邪魔だ、失せろ
「お、さくのすけ!」
「こんにちは、向日様」
その日、跡部景吾の妹である桜乃は、放課後に彼の所属する男子テニス部の見学に訪れていた。
跡部に実は妹がいたという事実はつい最近になって明らかになり、テニス部メンバー一同を大いに驚愕させたものだったが、最近はようやく彼女の存在も彼らの中に浸透してきたらしい。
今日の彼女の来訪にいの一番に気がついたのは、三年の向日岳人だった。
桜乃の事を『さくのすけ』と呼ぶのは氷帝の中でも彼だけである。
最初に彼女がレギュラーメンバーと顔を合わせた時、彼らは何気なく相手を『跡部さん』と呼んだのだが…鳳と日吉以外の全員、もれなく三秒後に吐き気を催してしまったのだった。
原因が彼女の兄の存在にあったことは言うまでもない…が、かといって彼が悪い訳でもなかった。
仕方なく彼らはそれぞれ桜乃の事を彼女の兄と区別する為『桜乃さん』や『桜乃ちゃん』と呼ぶことにしたのだが、その呼び方はどうやら、当初は妹を溺愛している跡部には気に入らないものだったらしい。
そんな跡部に『なれなれしく妹の名前を呼ぶな』と向日が注意され…考えた呼び名がよりによって『さくのすけ』。
最早呼び方云々ではなくセンスが問われるところだったが、桜乃本人がそれを気に入ってしまい、『いいですね、それ!』と応じてしまった為、今も向日は彼女の事をそう呼んでいる。
しかし以降、これ以上ヘンな呼び名をつけられては堪らないと思ったのか、桜乃の名を呼ばれることに跡部がそううるさく言わなくなったという点では、彼の功績は大きかったのかもしれない。
「見学?」
「はい、いいですか?」
「いんじゃね? さくのすけはいつも静かに見学してるし邪魔もしないから…何たって跡部の妹だもん、誰も文句言えないって」
「はぁ〜…流石景吾お兄様」
そこに、兄のカリスマ性にうっとりと感嘆している桜乃に気付いた、他のレギュラー達もぞろぞろと寄って来た。
「ああ、桜乃さん。来ていたんですか?」
「あ、鳳様、まぁ皆様も…」
「あんまりぼーっと立ってるとボールに当たっちまうぜ?」
宍戸がぶっきらぼうながらも優しい心遣いを見せ、ひらひらと手を振って桜乃をコートから少しだけ遠ざける。
「あ、すみません」
謝りながらととっと数歩退いた桜乃の肩が、とんっと何かに触れた。
「?…あ」
不意に上がる声は、明らかに寝起きの男のもの。
「桜乃ちゃんだぁ」
「あら芥川様…すみません、起こしてしまいましたね」
「いや、そっちが正解だろうけどさ…」
放課後の今時分になってもまだ寝ているっていうのは人としてどうよ…と向日が突っ込んでみたが、当人の芥川慈朗は、いつもの様に後輩の日吉に抱えられていた状態でぼ〜っと桜乃を眺め…
「…よいしょっと」
「きゃ…」
今まで日吉に預けていた身体を、今度は桜乃の肩へと投げ出してしまう。
「ちょちょちょ…先輩!!」
「幾ら何でもそりゃヤベーだろ!! 起きろ、おいっ!! ジロー!!」
やばいやばいと鳳と宍戸が慌てて相手を桜乃から引き剥がそうと手を掛けたが、向こうは眠ろうとしながらも桜乃にしっかりとしがみ付いて離れようとしない。
「何でぇ? こっちの方がふんわりしてて気持ちいいもん…高さも丁度いいし」
「すみませんでしたね、固くて」
「堂々とセクハラ発言してんじゃねーっての」
日吉と向日が突っ込んだものの、相手は相変わらず何処吹く風…
「…えーと」
今にも寝息をたてそうな若者に縋られたまま、桜乃は困った様にきょろっと辺りを見回した。
自分はどうしたらいいのかな…と純粋に身の置き場に困っていた少女が彼らから何らかの回答を得る前に…
ひょいっ…
「ふえ?」
『!!』
皆が見ているその前で、何者かが芥川と桜乃を強制的に引き離し、桜乃の制服の襟首近くを掴んでぶらんとぶら下げていた。
テニス部内でこれだけの力技を出来る人間は限られている…言うまでもなく、樺地だった。
「…あ。樺地様、こんにちはー」
「ウス」
ぶら下げられたままにも関わらず、桜乃は呑気に相手に挨拶している…実にシュールな光景だった。
そして、更にそこに加わった声。
「…何やってんだお前は」
「あ! 景吾お兄様!!」
樺地がいるということは…やはりそういう事だった。
テニス部部長の跡部景吾が、全員を見渡しながら悠々と歩み寄ってきて、最終的に桜乃の前に立ったのだ。
傍には同行していたらしい忍足もいる。
「えーと、見学に来ましたー」
(相変わらず微妙な空気を作る子やな…)
ぷらーんと樺地にぶら下げられたままにこやかに答える少女の姿は、何かが間違っている筈…と忍足が心の中で思った…が何も言わない。
そして同じくそう思ったらしい跡部は、樺地に目配せして先ずは相手を解放するように指示した後、久し振りに地面に立った妹にやや腰を曲げて顔を寄せ、びしっと人差し指を突きつけた。
「邪魔だ、失せろ!」
「ええええ!!」
いきなりの兄の暴言に妹は大いに驚愕し、彼の腕に取り縋った。
「ど、どうしてですか〜!?」
「どうしても! とにかくお前はとっとと失せろ、邪魔だ!」
つれなくも強引な兄に、桜乃だけでなく他のレギュラー達もブーイング。
「見学ぐらいならいいんじゃないですか? 跡部さん」
「えー! 冷たいなー跡部、さくのすけ可哀相じゃんか」
「邪魔になんてなってないと思うぜ、それに俺達もちゃんと頼りになる先輩として振舞っているし」
「そーだよお、跡部、横暴だぁ〜」
「テメエらのツラの皮の厚さは関東ローム層並だな…」
ぶちぶちとこめかみに青筋を浮かべつつ低い声で呟く跡部の背後で、忍足が向日達に渋い顔をしながらぶんぶんと首を横に振り、声を出さずに唇だけを動かす。
『逆や逆っ!! 邪魔なんは自分らや!!』
彼らに取り囲まれて仲睦まじく語らい、抱きつかれていた桜乃の姿を見た瞬間、跡部の周囲の空気が凍りついた現場を忍足は先程目撃したばかり。
この若き帝王は妹の桜乃を非常に可愛がっている…故に、異性が近づく事を何より嫌うのだ。
しかし、その場が練習するコートである以上、彼らに立ち去れとは言えない以上、取るべき手段は一つだけ…桜乃をその場から離す事だ。
(つまりさっきの台詞も、可愛い妹を他の男に近づけたくないが為の方便やったんやから…ったく、面倒な兄貴やわ)
忍足がしっかりと帝王の心情を把握し、それを彼らに伝える前に、当の本人である桜乃が動いた。
兄の言葉にショックを受けた様子でかっくりと肩を落とすと、学生鞄を持ったまま背中を向け、へこへこと力なくその場を立ち去ろうとする。
「分かりました、尼寺へ行きます…」
「だから何でそうなるっ!!??」
相手に失せろといいながら、跡部が物凄い形相で彼女の肩を掴んで引き止めた。
失せろと言っただけで、何で出家の問題が出てくるんだ!と言う兄に、桜乃はしょぼーんと完全に落ち込んだ様子で答えた。
「だって、邪魔だから失せろっていうことは、もう私は跡部家にはいちゃいけないってコトなんでしょう…?」
「…っ!」
完全に勘違いというか、素直に兄の台詞を受け止めすぎている少女は、ぴーっと泣き出した。
「私はもう、要らない子なんです〜〜」
『あー!! 泣−かした泣−かしたーっ!! いっけねーんだ〜〜〜っ!!』
「今日の練習、覚悟しやがれお前らーっ!!」
そもそも誰の所為だと思ってんだ!!と、周囲で騒ぐレギュラー達に罵声を浴びせた跡部は、仕方なく嘆く妹の肩をぽんぽんと叩いた。
「ああもう…分かった分かった、面倒臭え…そんなに見学したいなら好きにしな」
「…?」
くすん…と鼻を鳴らして顔を上げた少女に、跡部はバツが悪そうに顔を背けながら言った。
「要らないって事はねぇよ、お前は俺様の大事な妹だ…ただ、コートで目の前ちょろちょろされたらこっちだって迷惑だし、お前も危ないだろうが」
「他の男に取られたくないって理由は…」
むぎゅっ!!
「〜〜〜〜〜っ!!!」
らしくない失言で、思い切り足を踏まれた忍足が声も出せずにぴょんぴょんと片足で飛び跳ねているのを他所に、跡部は桜乃の両肩を抱き寄せながら彼女の顔を覗きこんだ。
「だから、見学してぇんなら邪魔にならないように、俺の後ろについてな。そうしたら俺の指導にも支障はねぇし…お前も守ってやれるからな」
テニスボールからだけじゃなく、男達の視線からも…とは心の中だけで呟いて。
「!…はい、景吾お兄様!」
ようやく涙を止めて笑ってくれた妹を見届けると、跡部は安心した様子でぐっと手にしていたラケットを握りなおした。
「……さて?」
深く低い声…帝王の笑みを含んだ台詞が氷の刃に変わる。
「…そろそろ覚悟は出来たか…? お前ら」
その日の氷帝の練習が、地獄の特訓になったことは言うまでもないだろう…
了
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