エイプリルフール2010・柳編
その日の桜乃は、所属しているテニス部の活動が済んだ後、友人達と一緒に近くの街にウィンドウショッピングに出かけていた。
「あ、これ可愛いね」
「うん、デザインもいいし」
年頃の女性達が集まり、きゃいきゃいと喜び騒ぐ姿は、春休みである今の時分には至る所で見られる。
彼女たちの他にも同じ様に春を満喫している若い女性達は、皆、訪れた春の陽気の所為か笑顔にも艶があった。
「こういう春っぽいデザイン見るとうきうきするよねー、後は隣に恋人がいたらカンペキ」
「あー憧れるー。『これ似合うよ、買ってあげる』とか言われてみたい〜」
「今日はエイプリルフールだし、嘘でもいいから誰か言ってくれないかな〜〜」
「あはは、それはそれで悲しいよー」
春は新しい出会いと別れの季節。
ついでに言うと、その新しい出会いの中には素敵な異性とのそれも含まれている。
女性だろうと男性だろうと、少なからずそれに期待を寄せる人間がこの季節多いのは否めない事実だ。
「そうだねー」
中にいた桜乃も友人達のそんな台詞にうんうんと頷いていたが、そんな彼女に友人の一人が、でも、と相手に問いかけてきた。
「桜乃はあのテニス部マネージャーなんだから、イイ男なら選り取り見取りなんじゃない? 誰かコナ掛けた人っていないの?」
「そんな人をパン生地みたいに…」
桜乃は苦笑しながらも、相手の質問にはふるるっと首を横に振った。
「ないよぉ、だって天下の常勝立海の人達だよ? 皆さんテニステニスで、女の人よりテニスボール喜んで追っかけてる感じだもん」
「あ〜ストイックだよね〜」
「でもそんな人達の中でも特に仲がいい人とか…桜乃、よく付いて回ってるじゃない、えーと」
「あ、柳先輩?」
「そうそう」
得られた回答に満足して頷いた友人が、で?と桜乃に突っ込んだ質問。
「その人とかどうなの? イイ感じになったり…」
「うん、凄くいい先輩だよ。分からないところがあっても親切に教えてくれたり…」
徐々にずれてゆく桜乃の回答を、慌てて他の友人達が引き戻す。
「いや、そういう意味のイイ人じゃなくてね…」
「その人とか、恋人にどうって言ってるの!」
彼女達にとっては何気ない発言だったが、それを聞いた桜乃はきょとんとして…見る見る内に真っ赤になっていった。
「そっ…そんな畏れ多い事考えたことないからっ…柳先輩は凄い人だから、私なんかただの後輩って思われてるだけだよ…」
そんな乙女を見て、友人達はああ…と心の中で頷いた。
(…自分が相手を好きだって自覚なかったんだ〜)
(でも、これはもう間違いないよね…向こうがどう思っているかは別として)
それからも桜乃の顔の火照りはなかなか引かず、調子が狂いまくっている桜乃に落ち着く時間を与える意味で、友人達は一旦選んだ物をレジへと持っていくことにした。
「じゃあ、一旦中に入るねー、桜乃は買うものないの?」
「うっ、うん…だ、大丈夫…」
大丈夫ではないかもしれないが、別に買わなくても支障が出る訳ではないだろう。
暫く一人にした方がいいかも、という判断の許で友人達が店内に消えた後も、桜乃はそわそわと落ち着かない様子で品物に手を伸ばしていたが、明らかに視点は定まっていない。
(恋人、か…そんな事考えてもみなかったけど…)
しかし友人の台詞で意識させられた事で、桜乃の脳内には柳と一緒にその場に立つ自分がリアルに浮かんでいた。
『これは…お前に似合いそうだな』
落ち着いた、人を安心させる魔力を秘めた声で微笑みながらそう呟き、手にしたアクセサリーを掲げている若者は、きっと想像しているより遥かに凛としているだろう。
(羨ましいなぁ…そう言ってもらえる人…)
自分は大した取り柄もないし、正直高嶺の花過ぎる…と諦めを含んだ溜息をふぅ、と吐いた時だった。
「あれ〜? カノジョ、一人?」
「?」
実に軽いノリの言葉が背後から聞こえてきて、桜乃が何気なく振り返ると、見ず知らずの男と視線が合った。
脱色された寝起きの様な髪型、ひょろっとした体型、いかにも信用ならない人間の見本の様な若い男。
(…真田先輩がいたら、バリカン持って追っかけそう…)
なんて事を桜乃が呑気に思っているとは知らず、相手は初対面の桜乃に対して堂々と肩に触れながら、遠慮もなく口を開いてきた。
「ねぇ一人なら一緒に遊ばない? 俺ちょっと暇してるしさ、どっかに美味しいもの食べに行こうよ」
「いえ、結構です」
「まぁそう言わずにさぁ」
柳の様な人間的にも尊敬出来る男性を思い出していた直後に、こういう類の男性を間近で見るのは最早拷問に近いものがある。
(…ついてないなぁ)
こういう人間に目を付けられて話しかけられるって事は、やはり自分はその程度の女性にしか見えないということだろうか…と軽く欝になりながら、桜乃は早く店から友人達が出てくる事を願った。
こうなったら彼女達が来て、連れがいるから、と言い訳をつけて離れるしかないだろう…
そんな事を企んでいた桜乃の耳に、不意に別の男性の声が聞こえてきた。
「俺の彼女に何か用か?」
「!?」
勿論、桜乃には恋人などいない。
最初は自分を恋人と間違えた誰かが割り込んできたのかと思った桜乃だったが、男の陰に隠れていたその人物が、ふいと向こうから顔を見せた瞬間、声を上げそうになった口を慌てて手で隠して耐えた。
(柳先輩…っ!?)
自分も参加していた部活動の帰りと思われる柳が、制服姿でラケットケースを抱えた状態で、男の肩を掴んで相手の動きを牽制している。
「何だお前」
「人に物を尋ねる前に、先ずは彼女から手を離してもらいたい…俺のものだ」
「!!!!!」
恋人ではなく咄嗟の助け舟であったとしても、そんな台詞は相手の女性の心臓に悪い。
(や、やややや柳先輩っ!?)
必死に目で訴えてみたものの、それを確実に受け取っていながら柳は涼やかな表情で薄く笑みさえ浮かべている。
『いいから、お前も俺に合わせろ』
声なき声を聞き、この状態を突破するには確かに相手の誘いに乗るのが一番だと判断したところで、桜乃も腹を括った。
照れながらととっと柳の方へと走りより、ぴっとりと密着すると、ふわりと彼の腕が守るように包むように桜乃の身体に回され、腰を抱く。
「〜〜〜〜!!」
桜乃の赤面振りは不自然な程に酷かったかもしれないが、片方の柳は涼しい顔をして堂々としていたので、確かに二人を知らない人間から見たら、非常に内気な彼女とその彼氏に見えなくもない。
「この子は俺の恋人だ…なぁ、そうだろう?」
「は、はい…そう、です」
桜乃に敢えて尋ねてそう答えさせると、柳は改めてナンパ男へと冷えた視線を注ぐ。
「そういう訳だ…他を当たってくれないか」
「ちっ、何だよ、彼氏持ちか」
相手がいる場合のナンパ成功率は、余程の高スペックでない限りほぼ望みはないという事実ぐらいは男も知っていたらしく、早々に諦めてぶつぶつ言いながら去っていった。
そして柳と桜乃だけが残り、取り敢えずは解放された安心感で少女がふぅ〜と息を吐き出した。
「災難だったな」
「す、すみません柳先輩! 助かりました!」
「お前が謝る必要はない。何事もなくて良かった」
「はぁ…あの、それで…」
「?」
「…そろそろ、手を…そのう」
「…ああ」
指摘された後も特に慌てる様子もなく、柳がゆっくりと彼女の腰に回していた手を解く。
もしかしたら柳本人は指摘されるまでもなく今の姿勢を自覚していたのかもしれないが、兎に角二人はそこで互いに向き合う形になった。
(う、うわ…どうしよう…妙に先輩のこと、意識しちゃって顔が見れないよ)
それでも何とか言葉を紡がないと、と必死に考えて、桜乃は礼をしつつ柳に詫びた。
「すみませんでした…助ける為とは言え、先輩に嘘をつかせるような事になってしまって」
「嘘?」
「あ、そのう…私の事を恋人だなんて言わせてしまって、幾らエイプリルフールでも良い気分じゃなかっただろうなって…誤魔化して下さったんですよね?」
「……ふむ」
「?」
何かを考える様に口元に拳を当てて無言になっていた若者は、やがてその拳を開いて、さわさわさわと少女の頭を優しく撫でると、すいっと踵を返した。
「? 先輩?」
「…これはそのままにしておくべきだな…失礼」
「はい?」
何がどうしてそのままにしておくべきなのかは何も語らず、柳はその場を去ってしまった。
嘘をついた事に対しての嫌悪感などは見られなかった様に感じたが、最後の彼の言葉は気になる。
しかし、その後すぐに友人達が店の中から戻って来たこともあり、結局桜乃はそこで柳とは別れてしまったのだった。
翌日
テニス部マネージャーである桜乃は、春休み期間中と言えど甘えることなく、その日の朝もコートに出て部員達の管理を行おうとしていた。
マネージャーである以上、部活動が行われている時にはちゃんと参加しなければならない、それが責任というものだ。
(昨日も一応お礼は言ったけど…)
「お早う、竜崎。まだ誰も来ていないのか」
朝練の準備をしていたところで、桜乃の前に今頭の中で考えていた先輩の姿が現れた。
柳だ。
どうやら昨日と同様、既に引退した身にも関わらず、今日も特別に活動内容について観察・指導を行ってくれるつもりの様だ。
「あ、お早うございます、柳先輩。今日も来て下さったんですね?」
「ああ、どの道進学が決まっている以上、他にやる事もないからな」
「有難うございます」
「いや…ところで竜崎」
しっかりと制服を着込んできた柳が、バッグを地面に置いてから桜乃に向き合うと、軽く片手を胸元に掲げつつ質問をしてきた。
「今日は午後は空いているか?」
「は、あ…特に用事はありませんけど」
それを聞いた相手は安心した様に薄く微笑み、続けて彼女に言った。
「そうか、では俺に付き合ってくれ。デートがしたい」
「……」
前半部はともかくとして、後半部の意味が分からない…
呆然とした少女に、訝しげに柳が呼びかける。
「竜崎?」
「は、は、は、はいっ!?」
意識がある事を確認して、柳が再度希望を述べる。
「お前とデートがしたい。部活が終わるまでに何処がいいかお前も考えておいてくれ、出来るだけ二人の希望が重なる処に行こう」
さっさと話を進めてくる先輩に、慌てた少女が挙手をしながら必死にそれを止めた。
どうやら相手は冗談や寝惚けてそんな事を言っている訳ではないらしい…が、それでもどういう事なのかが分からない!
「す、すみませんっ! あの、普通デートって言ったら恋人同士がやるものなんじゃ…」
「その通りだ」
「それじゃあ、先輩と私は…」
「恋人だろう?」
「え?」
きょとーんとする桜乃に、柳はしれっとした態度で断言した。
「俺は昨日、お前に言った筈だ、『俺の恋人だ』と。お前にもちゃんと確認をとったな?」
「それは……確かに…」
思い返してみると、自分は相手の言う通り『そうです』と肯定の答えを返している、しかし…
「で、でも…私、あれは嘘だって思ってて…エイプリルフールだったし、先輩もそのつもりで…」
「俺は嘘だとは一言も言っていない。お前の嘘だろうという問いにも一切答えていないし、あれから別れた以上、恋人という宣言は誤魔化しだと認めた事にもならない…そしてエイプリルフールが昨日となった以上、今更それが偽りだったという弁解は効かない」
つらつらつらと論理で桜乃の言葉を封じながら、柳はゆっくりと相手に近づき、また昨日の様に今度は正面から彼女の腰を抱いた。
「っ!?」
「よって、お前はまだ、そしてこれからも、俺の恋人ということになる…何か異論は?」
「う…」
こちらが異論を出したところで、おそらく即座に論破する気満々らしい若者に捕えられ、桜乃は嬉しさと戸惑いが入り混じり混乱する中で一つだけ訴えた。
「…じ、じゃあ…一つ、だけ…」
「ん…?」
「…好きって、言って下さい」
恋人になったのに、まだ、大事な言葉を聞いてない…
「!」
少女の鋭い指摘に、若者がはっと驚きの感情を覗かせ、そしてそれはそのまま苦笑へと変わっていった。
「…ああ、そうだったな」
ぬかりない筈だったのに、やはり自分も今回ばかりは冷静さを貫けなかったようだ。
若干、順番が前後してしまったが…しかしまだ手遅れではない。
それどころかこの言葉は、これからも数え切れない程、紡ぐことになるだろう。
それは決まって、この娘の耳元で…
『大好きだ…桜乃』
了
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