靴を舐めろ
「ひどい目に遭わされた」
「すまなかった、俺の監督不行届きだ」
或る日の青学男子テニス部部室内に於いて…
氷帝の若き帝王は腕を組んで憮然とした様子で青学の部長、手塚国光と向き合っていた。
彼の隣には同じ氷帝のテニス部レギュラーである忍足侑士。
手塚の隣にはむすっとした表情の一年生、越前リョーマと、同じ青学の学生で彼らを応援している竜崎桜乃の姿もある。
因みに桜乃は部の顧問、竜崎スミレの孫という縁もあった。
「事の次第はよく分かった。しかしお前にそういうモノを飲ませたのは、決して今からの練習試合、こちらが有利に立とうという卑劣な考えからではない事は理解してくれ…」
「そんなコトしなくても勝てるッスからね」
「越前!!」
粛々と跡部に詫びの言葉を述べていた手塚の台詞に割り込んで、越前は生意気な口を叩いたが、速効で相手にきつく叱りつけられてしまう。
そんな彼らの様子を、傍で見ていた桜乃ははらはらとした様子で見守っている。
事の起こりはほんの数分前。
青学まで練習試合に訪れていた跡部に、越前が乾の作成した試作の特製ジュースをふるまったのだ。
そもそもそういう危険物質を飲ませたのは、相変わらずな跡部の俺様な態度にムカついたという至極単純な動機だったらしいが、兎に角、飲まされた方には効果覿面だった。
青学のごく普通の男子学生を一人悶絶させたという曰くつきの飲み物には、流石の帝王も思い切り苦しめられ、一時的とは言えお花畑と綺麗な河の幻想まで見えたらしい。
渡らなかったのは不幸中の幸い。
「悪戯が過ぎるぞ、越前。今回竜崎の咄嗟の助力がなければ、跡部にもっと大きな被害があったかもしれん」
手塚の言う通り、その場にいた桜乃が跡部に水を運び、他の飲料を手配してくれたことで、相手は何とか醜態を晒さずに復活を果たせたのだ。
桜乃本人は、越前に自分がその問題の試作品を手渡してしまったという責任を感じていたコトもあるだろうが、跡部の恩人であることには違いない。
そういう経過があることもあって、彼女は今ここに同席しているのだった。
功績者であるにも関わらず、寧ろ今回の事に心を痛めている様子の桜乃をちら、と見遣った跡部は、そこでは何も言わずにそのまま視線を手塚と越前に戻した。
「心配すんな、俺もソッチがそこまでセコい真似をしたとは思ってねぇよ…客に毒飲ませるなんざ、ガキの悪戯にしちゃあ性質が悪かったがな」
「俺達、ケッコーああいうの飲まされてるッスよ」
「そうかい、お悔やみ申し上げるぜ」
言外に『ソッチが惰弱なんじゃないの?』と伝えようとしたらしい越前の台詞をあっさり返すと、跡部はさて、といよいよ本題に入った。
「兎に角、こっちはそっちの一年の悪戯で『本当に』死ぬ思いをさせられた…相応の償いってヤツをしてもらうのがスジってもんだな…異論は?」
「ない」
全く持って反論できない帝王の発言に、腕組みをしながら手塚は即答した。
越前は確かに自分にとっては大切な後輩であり部員でもある…が、だからといって闇雲に保護したらいいという理由にはならない。
誰であろうと、どんな立場であろうと…責任はきっちりと負うべきだ。
「お前の怒りは尤もだ、跡部…では俺達は何をすればいい?」
どうしたら、お前に対して償える?と真摯に尋ねてくる往年のライバルに、跡部は唇の端を持ち上げながら笑った。
「まぁ待てよ…お前はその場にはいなかったし、命令した訳でもない。俺が要求するのはあくまでも俺を苦しめた奴の償いだ…なに、これから試合もあるし、すぐに済むことさ」
そう言うと、跡部はターゲットを越前へと定め…笑みを深めて相手に命令した。
「俺様の靴を舐めな」
「!!」
ざ、と顔色を失ってゆく越前のみではなく、他に同席していた全ての者もまた、その場で固まった。
「跡部…?」
「口を挟むなよ手塚…お前はどうせグラウンド百周程度で手を打とうって性質だろうが、そんなのコイツには何ら罰にはならねぇよ……痛くないからな」
帝王は冷酷な微笑を称えながら、相手をびしっと指差した。
「罰ってのは痛みを伴うもんだ…グラウンド回ったって、それはこいつにとってはトレーニングと同義だろ? 苦しくはあるかもしれねぇが、痛くはない。甘えんだよ…誰かを悪戯に苦しめたなら、ソイツも同じく苦しむべきだ…俺の見立てでは、こういう『屈辱』がコイツには一番効く…違うか?」
「う…」
何処までも正論の跡部の台詞に、手塚は反論を封じられ、越前はぎらっと跡部をきつく睨み付けたが、相手は聊かも動じなかった。
寧ろ、そういう態度を返すということが、自分の発言を肯定している何よりの証だ。
「さてどうする…? もうすぐ試合も始まるな、さっさと舐めて手打ちにするか、それともここでずっと粘るか? 俺はどっちでも構わないぜ?」
「……っ!!」
ぎりぎりと歯軋りの音が聞こえてきそうな、そんな刺々しい空気を越前が纏いつつ、無言を守っていた時だった。
「…あのっ!!」
今までずっと大人しく推移を見守っていた桜乃が、一際大きな声を上げると越前と跡部の間に歩いてきて、跡部の方へと向き直った。
「あ、跡部さんの仰る事は正しいと思いますけど…それでも、今のはあまりに…!」
「竜崎…?」
必死な少女に越前が困惑の瞳を向けたが、彼女は軽く両手を広げて越前の前から譲る様子はない。
まるで、彼女自身が盾となって越前を守るように…跡部の前に立ち塞がっていた。
「…っ!」
余裕の表情で越前に罰を迫っていた跡部の眉がぴくんと跳ね上がり、ここで初めて彼の笑みの中に怒りの色が滲んだ。
(何故、ソイツを庇う…竜崎!)
今も言った様に、俺が求めている事は何ら的を外しちゃいない!
俺は俺に許された権利を行使しようとしているだけだ!
なのにお前は、それを認めて尚、越前を庇うのか…っ!!
俺じゃなく、その男の側に立つというのか…!!
「…フン、涙ぐましいコトだな」
絶対にそんな事はさせない…!
激しい想いを抱えながら、表面上はあくまでも余裕を見せ付けて、跡部は意地悪な笑みを浮かべると、今度は桜乃に挑発するような言葉を投げかけた。
「じゃあどうするって? 越前の代わりに、お前が俺様の靴を舐めるのか?」
「っ!」
出来る訳が無い…自分が要求している事が、どれだけ屈辱的な行為であるかは自分もよく分かっている。
身内ならばいざ知らず、赤の他人の為に人がそこまで身を挺して他人を庇うなど…
(さぁ、そこをどけ、竜崎…!)
いつまでも、ソイツの傍にいるんじゃない…!と、心の中で彼女が引き下がる事を期待していた跡部だったが…
「…分かりました」
「な…っ!!」
跡部と一緒に他の男達も驚愕したが、受諾した少女だけは寧ろ答えた事で覚悟が決まったのか肝が据わったのか、さっさと手塚と越前を部室の外に追い出しに掛かっていた。
「ちょっとお二人は外に出ていて下さい」
「り、竜崎!?」
「アンタが何で割って入ってくるのさ!」
「いーから出てって下さいっ!!」
あの二人を一喝で追い出し、がちゃんっと鍵を掛けてしまう。
これは女は強いという説を肯定しているのか…それとも彼女の中に流れる血の為せる業か…
「…出て行きそびれた」
こんな微妙な雰囲気の中にいたくない…と忍足は渋い表情を浮かべていたが、桜乃は彼の同席は良しと判断したのか、続けて追い出すような事はしなかった。
「忍足さんは証人としていて下さい…ズルしてないって誰かに見届けてもらわないといけませんから」
(重いがな〜…)
とほ〜っと涙目の曲者が重圧に押し潰されようとしている脇で、跡部が遂に声を荒げた。
「何で関係ないお前がここまでするっ!! アイツにそこまで義理立てする必要があるのか!?」
そこまでアイツの事を大事に思っているのか…っ!?
これはもう、自身の権利の主張ではない…明らかに嫉妬という感情だ。
分かっていながらも、跡部本人もそれを止める事は出来なかった。
「関係ないことないです…よく考えたら、そもそもの発端は私なんですから」
「…え?」
跡部とは対照的に、桜乃は淡々とした口調で答えながら、再び彼の前に立つとそのままその場で膝をついた。
そして、視線を相手の靴に向けながら続ける。
「あれを最初にリョーマ君に渡したの…私なんです」
「!?」
「だから、知らなかったとは言え、私にも責任はあるんです……それに、リョーマ君も跡部さんも凄くテニスが強いから、きっと二人はこれからも何度も戦うことになる…なのにこんな事をしたりさせたりした過去が残れば、二人とも、もう絶対にこれまでみたいに戦うことは出来なくなるから…後悔はしてほしくないから」
いよいよ桜乃が両手を床につき、頭をぐっと下げて相手の靴へと近づける。
例え女でも、越前ほどに勝気な性格でなくても、どれだけ恥ずかしい行為かは理解している。
隠そうとはしているが、その身と声は微かに震えていた。
「わ、たしなら、大丈夫ですから。皆さんみたいにテニスも上手くないし、あんな大舞台に立つことも無い……何の取り柄もない、ただの女ですから」
「…っ!!」
何の取り柄もない…だと?
じゃあ何で…お前はそんなに眩しいんだ。
ただの女なら、この俺様がここまで目を掛ける筈もないだろうが!
そんな事も分からないで、自分の価値も知らないで、お前は跪いて己から恥を被ろうとしているのか!?
「…!!」
桜乃が自分の右足に向けて唇を近づけてくる。
思わず一歩引こうとして…それを引き止めたのは跡部自身だった。
引きたい…が、ここで引いたら、帝王は己の言葉を、信念を覆してしまうことになる。
それは…己の誇りすらも否定してしまうことだ。
出来ない…!
しかしこのままでは、彼女が…
「〜〜〜」
優位に立っている筈の跡部の表情の方が、寧ろ苦悶に満ちていた。
そして、桜乃がそっと舌を覗かせていよいよ彼の靴の爪先に触れる…ところで、
「…ヨダレ」
『っ!?』
跡部と桜乃の動きをぴた、と止めた、場違いな台詞を述べたのは忍足だった。
「…が付くよなぁ、舐めると」
「忍足…?」
何を言っている、と振り返った跡部には敢えて視線を合わせず、相手はん〜と天井を見上げながら大きな独り言を呟き始める。
「跡部のスポーツシューズ…確かブランドの中でも特注品で、ケタが違うお値段やったよなぁ…ふ〜ん…お嬢ちゃんが靴を舐めたら、その靴がヨダレまみれになるワケや、へーえ…」
思わず想像してしまった二人がかきーんっ!と固まったところで、忍足がにや〜っと嫌な笑顔。
「言いふらしたろうかな〜…『跡部の靴は女のヨダレまみれです』って」
「忍足、てめぇっ!!」
「そ、そこまでしませんっ!!」
二人揃っての抗議を受けたところで、忍足はまぁまぁと両手で彼らを宥めた。
「な? それって跡部の方も嫌やんか、お気に入りのシューズ汚すぐらいなら、別の方法で責任とってもらったらええんちゃう? 『形』は違っても罰の『重さ』が同じならかまへんやろ」
「…!」
ここに来てようやく相手の真意に気付いた帝王がはっとしたが、桜乃は何が起こっているのかまるで分かっていない様子だった。
「…形が違う…?」
「そそ、例えばなぁ…」
がちゃ…
「!」
「竜崎…?」
久し振りに鍵が開き、部室のドアが開かれると、中から桜乃達が出てきた。
忍足も跡部もいつもと何ら変わった様子はなかったが…桜乃は何となく頬が赤い様子。
「竜崎、大丈夫か?」
「は、はい…何でもありません」
気遣う手塚にこくんと頷いた桜乃は、しかしすぐに視線を逸らしてしまい、代わりにその場に忍足が割り入ってきた。
「心配せんでもええよ、ちゃんと話をつけて手打ちにしたから」
「まさか…本当に靴舐めさせたの?」
じっと懐疑の色も深く、越前が下から相手を見上げながら問い詰めたが、向こうはいや?と肩を竦めて首を横に振った。
「そぉんな非人道的なコトさせるワケないやろ?」
「俺には思い切りさせようとしたよね?」
「カワイコちゃんに」
「……」
上手くかわしたところで、曲者はにっと唇を歪めつつ改めて宣言した。
「ホンマにさせとらんて…テニスの神様に誓ってもええで? お前と違ってお嬢ちゃんは素直に謝ることが出来るエエ子やさかいな〜、ちゃんと非を認めて詫びるんなら、お上にもお情はあるし、帝王も特赦を出すんや」
「そんなコト、一言もなかったけど」
「言うたら『ごめんなさい』した?」
「……」
答えられない越前の傍をふいっと跡部が通り過ぎ、彼と手塚を見遣った。
「いい加減、始めるぞ試合……そんなに睨むな、俺は何も手は出しちゃいねぇぞ」
こういう時、彼が嘘を言う人間でない事は知っている。
と言う事は…本当に竜崎は無事で、謝罪だけで済んだのか…
「……」
相変わらず顔を微かに赤くしたままの桜乃を青学側に任せて、跡部と忍足は氷帝側のベンチへと向かって行った。
「いやいや、危機一髪やったなぁ」
「ったく…お前ぐらいだ、あんなコト思いつくのは…」
言いながら、跡部はふっと右手でそちらの頬に触れた。
あれから忍足の提案を受け、桜乃は急遽、口を付ける場所を変更された。
跡部の靴から…彼の頬に。
『幾ら罰でもファーストキスは乙女の宝やし、そこは見逃したってぇな。ほっぺたならそんなに気難しく考えるコトもないやろ…それでもお嬢ちゃんには十分恥ずかしいやろうし、罰としては丁度ええんちゃう?』
桜乃は曲者の言う通り、激しく狼狽し、照れまくっていたのだが、結局その原案がそのまま通ることとなった。
『…忍足、後ろを向いて目隠ししとけ……見たら、殺す』
『はいはい、おっかないなぁ…』
言われた通りに忍足が背中を向け、両手で素直に自分の顔を覆っている間に、桜乃は跡部の右頬にキスをしたのだった。
そう、だから、跡部は一切嘘を言っていない。
彼は手を出すことなく、桜乃が自分から唇を彼の頬へと触れさせたのだから。
勿論これからも、この真実を青学側に漏らすこともない…
「…しかし、お前のお陰で上手く収まったがな」
「まぁ友達のよしみやし」
にこ、と笑った忍足が、続けて跡部に自分にとっての本題を述べた。
「ところで今度、俺の大好きなミュージシャンのCDが出るんやけどなー」
「てめえ改めて氷帝一の曲者認定だ」
友情に則った助力を一瞬でも期待した自分がバカだった…と、悪態をついた帝王だったが、おそらく曲者の望みは叶えられるだろう。
そして、言いながらも帝王の表情はいつもより心なしか穏やかで、彼はもう一度自分の頬に指先を触れさせていた。
了
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