客人を迎えろ
「止めろ」
或る日の夕方、いつもの様に氷帝学園から高級車に乗って帰宅途中だった跡部景吾が、不意に運転手に声を掛けた。
普段と変わらない街並みを眺めていた彼の目に、何か興味を引くものが映ったらしい。
運転手が忠実に路肩に車を寄せて止めるとほぼ同時に、彼がドアを開けに来るのを待たず、跡部本人がドアを開いて歩道へと降り立つ。
「暫くここで待っておけ」
「畏まりました」
そして彼が向かったのは、とある有名チェーンのコンビニ店だった。
「竜崎さん、そこのケースの中の物品、時間来たら外出しておいて」
「はい」
所定の棚に菓子パンを補充していたうら若い女性店員が、店長の男の呼び声に応じて返事を返す。
若いのも当然、彼女は現役の中学一年生。
青学の学生である筈の竜崎桜乃は、何故か今、コンビニの店員の制服を着て業務に勤しんでいる。
その動きはまだ拙いところも多く、どうやらここで働き始めて間もないらしい。
「えっと…期限切れの品物かぁ」
店長に運ぶ様に言われていたケースの中の物品を見て、桜乃が少しだけ顔を曇らせる。
そこにあったのは数種類のお弁当やパン、その他もやしやトマト、生姜などの生鮮食品だった。
日本に住んでいる人間なら誰でも知っている事だが、こういうコンビニに並んでいる食品は、厳しく賞味期限が定められており、それを過ぎたらほぼ例外なく処分に回されるのだ。
(…まだ十分食べられるのになぁ…勿体無い)
「おい」
思案中にいきなり背後から声を掛けられた桜乃は、客かと思って慌てて振り返りながら応対した。
「は、はい! いらっしゃいま…せ…?」
「…」
客の姿を確認した桜乃の声が徐々に小さくなり、最後は殆ど聞こえるか聞こえないかという程度の小声になってしまう。
それもその筈、そこに立っていたのはおよそ巷のコンビニで見かけるには相応しくない若者だったからだ。
「跡部さん!?」
「見たことあるツラだと思ったらやっぱりお前か…何でこんな所で制服着て働いてるんだ? お前まだ中学生だろうが…」
呆れた口調でそう問いかけた若者に、桜乃はケースの片づけを中断して相対した。
「い、いえ、これ、ウチの学校でやってる社会勉強ですから」
「あん?」
「学校の近くの色々なお店に協力してもらって、生徒を数日間そこで働かせる経験就業なんです。バイトとかじゃなくてあくまで無償で、労働の尊さと、お金を得る事の大変さを生徒に教える社会勉強なんですよ」
「ほう…青学の教育プログラムか」
「そんな感じです、でも実際始まったのはこれが最初みたいなものですけど…あの、跡部さんはどうしてここに?」
「…俺が来ちゃいけないか?」
「いえいえいえ!! その…跡部さんって本人も周りの環境も凄くゴージャスで、こういうコンビニなんて一生縁がなさそうじゃないですか…」
言いながら何気なく店の外の道路を見ると、彼が乗って来たと思われる大型高級車…
やはり自分の見解に誤りはなかったと桜乃が確認している間に、跡部はふんと鼻を鳴らして堂々と答えた。
「只の偶然だ…ちょっと風邪気味だったから、何か便利なモノがあるかと寄ってみただけだ。世間でやたらと重宝されているコンビニってのがどういう場所なのか知る、いい機会だとも思ったんでな」
「え…お風邪?」
聞き返す少女に、跡部はいつもと同じ様に尊大にびしっと指を突きつけ命令した。
「丁度いい、無償だろうと有償だろうと、お前が今ここの店の店員なのは間違いない訳だ。なら、客人の俺様を迎えるのもお前の義務だな…しっかり迎えろ」
「え? え? えーとぉ…」
迎えろって言われても…コンビニでは美味しいお茶もお菓子も提供出来ないんですけど…
悩む少女の心中を早速読んだのか、跡部がやれやれと相手に忠告する。
「何を勘違いしている。幾ら俺でもコンビニが喫茶店になるなんて思っちゃいねぇぞ。俺に付いて風邪にいいアイテムとか、そういうのを紹介して説明しろってことだ」
「あ、ああ…成る程〜」
一応納得はしてみたものの、それもコンビニの店員の仕事としては如何なものかと思う。
目当ての品物への誘導はするだろうが、それらの説明までって…百貨店の店員さん並の奉仕レベルを期待されても…
(…と言っても、もう跡部さんの頭の中では、私が案内することは確定事項なんだろうなぁ)
常人ではおよそ計り知れない器の男であり、多少付き合いがある自分も彼の人となりは少しは分かっているつもりだ。
桜乃は、きょろっと辺りを見回して今のところ彼しか客がいない事を確認した。
(うう、他のお客さんがいなくて良かったぁ…ま、まぁ別にさぼっている訳じゃないし、客の応対をするのも仕事の内だもんね…よし)
心を決めて、桜乃は跡部と一緒に風邪薬やマスクなどを揃えている棚へと移動した。
「風邪に関連する品物はこちらに揃えてありますよ。マスクとうがい薬、手指の消毒に使うジェルはこちらが携帯用、こちらが据え置き用です。薬はそんなに数はないんですけどこれとこれ…後は栄養補給用のものになりますね」
「ほう」
取り敢えず一通りの説明を受けた跡部は、その内の幾つかを手にとって説明文を眺めてはまた元に戻していく。
「…お前はここでいつまで働くんだ」
「え? ええと…」
一応アイテムに注目してはいるものの、桜乃にはどうにも跡部の意識がそれらに向いているとは思えなかった。
その証拠に、こちらの簡単な説明の後では特にそれ以上の質問をする事無く、寧ろ自分の事について尋ねてきている。
(う、私の説明じゃ満足出来なかったかな? 呆れて質問で誤魔化しているとか…?)
何となく不安になりながら、桜乃は改めて相手の様子を伺った。
(…別にいつもと同じ様に見えるけど…風邪引いているのに全然そう見せないんだなぁ、跡部さん…で、でも、やっぱり心配だな)
自分では力不足だったかな…と思い、彼女は相手にそろそろと断りを入れた。
「あ、あのう…私の説明で分からないなら店長さん、お呼びしましょうか? 多分私よりは上手に説明出来ると…」
そんな桜乃に、跡部は一秒と待たずに拒絶の意を示した。
「店長? いらねぇよ、お前がここにいたら十分だろうが…わざわざ邪魔を入れるな」
「は、はぁ…?」
邪魔って…人が多いのは苦手なのかな…氷帝のレギュラーの皆さんは流石に例外みたいだけど…
それから暫く桜乃はそのフロアで佇む跡部の傍に留まり、彼との会話に興じた後、どう見ても相手が適当に選んだとしか思えない幾つかの物品の精算に入った。
「えーと…消毒用ジェルが一点と…薬用ドロップが一点…」
ピッピッとバーコードでそれらの金額を読み込ませていた桜乃が、合計金額を出したところで不意にあ、と顔を上げた。
「あ…し、少々お待ち下さい」
「ん?」
一度少女はレジを離れ、少し前に片づけを命じられていたケースへと駆け寄ると、そこから何かを拾い上げて再びレジへと戻った。
そして、跡部が買い取ったアイテムをレジ袋に入れていき…最後にこそっと生姜をひと欠片入れる。
「?…おい?」
俺はそんなの買ってないぞ…と言おうとした跡部に、桜乃がしぃっと人差し指を立てた。
そして店長も他の誰も見ていない事をきょろっと確認して、ひそりと小声で言った。
「あの…大丈夫です、賞味期限の関係で下げる物ですから。でもまだ十分食べられます。生姜って、お風邪にいいんですよ?」
「……」
精算を済ませてからも暫しその場でレジ袋の中身を見つめ、そして改めて桜乃を見つめた帝王に、バイト店員はにこっと笑って深々と頭を下げた。
「有難うございました!…お大事に」
最後の言葉はこっそりと囁かれ…
「…ああ」
その余韻を耳に残しながら、跡部はレジ袋を持ったまま車に戻って行った。
「…出せ」
「はい」
そして静かに動き出す車の中で、跡部は見えなくなるまで店の中で再び働き始めた娘をじっと見つめていた…
跡部邸帰宅後…
「お帰りなさいませ、景吾坊ちゃま…おや、その袋は何処かへお立ち寄りに…?」
「ああ、じい、この中の生姜を使ってジンジャーティーを作って持って来い」
帰宅して玄関へ足を踏み入れた跡部は、迎えてくれた執事に白いビニル袋を放りながら言った。
受け取った執事は中を確認し、全てが風邪グッズという事を知って多少驚いた様子で主人の跡部に尋ねる。
「あ、この中身は!…まさか坊ちゃま、お風邪でございますか!?」
「いや、特に問題ない。他の物は明日適当に誰かに配る…何となくジンジャーティーが飲みたくなっただけだ」
桜乃には『風邪気味だ』と断言していたにも関わらず、相手の質問には今度は否と答えた帝王だったが、ここで彼の矛盾を指摘出来る者は誰もいなかった。
主人の気紛れはいつもの事であり、長年従ってきた執事は過度の詮索をする事無く頷く。
「は…しかし、少々時間が経ったものですな。厨房にもっと新鮮なものがございますが」
「その生姜で作ったものが飲みたいんだ。いいから急いで作って、部屋に持って来てくれ」
「畏まりました」
そして跡部はそのまま自室に戻って部屋着に着替えを済ませ、そのタイミングで運ばれてきた紅茶を、ゆっくりと椅子に座ってくつろぎながら味わった。
一口、二口…口に運んでスパイシーな味と香りを楽しむと共に身体が温まってくる。
「…ふん」
唇を歪めながら、跡部はあの娘が必死に働いていた姿を思い浮かべた。
適当な言い訳で店に入って、本当の目的だった相手の珍しい姿と彼女との会話を少しでも楽しめて…その上、こんな形で彼女の優しさを受け取ることになるとは…
「まぁ、コンビニの店員としてはどうかというところだが、俺の見込んだ女としては十分合格だな…」
彼女のこういう優しさを知ってから、自分はあの娘から目を離せない。
分かっている筈なのに、それでも毎回こうして思い知らされて、心地良い驚きで心が満たされてゆく…
あいつはまだ俺の気持ちには気付いていないようだが、気付いた時の反応が楽しみだな。
くっくと笑っていた跡部が、もう一度ジンジャーティーを口に含み、ふぅと満足げに息をつく。
本当に、温かい…
(…俺の身体がこんなに熱いのは、これの所為か?…それとも、お前の所為なのか…?)
その熱を楽しむように、跡部はその日は特にゆったりと時間をかけて紅茶を飲んでいた…
翌日…
(今日もあいつは仕事に出ている筈だが…?)
まだもう少し放課後の実習期間が残っていると、昨日桜乃本人から聞かされていた跡部は、その日も車をコンビニ前に止めさせて、店内へと入っていた。
勿論、あわよくば桜乃を少しの時間でも独占する為だ。
しかし…店内の何処を見ても、あのおさげの少女の姿は見当たらなかった。
(?…おかしいな…)
不思議に思った跡部は、他の店員を見つけて相手に声を掛けた。
「ここで、竜崎という学生が働いている筈なんだが…?」
「え? ああ、あの青学の学生さんね?…それが…」
大学生ぐらいと思われる別の女性バイト店員が、跡部にちょっと困惑した表情で答えた。
「何か、昨日の夜から風邪を引いて寝込んでしまったみたいで、今日はお休みするって電話がありましたよ?」
「ああもう、お約束な奴だな本当にーっ!!」
風邪と誤魔化しただけの俺と接触しただけで、何で昨日まで健康体だったお前がいきなり風邪引いてんだ!!
(あいつらしいと言えばあいつらしいが…ったく、客人の俺にここまで心配させるなんざ、大した奴だぜ)
すぐに跡部はその場で携帯を取り出し、贔屓の花屋にありったけのバラの花を見舞い用に準備するように言いつけると、店で生姜をひと欠片買って急いで車へと戻った。
そして、一度花屋へ立ち寄ってバラの花束を受け取り、そのまま桜乃の家へと見舞いに向かったのであった…
了
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