アルバムの向こう


「わぁ〜、かっわいい〜〜〜〜」
 アメリカから日本へ引っ越して早数日。
 ようやく次なる我が家の片付けも先が見えてきた頃、その家の家長である越前南次郎の娘である桜乃は、小物の片付けの最中に感嘆の声を上げていた。
「ん〜? どした、桜乃」
「あ、お父さん」
 丁度居間に入って来た自身の父親の呼びかけに、桜乃が振り返って笑う。
 彼女の父親は職業が僧侶ということで普段から和装であり、今日も何となく着崩した渋染めの着物を纏っている。
 欠伸をしながら何処か気が抜けた顔をしているところから、どうやら昼寝から起きたばかりの様だ。
 親としての威厳はどうなんだと多少疑問を呈されてもおかしくない格好であり、やはり、温和な娘もそこは突っ込んだ。
「も〜…相変わらずぐうたらしてるー。引っ越したばかりなんだから、ちゃんとお片づけしなきゃダメよ、お父さん」
「ん〜…そうかそうか」
 ぷぅ、と頬を膨らませて叱る娘に、叱られた筈の南次郎は何故か目を細めて嬉しそうにうんうんと頷くと、相手の頭を優しく撫でた。
「可愛い一人娘がそこまで言うならしょうがないなぁ〜〜、パパ頑張っちゃおうかなぁ」
「んもう、調子良いんだから…一人娘だけじゃなくて、息子の方もさっき声掛けていたみたいだけど?」
「あいつぁー別にいい」
「……」
 それまで娘にメロメロだった親の顔が途端にむっすと変わり、その豹変振りを見ていた桜乃が苦笑する。
 桜乃は紛れもなくこの男、越前南次郎の実の娘なのだが、彼の子供は彼女一人だけではない。
 一緒にアメリカからこの日本に来た双子の兄、リョーマ。
 彼もまた、この日本に共に移り、一つ屋根の下で過ごすことになっていた。
 実は二人の上にはもう一人、リョーガという兄がいるらしいのだが、どういう理由があってか、その若者は現在もアメリカにいるので、ここにはその姿はない。
 アメリカに残ったその身内の話はここでは置いておくとして、その桜乃の兄に当たる越前リョーマもまた、桜乃と双子である以上南次郎の実子であるのだが、男親と男子の因縁と言うべきか、二人の仲は桜乃と南次郎のそれとは大いに隔たったものだった。
 先ず簡単に言うと、南次郎の桜乃に対する溺愛振りが凄い。
 父親は娘に甘いというのが世の通説らしいが、越前家では特にそれが顕著に表れている。
 南次郎は普段から女性の載ったグラビアを愛読している様な生活なので、もしやロリコン趣味もあるのでは、という疑いを持たれることもあるかもしれないが、幸いと言うべきか何なのか、その年代の女子に関しては桜乃にしかそういう態度を見せる様子はないので、まぁ違うと言えるだろう。
 今日、この時のやり取りにも見える様に、兎に角、南次郎は桜乃には甘かった。
 最低限の礼儀や躾を教える常識は流石にあったらしく、彼女も甘やかされるまま愚かに育つことはなかったのだが、ひたすらに南次郎は桜乃にはでれっでれのめろめろ状態なのだ。
 子供に対する愛情があるのは確かに善いことである…善い事ではあるのだが…
 片や、双子の片割れであるリョーマに対する態度は、桜乃に対するそれとは大いに異なっていた。
 虐待などとは無縁なのだが、まぁ茶化すこと茶化すこと。
 大の大人が子供相手にそこまでムキにならなくても…と呆れるほどに、ちょっかいを出してはいざこざを起こすのだった。
 それもまた父親の愛情表現の一つかもしれないが、幼少時住んでいたアメリカの風土と相俟って、その愛情表現は只でさえ負けん気の強かったリョーマの反骨精神を、更にぴっかぴかに磨き上げてしまった。
 そして、それとは別にその父親が息子に与えたものがもう一つある。
「ところで、さっきは何を騒いでたんだ? 桜乃」
「あ、これ見てたのー、整理していたら出てきて…」
 ふと思い出した父親が尋ねると、娘はじゃーんと一冊のアルバムを見せた。
 どうやら家族のメモリアルを収めたものらしい。
「お、アルバムか」
「うん、私とリョーマお兄ちゃんの小さい時の写真なの。お兄ちゃんの目元がホントに可愛くて…」
「…お前の美的センス、相変わらずちょっとズれてるな」
 ほよよんとしている本人ならともかく、あの三白眼の顔の兄を、どうして『可愛い』と断言できるのか…しかも、貼ってある写真全て、もれなくカメラを睨んでいるかの様な写りなのに。
「そうかな〜? 可愛いと思うんだけどなー」
「いやいや、あの生意気小僧と比べたら、桜乃の方がよっぽど可愛いぞ〜。アイツはなまじ身体は丈夫だからちょっとやそっとじゃ死なないが、パパはか弱い桜乃が心配で心配で…」
「アンタ、マジで一回病院行けば?」
 そこに割り込んできたのは、いつから二人の会話を聞いていたのか、居間に来ていたリョーマだった。
「あ、リョーマお兄ちゃん」
 シャツにGパンとラフな格好をしていた少年は、明らかに呆れた視線で父親を見ていたが、そんな視線など物ともせずに南次郎は早速相手に憎まれ口を叩く。
「こら、リョーマ。父親にアンタはないだろうが、格好いいお父様と呼べ」
「……」
「……」
 言われた息子と言った父親が暫し見つめ合い…先に視線を逸らしたのは息子の方だった。
 但し、それは相手の眼力に討ち負けたのではなく、もうこれ以上見ていられないという精神的苦痛の方が強かったからだ。
「親を選べないって辛いよね…」
「にゃにおう?」
「あああ、もう〜〜! 日本に来ても相変わらずなんだから〜」
 この二人がこういう言い合いを始めた時、往々にして仲裁に入るのは桜乃の役目だった。
 桜乃は南次郎にとっては常に甘やかしてしまう娘であり、リョーマにとっては血を分けた守るべき可愛い妹。
 反骨精神旺盛なリョーマはいつでも何処でも誰にでも生意気な態度を取りがちな少年だったが、桜乃に対しては唯一、南次郎同様に甘くなりがちなのだった。
 尤も、この二人が親子喧嘩を始める理由の十に七つは桜乃絡みであり、それを止めるのが桜乃本人というのは皮肉の極みだが。
「んも〜、喧嘩しないの二人とも! 全く…テニスに関しては師弟関係でもあるのに、どうしてそう喧嘩ばっかりするのかなぁ」
「師匠だなんて思ってない」
「こんな色気のない弟子はいらん」
 ぷいっと同時に背中を向け合う男達に、桜乃が呆れた視線を向ける。
(ほんっとうに紛れもない親子よね…)
 どちらかと言えば自分の方が親子鑑定に掛けられる可能性が高いわ…と思いつつ、彼女はふと改めてアルバムの中身を見た。
 そこには、まだ幼いリョーマが、人形を抱いている桜乃の隣でラケットを握り締めている姿が写っていた。
 例の生意気で力強い視線をこちらに向けながら。
「そんな事言って、お父さんはリョーマにテニス教えてくれた先生じゃない。リョーマがここまで強くなったのって、お父さんのお蔭でもあるんでしょ?」
「俺の実力」
「お前ためらいもせんと…」
 言い切りやがったな…と、今度は南次郎が息子を呆れた目で見遣る。
 リョーマは決して全面的に認めることはないだろうが、その通り。
 父親が息子に与えたものがもう一つのもの…それはテニスの才能だった。
 かつて自身を『サムライ』と全世界の人々に言わしめたテニス界の風雲児、越前南次郎。
 テニス界のトップに最年少で立てるとさえ言われていた男の才は、その血と肉と共に間違いなく息子であるリョーマに受け継がれているのだ。
 これは身内である桜乃の贔屓目ではない、何よりアメリカでリョーマ本人が幾度となくジュニア戦で優勝している事実が彼の実力を証明している。
 身体が生まれつき虚弱で、スポーツそのものに縁がなかった桜乃は、物心ついた時からラケットを持ち、向き合う彼らを見ていた。
 南次郎は昔から、ふざけた台詞以外の、真剣な言葉をあまり語らない。
 しかしまだ言葉を解するに至らない子供にとって、それはあまり関係なかった。
 その分、彼らは感じるのだ、その五感全てで。
 桜乃も小さい頃から同じ様に感じていた。
 南次郎が、己の父親が、どれだけ嬉しそうな眼差しで、楽しそうな笑顔で息子を見ていたか。
 リョーマが渾身の一打を放つと南次郎の瞳も輝きを増し、逆にリョーマの一打が鈍くなると、父の瞳はつまらなそうに光を失う。
 脇で見ている自分ですら感じられたのだ、当人のリョーマがそんな父の変化に気付かない訳もなく、それに発奮しない筈もない。
 その負けん気の強さも親譲りだったのかもしれないが、リョーマは言葉で教えを受ける事もなく、ただひたすらに父の背を追いかける形で上達していった。
 どんなに本人が否定しようとも、南次郎は間違いなくリョーマをこの年にして精神面では既に一流のテニス選手にまで鍛え上げた師匠なのだ。
 ちょっといびつな形はしているが、そこには確固たる父親の愛情がある。
(私もお父さんには十分に可愛がられているけど…そういう関係もちょっと羨ましいなぁ…)
 親子でもあり、男と男の友情ってものかしら…と考えていた桜乃の手から、隙を突く形でリョーマがアルバムを取り上げた。
「あっ」
「桜乃もそんなの見てないで、片付けなって」
 クールに振舞ってはいるが、何となく不自然な表情なのは、幼少時の自分の姿を見られた恥ずかしさからだろうか。
「む〜〜、リョーマお兄ちゃんはいいよね。どんなに言ってもお父さんがテニス教えてくれたお蔭で、きっと日本の学校でも人気者だもん」
「何だよソレ、別に俺がお願いした訳じゃないじゃん」
「それはまぁ…」
「フン、俺だってな、生半可な愛情でコイツにテニス教えた訳じゃないぞ」
 桜乃とリョーマのやり取りに、南次郎が加わってきた。

 以下、回想…
『あらあら、可愛らしいご兄妹だこと』
 アメリカ、カリフォルニア州の某所…
 桜乃達がまだこの国で過ごしていた頃、二人の誕生日を祝うホームパーティーに近隣の住民達も呼ばれていた。
 その時、桜乃とリョーマは若干四歳。
 桜乃はお気に入りのうさぎのぬいぐるみを抱き抱えながら、ひっしと隣のリョーマの袖口を掴んでいた。
 どうやら内気で寂しがりやな性格はこの頃から既に健在だったらしい。
 一方のリョーマはこんな場所でもラケットを手放そうとせず、片脇に抱え、もう片方の手は桜乃が袖を握っている為か、そのまま遊ばせている。
 愛想があるとはなかなか言い難い仏頂面だったが、桜乃の掴んでくる手を振り払う素振りはなく、彼女の好きなままにさせてやっているところは流石に『お兄ちゃん』。
 もしかしたら、仏頂面なのも機嫌が悪いとかそういうのではなく、妹がぺったりとくっついてきているコトに対する照れ隠しなのかもしれない…
『お嬢さんはお幾つに?』
『今日で四つになります』
『そうですか、双子のお兄さんと一緒に並んでるのを見ると、二人とも綺麗なお人形さんみたい。将来が楽しみですね』
 母親が招待した近所の奥様方と談笑している様子を脇で眺めながら、南次郎は彼女達が自分の愛娘達を褒める言葉をふんふんと満足げに聞いていた。
 親の欲目と呼ばれるかもしれないが、彼女達の言う通り、桜乃は器量良しのいい子だ。
 少々身体が弱いのは気に掛かるところだが、そこは自分達家族がしっかりとフォローしてやればいいし、年長さんになるに従ってそれも改善していくだろうと信じている。
 将来はどんな女性に育っていくのか今から楽しみでならない…但し、嫁にやる話は却下。
(…あ、でも…)
 そこまで思ったところで、南次郎はふと思い出した。
 そう、世の娘を持つ父親なら、一度は夢に見る娘の一言。

『わたし、大きくなったら、パパのお嫁さんになりたいのー!』

(なんつってなぁ。まだ一度も言ってくれてないけど、まぁ多分遠からず…)
 桜乃がその台詞を言ってくれるだろう日を楽しみに思いながら南次郎が妄想に耽っているところに、丁度、別の老夫婦がリョーマと桜乃、二人の主役に挨拶に訪れた。
『まぁ、こんにちはサクノちゃん、大きくなったわねぇ。リョーマ君もすっかりお兄ちゃんになって』
『…こんにちは』
『こ…こんにちはぁ』
 リョーマがぺこっと挨拶するのを見て、桜乃も彼の袖を引っ張ったまま、真似をしてお辞儀すると、老夫婦は目を細めて彼らに笑いかけた。
『小さいのにちゃんと挨拶出来て偉いわねぇ、ご両親もきっと将来が楽しみでしょうね…サクノちゃんは大きくなったら何になりたいのかしら? お花屋さん? 学校の先生?』
 夫婦のうち、優しそうな婦人に問い掛けられた桜乃は、暖かな視線にも恥ずかしそうにもじもじと暫く照れた様子だったが、そろっと顔を上げてにこりと笑い、答えた。
『わたし、大きくなったら、リョーマお兄ちゃんのお嫁さんになるのー!』
『まぁまぁ、それは楽しみねぇ』
『……』
 お嫁さん宣言されたリョーマは相変わらずぶすっとして横を向いていたが、その頬は微かに赤くなっていた。
 そしてその一方、父親のしての最大の夢とも言うべき希望を息子によって粉々に打ち砕かれた南次郎は……


「あの日からだったな…テニスでリョーマをとことんしごき抜いてやろうと決めたのは」
「w8. What an airhead you are, Dad!! (待てや、バカ親父!)」
 ふぅ…と遠い目をして呟いた南次郎だったが、当然、そのウサ晴らしの相手にさせられたリョーマにとってはそれで済む訳がない。
 怒りに乗じてスラング紛いの台詞を投げつけると、彼は持っていたアルバムをぐいと桜乃に押し付ける形で返しながら父親に迫った。
「そーゆー下らない理由で実の息子をコートに立たせてたワケ!?」
「やかましいわ、お蔭で上達出来たじゃねーかこのチビ!」
「まだ発達途上だー!!!!」
 大騒ぎ。
「……はぁ」
 もういい加減止めるのも馬鹿らしくなってきた…と、桜乃はアルバムを手に溜息をつくと、さっさと居間から退散してしまった。
 多分またテニスで決着つけるとか何とかするんだろうな…でも体力が有り余っている今は止めても無駄だから、お互いがいい具合に疲弊した時にまた止めよう…
(結局、日本でもあの調子が続くのね……これからがちょっと不安)
 日本って規律と秩序を重んじる国って聞いたことあるけど、大丈夫かしら?
 せめてお兄ちゃんが学校に行っている間はお父さんとは離れているから、少しは落ち着けると思うんだけど。
 そんな事を考えていた少女は、まさか自分達が通うことになる学校に、南次郎に勝るとも劣らぬ強烈なキャラクターの先輩「達」が複数いることなど、今は夢にも思わなかったのだった…





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