鬱陶しい、腹を切れ


 いよいよ夏も本番の時期…
 氷帝学園の一年生にして、生徒会長跡部景吾の妹である桜乃は、その日の昼休み、兄がいる生徒会長室にお邪魔していた。
 勿論普通は一般の生徒が入れる場所ではないのだが、歩くハムラビ法典である跡部の寵愛を受けている妹なので、そこは難なくクリアー。
 同じく跡部の友人でもあるテニス仲間の忍足も、座り心地の良い来賓用ソファー目当てに同室に遊びに来ていた。
「う〜〜〜ん…」
「? どないしたんや? お嬢ちゃん、さっきからずっと唸って…」
 桜乃の何度目かの声に、紅茶を飲んでいた手を止めて忍足が気遣うと、同じ事を思ったのか、兄である跡部も会長専用の椅子に座っていた身体を立ち上がらせた。
「何処か身体の具合でも悪いのか?」
「あ、ううん…そういう訳じゃないんですけど…」
 今の彼女は、部屋に備え付けてある姿見の前に立って一心にそれを覗き込んでおり、時々自分の身体の角度を変えては何かを思案している様子だったのだが、一段落したところで、ふぅと力なく息を吐き出した。
「う〜ん……やっぱりまずいなぁ…ちょっとお腹が出てきちゃったみたい…」
「えっ? お嬢ちゃん…それって…」
 桜乃の台詞を聞いた忍足もまた、跡部に続いてがたんと立ち上がり…何故か、やけに厳しい、真剣な表情で彼女に迫っていった。
「は、はい…?」
 何だろうと思う桜乃に寄った忍足が、ぐっと拳を握り締めながら言った台詞は…

「誰の子やっ!? お兄ちゃんは許さへんで!」

 どかっ!!

 瞬間、見事なボディーブローが彼の腹部に命中…言うまでもない、跡部の怒りの突っ込みである。
「ごふっ!」
「俺様の妹に、何てぇ言い掛かりつけやがる…てか、どさくさ紛れに兄貴面してんじゃねぇ!」
「キャー! 忍足様っ!!」
 普通の人間なら倒れたところだが、流石に普段から部活で腹筋も鍛えているだけあり、忍足はかろうじて片足を床に着くだけに留まった。
「い、いや…お嬢ちゃん相手やから出来るジョークやと思たんやけど…イマドキの子は、相手次第じゃ冗談じゃすまんし…」
「だったら言うな」
 あわあわと介抱してくれる桜乃に助けられながら、忍足が再び両足で立ち上がったところで、跡部はまだ多少不機嫌さを残しつつ桜乃へと注目した。
「…腹?」
「うう、太っちゃったみたいなんです…これから夏で薄着になるのに〜」
 嘆く妹を兄は上からまじっと見つめたが、相手の主張にどうにも納得出来かねるところがあるらしく、あからさまに眉をひそめた。
「……気にしすぎじゃねぇか? 別に太っている様には見えないがな」
「ででで、でもぉ…昨日も体重計に乗ったら…に、二百グラムも…」
「何だ、その程度…」
「跡部、女にとっての百グラムは、俺ら男にとっての一キロと同等やねんで」
 完全に腹筋が回復したらしい忍足が、跡部の切捨ての言葉に異議を唱えたが、向こうは相変わらず肩を竦めて否定する。
「幾ら何でもそれは言いすぎだろうが…」
「そんな事ないです!」
 そんな兄の言葉を否定したのは、当事者でもある桜乃の強い一言だった。
「景吾お兄様は凄くスタイルいいですから分からないでしょうけど、女性は必死なんですよう。ううう、きっと家に戻ってから修道院とは別物の食事が出てきている所為です〜〜」
「俺様だって同じ物を食ってるだろうが…あまりぐじぐじ言うな、桜乃」
 自分の妹ともあろう者が泣き言を言うのはあまり快いものではないらしく、跡部が仏頂面で注意したが、相変わらず桜乃はむ〜っと彼の引き締まった身体を羨ましそうに見つめている。
「はは、しょうがないわ、お嬢ちゃん。跡部や俺らは毎日部活でそれなりにハードな練習をこなしとるさかいな…男女の身体を比較すること自体もナンセンスやし、女性は多少ふっくらしとる方が可愛えんやで?」
「うー…」
 忍足の助言に小さく唸った桜乃に、跡部がはん、と誇り高く笑う。
「まぁ当然だな…お前の兄は栄養面も運動面も全て完璧に自己をコントロールしているんだ。これを機会に少し見習うといい」
「……」
 そんな跡部の言葉に、何を思ったのか桜乃がいきなり背後から彼にだきっと抱きつく。
「っ!!」
 え?と思った跡部が背後を振り返るよりも早く、
 さわさわさわっ…
と、相手の両手が、制服のシャツ越しに自分の腹部を思いきり撫で回した。

「ううううおおわあああああああああああっ!!!!!」

 途端、今まで聞いたこともない跡部の必死の悲鳴が上がる。
 実は、人にはやたらとくすぐったがる種類の人間がいるのだが、そういう人間は幼少時より他人との接触が少ないことが多いのだという…絶対的なものではないが。
 つまり、触れられ慣れていない分、皮膚の感覚が鋭敏になってしまうという事らしいのだが、正にこの跡部がそうだった。
 生まれた時から大事にされていたのは間違いないのだが、大事にされていたからこそ、必要時以外には触れることさえも憚られるやんごとなき立場だったのだ。
 その上、性格も生来自立心が強く、自分の事は自分でやるという習慣を早く身につけてしまった為、着替えや身嗜みもあらかた自分でしてしまったことも人の手を遠ざけてしまう原因となってしまった。
 最も近い場所にいる筈の両親も、何かと多忙でスキンシップをはかることも滅多になく、かくして跡部の身体は異常な程にくすぐったがりなものになってしまったのだ。
「桜乃〜〜〜〜〜〜っ!! とっとと離れろ! 腹に触るなっ!!」
 全身鳥肌を立てて怒鳴る兄にも怯まず、桜乃は相変わらずぺったりと彼にひっついたまま愚痴を零していた。
「いいなぁお兄様…お腹も引き締まってて腰もこんなに細くって〜…」
「ああもう鬱陶しい!! そんなに嫌なら腹を切れ腹をーっ!!」
 賑やかな兄妹を眺めつつ、忍足は半ば感心した様子でほーうと頷く。
(…あの跡部にセクハラする豪傑がおるとは思わんかったなぁ…けど、お陰で面白い悲鳴も聞けたわ)
 流石にバカ笑いをしなかったのは、帝王のせめてもの心意気というヤツだったのだろうか…
「お腹切って痩せるなら、切ってもいいもーん!」
「お・ま・え・は〜〜〜〜っ!!」
 相変わらず騒いでいる兄妹を眺めていた忍足は、ちら、と隣に立っていた樺地へ視線を移す。
 普段は無表情なことが多い相手だが、跡部の妹が日本に帰国してからは、何となく困惑の表情を浮かべることが多くなっている気がする。
 その理由を知っている忍足は、相手の気持ちを思いつつ苦笑した。
「ま、跡部が『本当に』困った時にはいつもみたいに声が掛かるやろ。それまでは、微笑ましい兄妹喧嘩ってことで放っとくんやな。お前は向こうでもずっと跡部と一緒やったけど、お嬢ちゃんとは十年ぶりと言える再会や…一緒におるんが嬉しいんよ」
「ウス」
 そうしていると、遂に跡部が折れたのか、桜乃に声を上げて一つの約束を交わしていた。
「分かった分かった! 後で痩せるための特別プログラムを組ませてやるから!!」
「きゃー! 有難う、お兄様〜!」


 それから、確かに跡部は約束通り、桜乃に食事や運動、睡眠など事細かな項目を網羅したダイエットプログラムを準備してやり、桜乃もまた熱心にそれを実行していた。
 時間と場所が空いたら跡部の所属するテニス部の脇で、一緒に運動することもあったのだが、何故かそれから数週間後、徐々に彼女は運動から遠ざかり、最近では週に二、三度実行するのみとなっていた。
「お嬢ちゃん? 最近は二回ぐらいしか顔見せへんやん。どないしたん?」
「ギブアップか? さくのすけ」
 丁度、部活前に会った少女に、忍足と向日が声を掛けると、相手は何となく困った様子で二人に答えた。
「あ、いいえ…お兄様のプログラムは完璧でしたから、筋力もついて、プログラム自体は楽にこなせるようになったんですけど…」
「え? じゃあ、飽きたとか?」
「うーん…」
 どう答えようか、と悩んだ様子で唸ると、桜乃はきょろっと辺りに他に誰もいない事を確認し、二人にこっそりと言った。
「お二人ならトレーニングについても大先輩ですから分かるかも…あのう」
「ん? なになに?」
「何か、トラブルか?」
「…腹筋が割れない様にトレーニングする方法ってあります?」

『…………』

 沈黙後、忍足が相手を指差して確認。
「…割れたんか?」
「ちょ、ちょびっとだけ…」
「…そりゃー、程よくサボルしかないんじゃねーの?」
「やっぱりそうですかぁ…折角プログラム作って下さったのに、景吾お兄様にお詫びしないとー」
 向日のアドバイス(?)に残念そうに呟き、しょぼしょぼと歩いて行く桜乃の後姿を見送った忍足達が、彼女が見えなくなったところで感嘆して言った。
「腹を切らずに割るとは…予想外の展開やな」
「けど跡部も、そういう事なら許してくれんじゃねーの? さくのすけが腹筋割ってムキムキになったら、アイツ絶対発狂するぜ」
「ああ、そら間違いないな…」
 腹を切られるぐらい嫌だろうな…と二人で納得した、或る日の午後だった…






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