エイプリルフール2010・幸村編


「四月一日って言えばさ、まだまだ春休み真っ盛りって感じだよなー」
「だな」
 その日の朝のテニスコート脇、立海大附属中学の三年生だった丸井ブン太とジャッカル桑原が、他の非レギュラー達の練習試合を眺めつつ、ぼーっとそんな会話を交わしていた。
 『三年生だった』と過去形なのは、彼らが既に中学校を卒業しているからであり、もう一週間経過しない内に今度は高校生という肩書がつくからだ。
 既に中学の男子テニス部を引退して久しい彼らだったが、これまでずっとテニス漬けだったテニス大好き小僧達であり、今は暇を持て余している状態なので、自主的に後輩達の面倒を見がてら古巣のコートに足を伸ばしているのである。
 それは二人に限った事ではなく、他のレギュラーだった三年生達も同じ様なものだったのだが、今日はそれとはまた少し異なる例外的な行事があった。
「なのに、わざわざこの日に全校生徒集めて集会だなんて、立海(ウチ)の教育熱心さは凄いもんがあるよなぁ」
「卒業生の俺達が、気を緩めてバカしないように気を引き締める目的もあるんだろ。休みの最中にやんちゃが過ぎて、内定取り消された奴の話も毎年聞くし」
 丸井の台詞にジャッカルが尤もな返事を返すと、向こうはくるっと顔を相手へと向けて意味深な笑みを浮かべた。
「しかもわ・ざ・わ・ざ、エイプリルフールにってのがまた、なぁ…」
「やめろ、コッチは考えないようにしてるんだ」
 どうあっても苦労人の根性が抜けきれないジャッカルにとっては、この日はどうやら厄日そのものであるらしく、過去の苦労を思い出してかあからさまに渋い表情を浮かべる。
 そんな二人の耳に…
「何の話だい、二人とも」
と、穏やかな呼びかけが聞こえてきた。
「お、幸村」
「エイプリルフールの話だよい」
 丸井の屈託のない返事を聞いた、元部長である細身の男は、その単語に納得した様に頷いた。
「ああ…そう言えば今日だったね。なに? 誰か気合入れて騙したい相手でもいるのかい?」
「や、そりゃジャッカルでしょっちゅうやってるからいいけどさ。学校もよくこの日に集合掛けるよなーって思って」
「何気にさらっと酷いコト言ったなお前…」
 相変わらずのコンビにくすくすと楽しそうに幸村が笑い、自分の身に置き換えて考える。
「そうだね…家の中にいるよりはやる気が出るかもしれないな…でも、俺はエイプリルフールに騙されそうになった覚えはないけど、どうしてだろう?」
「…」
「…」
 心底不思議そうな口調の元部長に、二人ともが口を閉ざす。
 しかし双方の心の中では、ほぼ同時に『そりゃーそうでしょう』という言葉が大音量で流れていた。
 立海の中でも最も美麗でモテる男である幸村だが、そんな若者のもう一つの顔を、二人はよ〜く知っている。
 確かに彼は無害な人間に対しては極めて温和な性であるが、己に敵対する者や規律を乱す者に対しては兎に角容赦がない。
 しかもその時も怒りを露にするのではなく、柔和な笑顔の向こうで羅刹の憤怒の形相を髣髴とさせ、相手を一層震え上がらせるのだ。
 もし仮に、エイプリルフールで彼の機嫌を損なう様な下手な嘘をついてしまったら…

『ふぅん…なかなか面白いジョーク・センスだね……けど、笑えないなぁ』

 笑えない、と言いながら、陰を含んだ笑顔でさらっとそんな台詞をのたまい、相手を畏怖と後悔の念で押し潰してくれるだろう。
 幸村がエイプリルフールの実害に遭遇していないのは、彼のそんな隠された一面を、他の者達も本能で感じているからだ。
(おおっかね〜よ〜〜〜い…)
(こいつには、あの仁王も簡単に手ぇ出さないって噂だからな〜〜〜)
 丸井達の裏の恐怖には気付きもせず、幸村がぽん、と軽く手を叩いた。
「さ、そろそろ各自ホームルームの時間が近いよ。君達も…」
「幸村先輩!」
 そこに女性の声が聞こえると、幸村の表情が不意に和らぎ、その声に顔を向けた。
「竜崎さん」
「そろそろ朝練を切り上げようと思うんですけど…今日も部員の皆さんへのご指導、有難うございました! やっぱり元レギュラーの方々がいらっしゃると気迫が全然違いますね」
 おさげの少女…男子テニス部マネージャーである竜崎桜乃が、幸村から丸井、ジャッカルへと視線を移しながら、嬉しそうに礼を述べた。
「お礼を言われる程の事じゃないよ。俺達も君達に会うのは純粋に楽しいし、嬉しいことだからね」
「そう言って頂けると…」
 えへ…と照れ笑いを浮かべる少女に誘われるように、幸村も笑みを深めて『よしよし』と彼女の頭を優しく撫でる様を、ジャッカル達が何となく微妙な表情で眺める。
(あ〜…相変わらず激ラブだわ…)
(こんだけ猫可愛がりされて、向こうが未だ気付いてないっつーのも凄いな…まぁイイ子だけど)
 幸村が、目の前の少女に心底惚れている事は元レギュラー達には既に周知の事実…知らないのは当人である娘ぐらいだ。
 もし彼女が心無い嘘に傷つけられたら…おそらく己がそうされる以上に幸村は激怒するに違いない。
 立海一のモテ男の心を射止めたのが自分であるという事も知らない、鈍感で純粋な娘を見つめながら、ジャッカル達は彼女がエイプリルフールの犠牲者にならない事を心から祈っていた…


 休み期間中の一時的な召集の為、学校での行事は午前中で終了となり、その後、生徒達は各々散っていったのだが、立海テニス部部員達は、それからまたコートに集まっての練習となる。
 但し、腹が減っては戦は出来ぬ、という諺にある様に、練習開始前に昼食を済ませてからの活動になるので、幸村はホームルーム後の教室で家から持参してきたサンドイッチを食べ終わり、そのまま部室に向かっていた。
(まだ誰も来てないかな…)
 そんな事を考えながら、かちゃっと部室のドアを開けて幸村が先に見たものは…
「…っ」
「! 竜崎さん…?」
 備え付けの机の前に座り、自前の弁当箱を前にしていた桜乃が、口元を押さえ、耐え切れなかった涙をぽろぽろと流している衝撃的な現場だった。
 ただそれだけ…それだけの光景だったにも関わらず、幸村の全身の血液が冷えた。
「ど…どうしたの!? 何があったの!?」
 自分の事の様に…いや、それ以上の緊迫感を持って迫ってきた相手に、彼に気付いた桜乃ががたっと慌てて立ち上がりながらふるふると首を横に振った。
「あ…い、いえ、何でもないんです、何でも…」
 そして涙の跡を残したまま、ほんの少しおどける様に続ける。
「ちょっと…失恋しただけです…なーんて…」
「!!」
 失恋…?
 という事は…振られたのか…?
 この子を…夢中にさせた男がいる…!?
 その単語を聞いた瞬間幸村の表情が凍りつき、彼の細い腕が見た目からは考えられない力で桜乃のそれを掴んでいた。
「何処のどいつだい…? そんなふざけた事をしてくれたのは!」
「きゃーっ! ごめんなさいごめんなさい! ウソです冗談ですエイプリルフールなんです〜〜!!」
 陥落まで、一秒と持たなかった。
「…え?」
 聞きなおす幸村に、桜乃が恥じ入る様に俯き、弁解した。
「あの…失恋したっていうのは嘘です…ちょっと、本当の事を話すのは子供っぽくて恥ずかしかったから…」
「本当の事…? 何?」
 やはり聞き返さずにはいられなかった若者に対し、桜乃がうーっと上目遣いに見上げてくる。
「…笑いませんか?」
「?…うん、君がそう言うなら」
「本当に本当〜に笑いませんか?」
「……出来るだけ、努力するけど」
 笑わないかと問われても何であるのか分からない以上は確約も出来ない。
 それでも幸村が出来る精一杯の誠意を見せると、向こうもようやく覚悟が決まったのか、ぽそっと小さい声で本当の理由を話しだした。
「昨日、春休みを利用して実家に戻った時に、お祖母ちゃん達が色々とご馳走を出してくれて…」
「うんうん」
「寮に帰る時にもお寿司をお土産に持たせてくれて、今日のお昼はそれを持って来たんですけど」
「? うん…」
「…間違ってワサビ入りを持ってきちゃったの、気付かなくて…すっごいツーンとしてぇ…」
「……」
 つまり先程見た涙の理由は…ワサビの刺激が鼻に直撃したから…?
 真実を察した幸村が、徐に桜乃に背を向け、顔を隠しながら口元に右手を押し当てる。
「あーっ! やっぱり笑った〜〜〜っ!!」
「いや……その…」
 弁解の台詞がなかなか出てこなかったが、決して幸村は笑っていた訳ではなく…
(ああもうっ!…可愛すぎるっ、この子!!)
 鼻血が出そうな不安を覚えながら、心の中に吹き荒れる萌えの嵐を必死に遣り過ごそうとしていたのだった。
「う〜〜…子供っぽいって笑われると思ったから、内緒にしようと思ったのに…」
 まだそんな可愛い事を言っている桜乃に再び萌えつつ、ようやく若者は理性を取り戻しながら相手に向き直った。
「ごめん、でも笑ってないよ…そうか、だから失恋だなんて言って背伸びしてたんだ」
「……やっぱり、らしくなかったです?」
「らしくないって言うか、正直驚いたけど…そうだな」
 微笑みながらも、幸村は少し困った様に首を傾げる。
「失恋じゃなくて、嘘で良かったなって思ったよ」
「あ…心配して下さったんですか?」
(心配って言うか…ね…)
 君の心を虜にした男が、いなくて良かったって思っただけだよ…と、心の中でだけ暴露して、幸村がじっと桜乃を見下ろした。
「?」
「…」
 何だろうと無邪気に見上げてくる少女の視線に例えようのない高揚感を覚えながら、幸村は不意に…何気なく、隠していた想いを吐露した。
「好きだから」
 これまでは言えなかったのに…するりと自然に言葉が唇から零れていた。
 告白はもっとスマートにムーディな場所で、と、一応年頃の若者らしい理想も持っていた筈なのに、彼女の涙と失恋という言葉にガラにもなく焦っているのだろうか?
 ああ、そうかもしれない…彼女の目が他の誰かに向けられてしまう前に、俺だけを見てくれるようにと願わずにはいられない。
「え…?」
 しかし色男の告白の声は小さく、想い人の耳には届かなかったらしい。
「何ですか?」
 もう一度聞き返してきた相手に、幸村は唇を開きかけ…いや、と首を横に振った。
「…やっぱり今日は言わない」
「? どうしてですか?」
「だって、それもエイプリルフールの嘘だって思われたくないからね」
 この想いを、偽りのものと疑われたくはない…君にだけは。
「私は信じますよ?」
「だーめ、万が一ってことがあるし、俺にとっては大事なんだから」
「気になります〜〜」
 知りたい知りたい!と訴える乙女に、若者がくすっと笑って誘うように尋ねた。
「そんなに知りたい?」
「はい!」
「そう…なら、ね…」
 相手の気持ちを確かめてから、少女の耳元に口を寄せて、こっそりと囁いた。
「君がちゃんと今日の事を覚えていて、明日も俺に質問したら教えてあげる」
「明日、ですか?」
「そう」
「分かりました! 絶対に聞きますからねー」
「ふふふ…」
 好奇心に満ちた視線を向けながら尋ねてくる君に、真実の想いを告げた時、君は一体どういう表情をするんだろうね…
 でもその時にはもう、「嘘でしょう?」なんて言葉で逃げる事は出来ないよ…?
(言わせるつもりもないけどね…)
 忘れるもんか!とばかりに張り切る桜乃を、幸村は楽しそうに見つめていた。




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