エイプリルフール2010・柳生編
「今日はエイプリルフールです!」
「? ええ、確かにそうですが…やけに気合が入っていますね、竜崎さん」
その日、立海男子テニス部部室内で、マネージャーである竜崎桜乃がやけに真剣な表情でエイプリルフールという単語を口にしていた隣では、元レギュラーの柳生比呂士が持参の文庫本に目を落としていた。
元レギュラーということなので部活動に参加『義務』はない筈なのだが、これまでずっと慣れ親しんでいた古巣にいきなり来なくなるというのが落ち着かないということらしく、柳生のみでなく他の元レギュラー達も、春休みに突入した現在も相変わらずまめに姿を見せている。
しかし、お蔭で相変わらず部内が賑やかになるので、桜乃達は彼ら先輩の来訪を心から歓迎しているのだった。
「…もしかして、誰か騙したい相手でもいるんですか?」
眼鏡に手をやりつつ笑いながら尋ねて来た若者に、桜乃はいえいえと手と首を振りながら否定した。
「ち、違います、逆ですよう」
「逆?」
元々、桜乃が誰かを騙す企みをしているとは毛頭考えていなかった柳生は、特に疑う事もなく相手の台詞を信じ、続きを促した。
「私、ずっと幼稚園の頃から、エイプリルフールに友達に騙され続けてて…」
(ああ…そうでしょうねぇ)
口に出して納得しないのは、勿論、『紳士』ならではの心遣い。
人の良いこの娘は格好の的になっていただろうと思いながら、何処か楽しそうに柳生は桜乃を見つめる…眼鏡に隠された、優しさを宿した双眸で。
そんな彼に、桜乃は過去を思い出しながら、力一杯に力説を続ける。
「もう毎年毎年、エイプリルフールの日になる度に『今年こそは騙されないぞ!』と心に誓いながら外に出かけていたものです」
「成る程…で、何回ぐらい達成されたんですか?」
「…」
何気ない紳士の質問だったが、そこで急に少女の言葉が途切れ…彼女は哀愁漂う背中を向けてぽつんと言った。
「…達成された試しがないから、毎年決意しているワケで…」
「すみません! 無神経な質問でした!」
慌ててフォローする柳生に、いつの間に部室に入って聞いていたのか、相棒の仁王が呆れた様子で笑いながら近づいてきた。
「なにやっとるんじゃお二人さん。人を騙すんは人として当然の性って奴じゃろうが」
「この世の全人類に謝りなさい、仁王君」
貴方を世界の基準にしてもらっては困ります、と柳生はすっぱりと切り捨てたが、相手はさして痛みも感じていない様子ではいはいと笑い、改めて相手を見直した。
「人を信じるのは確かに美徳じゃろうが…そう言えばお前さんは、騙すのもそうじゃが騙されるところもそう見た事がないのう? 信じるフリして実は疑ってかかっとるんか?」
「身近に詐欺師の良い例がありますからねぇ。それに信じる事と盲信することは違うでしょう」
「そう言えばそうじゃな」
納得した様子で頷くと、仁王は今度はまだ少し落ち込んでいる桜乃へと近づいて行き、ぽんと優しく肩を叩いた。
「ま、お前さんもそう気張らずに。イライラしとったら身体にも悪いぜよ。ほれ、これでも噛んで落ち着きんしゃい」
そう言いながら彼が差し出したのは、オレンジフレーバーの板ガムが入った筒だった。
「はぁ、有難うございます」
「あ…っ」
何かを感じたらしい柳生が慌てて桜乃に向かって手を差し伸べ、彼女を止めようとしたが、その時には既に彼女の指は板ガムの一枚に掛かっていた。
そしてそのまま引いていき…
ぱちんっ!
「きゃんっ!」
突然、板ガムに見せかけたびっくり玩具が発動し、桜乃の指先がバネ仕掛けに軽く挟まれてしまった。
力加減は仁王によって予め最弱に設定されていたのか、殆ど痛みは感じなかったものの…
「はい、今年も撃沈、と」
「あーんっ!! 仁王先輩のバカ〜〜〜〜〜ッ!!!」
一日どころか、午前中に早速騙され、決意を思い切り砕かれた哀れな少女が涙目で相手を非難し、止めようと思いつつも間に合わなかった柳生もそれに便乗した。
「仁王君っ!! 何て事をするんですか!?」
「うるさいのー、俺じゃなくてもどうせ他の奴らに間違いなく騙されるんじゃけ、それならずっとびくびくしとるより最初っから玉砕した方が、後々気楽に過ごせるじゃろうが。ストレスは身体によくないぜよ」
「ううっ…言い返せない自分が悔しい」
「竜崎さん、貴女はもうその悪魔には近づかないで、さ、向こうに行きましょう」
これ以上仁王に何かさせるまいと、柳生がいそいそと彼女の背中を押して部室から出るように促すと、その悪魔がにやっと意味深な笑みを浮かべて嘯いた。
「柳生よ〜、気に入っちょるからって純粋培養しとったら、あっちゅう間に枯れるぜよ?」
「聞こえません!!」
色々とごたごたはあったものの…部活そのものは無事に終了し、桜乃はなし崩しに柳生と一緒に途中までの帰路を辿っていた。
「う〜…確かに気負いがなくなった分、気楽には過ごせましたけど…腑に落ちないです」
「見事に詐欺に掛けられましたねぇ…」
桜乃の心中を察しつつ柳生はそう答え、しかし、と続けた。
「エイプリルフールとは言いますが、闇雲に人を騙す行為というのは、やはり性に合いませんね」
「ああ、私もそうです。騙そうと思う時点で疲れちゃって…仁王先輩ってどうしてあんな疲れる事を次々やれるんでしょう、尊敬します」
「いえ、人としてそれはどうかと」
そんな事を言いながら歩いていた二人が信号に差しかかった時、彼らが来る前にその場にいた一人の老女が、きょろきょろと手書きの地図らしき紙を片手に周囲を落ち着きなく見回しているのが目に付いた。
「?」
「…?」
互いに『どうしたんだろう』という視線を交わし…心の答えが一致した事を感じて、桜乃がその老女に声を掛ける。
「あの、何かお困りですか?」
最初に声を掛けられた時にはびっくりした様子の相手だったが、声の主が柔和な笑顔の桜乃だと知ると、やや警戒を解いた様子で答えてくれた。
「ああ、ちょっと道が分からなくて…ここに行きたいんですけど」
「ええと、拝見します…」
地図は、おそらく目的地に住む人間が書いてくれたものだろうファックス用紙だった。
幸い必要最低限の情報は詳細に書き込まれており、しっかりと確認していけば目的地に着くのは然程難しくはないだろう。
只、周囲の地理に詳しくない高齢の人にとっては、ややハードルは高め、かもしれない。
(ふむ…)
上から同じく覗き込んでいた柳生が、桜乃に続いて目的地を確認していると…
「あ、ここなら私と方向が同じですから、一緒に行きましょう、おばさま」
「え? いいんですか?」
「…!」
桜乃の寮の場所が丸っきり正反対の方角であることを知っていた柳生が、は、と微かに驚いた様子で少女を見たが、彼女はけろっと、さもそれが真実です、という様に頷いていた。
「はい、目印の場所も知ってますし、どうせ行く方向は一緒なんですからついでですよ」
『ついで』という言葉が老女の心配と罪悪感を大きく取り除いてくれたのは確からしく、桜乃が胸を張ってそう言ったことに、向こうはほっとした様子で頷いた。
「じゃあ、お願い出来ますかねぇ。私一人だとやっぱり不安で…」
「はい、いいですよ。あ、じゃあ柳生先輩、私ここで…」
帰り道が変更になったことで必然的にここで別れることになる為、桜乃はさり気なく相手に挨拶をしたのだが、彼は笑いながら首を横に振った。
「ああいえ…実は私もこちらに用事があるんですよ。丁度いいですから一緒に済ませてしまいましょう」
「え…」
桜乃が驚いている隙に、柳生は老女に恭しくお辞儀をしながら助力を申し出た。
「宜しければ、お荷物をお持ちしましょう。さぁ、どうぞ」
「まぁまぁ…本当にいいんですか? ご親切にどうも…」
「柳生、先輩…」
老人の持っていたバッグを受け取りながら、その紳士は少女の戸惑いの視線を柔らかく受け止め、頷いて見せた。
「さ、行きましょうか竜崎さん。『私達の用事』もあることですし、ね」
桜乃と柳生の同行のお蔭で、その老女はちゃんと目的地である友人の家に着くことが出来、笑顔で二人と別れた。
「本当に有難うございました、お二人とも」
「いえー、お役に立てて何よりです」
「では、我々は失礼致します」
友人宅の玄関先で挨拶をし、老女が奥へと導かれてドアが閉まる。
「……」
「……」
暫くの沈黙の後、最初に声を出したのは笑みを零した桜乃だった。
「…柳生先輩、嘘つきましたね」
「ええ…貴女もね」
互いの嘘をとっくに見破っていた二人は、改めて顔を見合わせほっこりと笑い合う。
嘘をついたのに、心は何処か温かい。
「…たまにはいいですよね」
「エイプリルフールですしね…それにしても竜崎さん。人を騙すのは苦手と仰っていましたが、あの時の貴女、なかなか堂に入ってましたよ?」
「え、そうですか? でも…」
指摘された桜乃はちょっと驚いた様子だったが、それはすぐに無邪気な笑顔に変わった。
「こういう嘘なら、何か自然に出てきちゃうというか…おかしいですね」
「…いいえ」
眩しい。
眼鏡を通していても視線を逸らしてしまいたくなる、この眩しさと胸の苦しさは何だろう?
嘘は嘘。
欺瞞と言われたらそれまでかもしれない、しかし彼女のそれは…
「私は…貴女の嘘は、好き、ですよ」
くい、と眼鏡の位置を整えながら、遠慮がちに言った柳生の台詞に桜乃がきょとんとする。
「嘘なのに? 好きなんですか?」
「ええ…嘘でも、貴女の優しさが感じられるからでしょうね」
「や、優しさって…大袈裟です」
「…」
照れる少女を見詰めながら、柳生がひそりと小さな声で告白した。
「そんな貴女が…大好きですよ」
「え…?」
「…いえ、何でもありません」
届かなかった告白を心の奥に再び仕舞いこみ、紳士は少しだけ残念そうに笑うと、愛しい女に意味深な台詞を投げかける。
「いずれまた近いうちに、貴女に言う事になるでしょう。わざわざ嘘で溢れた今日という日を選ばなくてもね…それに私もそろそろ限界に近いようですから」
「? はぁ…」
結局、紳士の想いを聞けずに終わった少女だったが、彼の愛の告白を聞く日も、そう遠くはないだろう…
了
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