人物とは思えないうろたえっぷりだった真田に、桜乃が深々と頭を下げる。
「私の方がご迷惑をかけてしまって…ごめんなさい」
 あの時、桜乃が職員室の外に追い出されてしまったその間際、真田は確かに彼女の耳元で言ったのだ。
『すまない』
と。
 きつい台詞を少女に投げかけていた時も、顔は平静を保っていたが、組まれた腕に隠していた掌は必死に何かに耐えるように握られ、打ち震えていた。
 自分の事を思ってくれているのが分かっていて、その上で叱責しなければならない悔しさ。
 桜乃もしっかりと相手の真実を見ていたからこそ、一見非情とも言える相手の仕打でも受け入れられたのだ。
 逆に謝られた真田は、どうしていいのか分からなかった様子だったが、すぐに彼女の肩に手を置いて頭を上げるように促した。
「いや…俺はいい。お前が何の咎めも受けず、嫌疑も晴れた…何より」
 そして視線を逸らしながら、純情な男は一番強く思っていた事を告白した。
「…例え濡れ衣でも、ああいう疑いをお前の前で掛けられてしまう事が、俺には辛かった。見てほしくなかったのだ」
「真田先輩…」
「だが、それでもお前に酷い事を言ったのは事実だからな…何か詫びを…」
「いえ、そんなに気になさらないで…今日はエイプリルフールなんですから」
 遠慮して申し出を辞退しようとする少女に、しかし真田が珍しく食い下がった。
「いや! それでは俺の気がすまん、から……その、お前さえ良ければ、今度一緒に…」
「…?」
「一緒に…外で、食事でも…」
「!」
 己の身に降りかかった嘘の厄災を福に転じた純情な堅気の男は、その日一日、仲間達に大いに冷やかされたという…





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