国際交流のススメ
「ええっと…お抹茶って…」
その日、U-17の合宿場の一画、生徒達がくつろぎの場としている食堂で、桜乃は使い慣れた手持ちの辞書をぱらぱらと捲っていた。
「…あー、あったあった、powdered green tea…へぇ〜」
一人納得するように頷きながら、彼女はその辞書のページを開いたまま、隣に座っていた人物に掲げてみせる。
「んと、ここ、これですね、クラウザーさん」
「Um…Ah, I see」
対し、辞書を見せられた一人の人物は、彼女が示した指先に記されていたその単語を目にすると、同じく納得した様に頷いた。
「…わかった、ありがとう」
さらさらと流れる様な金の髪。
肩に触れる程に長いそれを揺らしながら、その人は少しばかり特徴的な発音の日本語で桜乃に礼を述べた。
生粋の日本人が聞くとほぼ間違いなく違和感を覚える音なのは、相手の『母国語』に日本語にはない多種の子音があり、口と舌がそれに馴染んでしまっているからだろう。
その人物…リリアデント・クラウザーは、いつもの馴染んだテニスウェアを纏った姿で、青学の一年生である竜崎桜乃の隣に座り、少し前から日本語と英語の入り混じった時間を過ごしていた。
と言っても、どちらかがどちらかの母国語のみを話している訳ではなく、二人ともが日本語と英語の両方を使って相手とのコミュニケーションをとっているのだ。
テニスというスポーツに於いては狂気すらも垣間見せる程の技を使う異国の若者も、今の時間はごく普通の中学生の顔をしている…とはいえ、同年代の日本人と比べたらやや大人びた印象だが、そこは人種間の違いというものなど、色々と理由はあるかもしれない。
しかし、彼が一見してもかなりの美形だという事は人種などには関係ないだろう。
「…ありがとう、サクノ」
もう一度礼を述べながら少女の名前を呼ぶと、相手はにこりと笑った。
「どういたしましてー…ええと、『日本の文化を説明するのは難しいです。私、下手…ごめんなさい』」
最後の方は相手の母国語である英語で伝えようとしたが、やはりそこはまだまだ中学一年生。
流暢とは呼べない片言のものになってはしまったが、彼女の『伝えよう』という意思は十分に向こうに伝わった様で、クラウザーはそんな相手に優しく微笑み返した。
「It’s alright…だいじょうぶ。サクノの言葉、僕、わかる」
「ほんと? 良かったぁ」
「…」
嬉しそうに笑う桜乃の顔を、何処か眩しそうにクラウザーが見つめていると、そこにいきなり賑やかな声が割り入って来た。
「おっ、竜崎じゃんか! 何してんの!?」
「あら、切原さん」
見ると、向こうから桜乃のおさげを見つけたらしい立海の二年生が、もう一人の若者と一緒にこちらに向かって歩いてくるところだった。
「切原君、もう少し落ち着いて下さい。すみませんね竜崎さん、お騒がせしてしまって」
「あ、柳生さんもご一緒だったんですね」
いつもなら丸井ブン太やジャッカル桑原達とつるんでいる事が多い立海の二年生エース、切原赤也だが、今日の同行者は立海の中でも一番礼節に厳しいと言われている、『紳士』柳生比呂士。
或る意味、最もそぐわない組み合わせと呼べるかもしれない。
そんな状況に全く構うこともなく、切原はぴゅーっと効果音がつきそうな程に勢いよく桜乃の側へと走って行き…そこでようやく視界に隣のクラウザーを認めた。
「いぃっ、ハリツケ野郎?」
「…」
切原のやや…と言うかかなり失礼な呼称のニュアンスを理解したのかどうかは不明だったが、その時のクラウザーの視線は、ほんの数秒前に桜乃に向けていたそれとは遥かに温度差があるものだった。
いや、実際は切原の桜乃への呼び掛けが聞こえたその瞬間、既に彼の視線は鋭さを称え、威嚇のオーラを纏っていたのだが、そうとは知らず桜乃は切原のクラウザーに対する呼称に対し、遠慮がちに嗜める。
「もう切原さんたら…クラウザーさん、でしょ? そーゆーあだ名で呼ぶの、良くないですよ」
「ああ、わりーわりー、って…へへっ、久しぶりだなー」
わしわしわしっ…
「っ!!」
クラウザーが目を剥く前で、切原は思い切りよく桜乃の頭を撫で回した。
別に深い意味あってのものではない。
青学のテニス部部員に限らず、立海のレギュラー達とも桜乃は非常に懇意な仲だったので、この程度のスキンシップは日常茶飯事なものなのだ。
「はぷ…」
そんな切原のかいぐりに、桜乃は為されるがままに身を任せていたのだが…
むんず…
「ん?」
ぺりっ!
不意に横から伸びて来た色白の手が切原の手首をきつく掴んだかと思うと、力任せに桜乃の頭から引き剥がし、そのままぞんんざいに投げやってしまった。
クラウザーだ。
「%&$#‘“=!!」
相手の腕を放った後で、彼は恐い表情で何かを強く非難する口調で切原に向かって捲し立てていた。
「へっ?」
淀みない流暢な英語も、その教科が苦手な切原にとっては最早宇宙語に等しい。
相手の行動に怒るという事にすら思い至れない様子で切原がぽかんとしていると、脇から柳生が苦笑しながら簡単な通訳を行った。
「『女性に馴れ馴れしく触れるな、失礼だ』…と仰っていますよ、彼は。私も同感です」
日本語に訳してもらってようやく相手の意を汲んだ若者だったが、それを素直に受け入れる筈もなく、ぶーっと威勢よくブーイング。
「べっつにいーじゃないッスか、俺らと竜崎の仲なんだしここは日本なんだしさ。日本にいるなら日本語話せっての」
「幼稚園児並の屁理屈ですね」
びしっと断じた柳生に続き、桜乃も苦笑いを浮かべつつ持っていた辞書を彼らに見せた。
「クラウザーさん、ちゃんと日本語お勉強してますよ? 私にも色々と言葉について質問されますし…逆に私の方こそ英語を教えてもらったりして、凄くためになってます」
「ほう」
「げ…」
感嘆する柳生と相対し、言われた当人の切原はぎくりとやや強張った表情に変わった。
何だか、自分が一番苦手とする話題に移っていくような…
そんな彼の前で、桜乃とクラウザーに混じり、柳生も二人が今までしていた事について詳しく聞き始めた。
「成程、日本について教えていらっしゃったんですか」
「クラウザーさん、日本語と一緒にこの国の事も知りたいって…私も教える事で英語の勉強になるし、クラウザーさんなら先生に聞くよりずっと気軽にお話出来ますから…ちょっとした国際交流です」
「これは感心ですね。正に学生として在るべき姿だと、君も思いませんか切原君」
「嫌みてんこ盛りッスね…」
「そんな事はありませんよ」
その場にいる自分を思い切り呪っている切原の前で、柳生に褒められた桜乃は、しかし残念そうに笑って首を横に振った。
「でもクラウザーさんに比べると私なんかまだまだで、しょっちゅう辞書引いてもどかしい時もあります。柳生さんみたいに、ネイティブな方とも自然に会話出来るぐらいの実力があったら良かったんですけどね」
「勉強というものは例外なくそういうものです。私だって、最初から全ての単語を理解していた訳でもありません」
「それはそうですけど…」
「…んじゃあ柳生先輩がやったらどうッスか?」
「え?」
急にそんな提案を持ちかけて来た後輩に、柳生が振り返る。
「何ですか? 切原君」
「いやだから、そんなに竜崎が苦労してんなら、柳生先輩がクラウザーに日本語教えてやったらどうかってことッスよ。スムーズな分、上達も早いんじゃ?」
「ふむ…?」
そんなやり取りをしていると、今度はクラウザーがそこに入ってきた。
どうやら自分の事について話されているらしい、が、切原がやたら早口だったのと声が聞き取りにくかったのとで内容については分からなかったらしい。
『彼は何を言っているんだ、ヒロシ?』
「お、先輩の名前呼びって何か新鮮ッスね」
「そこだけしか聞き取れなかったんでしょう、茶化さないで下さい」
思い切り図星を突かれ、ず〜んと落ち込んでしまった切原を桜乃がよしよしと必死に慰めている間に、柳生はクラウザーに乞われた問いの答えを流暢に述べた。
『彼は、彼女の代わりに私が貴方の日本語の先生になれば良いのではないかと言っているんです』
『君が?』
『ええ、こうして気軽に話せる分、話も早いのではないかとね』
『……』
それを聞いた時、クラウザーの表情が一瞬困惑のそれに代わり、慌ててばつが悪そうに自分から視線が逸らされるのを、柳生の眼鏡の奥の瞳は見逃さなかった。
(……成程)
やはりそういう訳ですか…
一人、心の中で何かを納得すると、柳生はあっさりと自分からその提案を蹴っていた。
「それはご遠慮致しましょう」
「へ? 何でッスか?」
「学問に王道なし」
後輩の質問に、柳生は人差し指を立てて答える。
「自惚れが許されるのであれば、確かに私は竜崎さんより英会話の力は上でしょう。しかし、話が早く済むと言って安易に引き受けてしまえば、必ずそこに『甘え』が生じてしまいます。相手が自分の国の言葉が分かると知っていたら、どうしても人はそれに頼ろうとしてしまう。向こうに通じない事が、逆にその人の学習意欲を高め、結果に繋がる事にもなるのです。安易に他人から答えを一度聞くよりも、自身で苦労して十回辞書を引いた方が、余程強く知識として刻まれます」
そして、柳生は桜乃の方へと身体を向け、穏やかに微笑んだ。
「そういう訳ですから、これからもクラウザーの先生は竜崎さんが適任でしょう。どうしても分からない事があった時には、その時には遠慮なく来て下さい」
「あ…はい」
こくんと素直に頷いた桜乃の答えを見届け、柳生がもう一度笑ってその場から暇を告げようとした時だった。
「ヒロシ」
「はい?」
「…」
何となく落ち着かない様子で相手を呼びとめたクラウザーが、切原と桜乃がいる場所から少し離れたところに彼を連れて行くと、ぼそぼそぼそ…と何かを小声で話し出した。
その合間に、こちら…特に切原の方をちらちらと見遣っている。
「な、何だ? アイツ…」
「さぁ…?」
自分にも分からない、と桜乃もそんな二人を見つめるしかなかった。
問われた方の柳生は、少し驚いた様子だったが、すぐに笑顔で首を横に振ると、相手と同じくぼそぼそぼそ…と何かを言い返している。
「?」
本当に何だろう…と桜乃達二人が再び顔を見合わせた時、
「おっ、赤也じゃん! おさげちゃんもーっ」
「あら、丸井さん達…」
「ありゃ、ホントだ!」
食堂に入ってきた先輩達を見つけると、桜乃より素早く動いた切原が向こうの二人に向かって走って行く。
どうやら、向こうの二人の許に行けば少なくとも勉強の話からは解放されると踏んだらしい。
『ダメっすよ、今あそこに言ったら、異世界(英語)の洗礼受けますって! 出来なかったら柳生先輩の嫌み付き!』
『げ、マジ!?』
『じゃあ柳生の奴が話終わるまで待っとくか?』
(こういう時の情報伝達能力は特に良いのよね、切原さんって…)
これは暫くはあの三人は近づいて来ないわね…と桜乃が一人思っていたところに、タイミング良くクラウザー達が戻ってきた。
「竜崎さん、クラウザーがどうしても貴女に確かめておきたいことがあると」
「はい?」
私に?と、桜乃が柳生とクラウザーの顔を交互に見遣ると、どうもクラウザーの様子がおかしい。
何となく不自然にこちらから目を逸らしている様な感じだ。
(クラウザーさん…?)
「彼は貴女とのこういう時間が非常に気に入っているらしいのですが、もしかしたら迷惑なのではないかと…それがとても心配なのだそうです。前から聞きたかったらしいのですが、どう尋ねていいのか分からない、と…」
「まぁ…そんな事ありません。迷惑どころか、私、嬉しいですよ?」
「ふむ…」
そこまでの答えを聞いて、柳生はクラウザーに簡単に彼女の意志を伝え、再び桜乃に問い掛ける。
「そしてもう一つ、彼から貴女に質問があるそうです…いや、質問と言うよりはお願いですね」
「え?」
「先程の切原君の様に…彼も貴女の頭を撫でたい時はそうしていいのかと。もし許されるなら…と」
「え…」
それを聞いた桜乃が、思わずぽっと頬を染めてクラウザーを見上げたが、向こうはまだ相変わらず困った様な表情をしてこちらを見下ろしている。
「あっ、あの…それは、別にその……だ、大丈夫です」
立海のメンバー達にもされてはいる事だが、こうやって改めて聞かれるとなかなか恥ずかしい…
それでも何とか許可を出す形で答えると、再び柳生はクラウザーに向かって頷き、受諾の意思を伝えたところで、ようやく向こうの表情が少しばかり和らいだ。
「…Thank you」
礼を言われ…桜乃は頭に温かなものが触れるのを感じた。
手。
彼の大きな手が、しかしその大きさとは裏腹の優しさに満ちて、桜乃の頭に乗せられていた。
「…えへ」
照れ臭そうに笑う桜乃と、その笑顔を見て同じく嬉しそうに笑うクラウザーを見届けると、柳生も安心した様子で今度こそ暇を告げて、切原達の元へと歩いて行った。
『あのアカヤという男…もしかしてサクノの恋人なのか?』
(まさかあんな質問が来るとは思いませんでしたけどね…)
最初に切原が桜乃をかいぐりした様子が、相手には余りにも睦まじく見えてしまったのだろう。
勿論それは違うと否定した時のクラウザーの安堵した表情…それが何より彼の心中を語っていた。
(そんな所に私が顔を出したら、今度は私がいつ磔になるか分かりませんし…悪人ではなさそうですから、様子見といきましょうか)
そんな事を考えていた柳生の脳裏に、ふと、ある言葉が閃いた。
そう言えば…
(その国の言葉を手っ取り早く覚えるには、その国の恋人を持てばいい…という説もありましたか)
随分と強引な手段には違いないが、あの二人は自然にそういう形になろうとしている。
さてさて…どうなることやら……?
了
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