「いやー、でもお前がいてくれて助かったぜぃ、今月ちょっと苦しくってさぁ」
「ん、もう…」
店の中に入り、窓際の席に対面で座った時には、既に落ち込んでいた空気は何処へやら、いつもと同じ調子を取り戻した丸井が嬉々として笑っていた。
彼の現金さに呆れつつも、その明るさに笑いながら桜乃も席について腰を落ち着ける。
「…ところでおさげちゃんは、何してたの?」
「フツーそれを先に聞きませんか…まぁいいですけど。ええと、進級に備えて新しいノートとかを買いに行ってたんです」
「ああ、成る程ねー。あ、AとBのセット一つずつね」
自分も彼女と同じく進学したので、ノート類は当然新品を揃えている。
十分納得したところで、丸井はお冷を運んで来た店員に早々と注文を済ませた後、ふぅーと軽く息を吐き出した。
「ここの店のデザートは定番もいいんだけどさ、たまにこういったフェアものもいけるんだぜ。ま、外れはねぇからさ」
「そうですか、私はお店があるのは知っていましたけど、入るのは初めてなんです。でも、丸井さんのお墨付きなら安心ですねー」
「だろい?」
自分の舌には絶大な自信を誇る若者は、相手の素直な賞賛にうんうんと頷いた。
「それに…」
それから言葉を継ぎながら、桜乃が視線を遣ったのは、窓ガラス越しに見える道端の桜並木だった。
「ここって凄い穴場じゃないですか。美味しいものを食べながら桜を眺めることが出来るなんて…今まで気付かなかったのが不思議なくらい」
「ん? ああ、まぁな」
相手の台詞につられて丸井も軽く桜の方へと首を巡らせたが、今は正直向こうの厨房の中で作成中であろうパフェやクレープの方が気になるのか、そわそわと落ち着かない。
そんな彼の様子にも気付いていないのか、桜乃はそれからもじっと外で咲き誇る満開の桜達を眺めていた。
(へぇー、あんなにじーっと見ているなんて、本当に桜が好きなんだな。名前にもそう言えば桜って入ってるし、ちまっこいところは似てるかも…可愛いし)
最後の一言は心の中でも特に小さくこそりと思いつつ、彼はそれからも店員が品物を持って来るのを心待ちにしていた。
それから特に会話らしいものがないまま時間が流れ、遂に丸井が心待ちにしていたスイーツ達が運ばれてきた。
「お待たせ致しました。AセットとBセットになります。お飲み物はどちらも紅茶で宜しかったですね」
「うん、有難うー」
いよいよ舌鼓を打つ至福の時を迎え、丸井は店員がテーブル上にそれらを並べる仕草をわくわくしながら眺め、相手が引っ込んだところで桜乃に声を掛けた。
「おさげちゃん! 来たぜ、早速食べ…」
『食べよう』と促そうとしたところで、彼の言葉が途切れた。
(え…?)
何で…?
何でお前…何も言わずに泣いてんだよ…?
「―――――」
何を嘆くでもなく、悲しむでもなく、桜乃はまだ窓の外を眺めていた。
その白く柔らかそうな頬に、すぅと流れる涙の筋を拭おうともしないままに。
理由も知らず相手の胸の内を読める術もない丸井は、その光景に言葉を失いながら…少女から視線を逸らせなかった。
胸が熱い。
動悸が激しくなってくる。
すぐ傍にいる筈の彼女が、まるで自分とは異なる世界に住む幻にすら見えてくる…
知己が泣いていたら慰めるのは当然のことと知っていながら、この場で丸井がその行動に至るまでには数秒の猶予を要した。
「お、おさげちゃん、どうした?」
「……え?」
「え?じゃなくて…い、いきなり泣くなんてさ、どっか痛いのかい?」
「え…あ…」
そこまで指摘されてようやく桜乃も我に返り、己の頬に手をやって濡れている事実を知った。
「本当……私…ぼーっとしてしまって…」
「ど…どうしたんだ? 一体…」
どうしたんだ、と問いながら、丸井は同じ質問を自分にもぶつけたかった。
おかしい、どうしたんだろう、俺。
こいつの泣き顔を見た瞬間から、俺までヘンになっちまった…食欲までぶっ飛んでどっか行っちまったし…!
パフェとかクレープとか、もうどうでもいいから、今はこいつの、この涙を止めてやりたい。
「何か、悩みでもあんのかい? 俺で良かったら聞くしさ、出来ることあれば…」
「いえ、いえ…何でもないんです、本当に…ただ」
桜乃は申し訳なさそうに何度も頭を下げつつ微笑み、その顔を再び窓の外へと向ける。
「…散っていく桜を見ていたら、どうしてか涙が出てきてしまって…悲しい訳でもないのに、胸が…」
苦しい…
「…っ!!」
ずき…っ!
(な、何だぁ!? 俺にも移ったのか!?)
またこいつを見たら、ドキドキして、胸が苦しくなって…訳わかんねぇ!!
激しく動揺している丸井を他所に、桜乃は窓からテーブルへと視線を戻しながら手持ちのハンカチで涙を拭った。
どうやら涙が流れたのは衝動的なものだったらしく、桜乃はそれから涙を止めるにはそう時間を要さなかった。
「大丈夫です、もう止まりましたから…楽しい気分に水を差しちゃってすみません」
「い、いや…いいんだけどさ…お前が何でもないなら…」
けど自分は相変わらず動悸が激しい事を自覚しながら、丸井がパフェとクレープ両方のプレートを桜乃の方へと押しやった。
「じゃあ、ほら、食べろよい。アイスとか溶けちまうし」
「あ、私は後ででいいですよ。丸井さんの方が楽しみにしていたじゃないですか」
「ダメ!」
いつもなら二つ返事で引き受けるところを、今回に限って丸井は激しく拒絶した。
「お前がちゃんと食べないと俺が不安だからさ、遠慮しないで食べろよ。お前が食べない内は俺も手ぇ出さないからな?」
「??? は、はぁ…」
それからは自分の宣言の通り、丸井は桜乃に一番口を譲り、更にかつてない出来事として自分よりも相手がより多く食べることを勧めたのであった。
新学期の立海大附属高校…
「……ふぅ」
「…?????」
新学期が始まり、新入生達が例外なくいよいよ始まった新生活に胸を膨らませている時…同じ新入生の一人であるジャッカル桑原は、実に面妖な出来事に首を傾げていた。
「…大丈夫か? 丸井」
「…」
呼びかけた先は、先程から何度も繰り返し窓の外をぼーっと眺めつつ溜息を吐き出している、自分の相棒だ。
何事かと思って理由を尋ねても、返ってくるのはやはり意味のない溜息の音ばかり…
(…最近おかしいな、コイツ)
春の陽気に当てられたのか、上の空である事が多くなったし、元気があるのかないのか今ひとつ分からないし、何より食欲が人並みに落ち着いている様に見えるし…
(…流石にコートの中で放心してることはないが、気になるな…)
そんな二人の処に、不意に柔らかな声が掛けられた。
「二人とも、そんなところで日向ぼっこかい?」
「? ああ、幸村。まぁそんなところだな」
「…」
親友の幸村がその場の二人を見つけて歩み寄ってきたが、それでも丸井の虚ろな視線は窓の外から逸らされることはない。
しかし、その視線が窓の外の何かを凝視しているのではなく、視点すら定まっていないのだということは、目敏い幸村にはすぐに知れることになった。
「…珍しいね、ブン太が上の空だなんて。いつもはお弁当が足りなくても逆により騒ぐくらいなのに」
「だろ? 腹でも痛いのかと思ったらそうでもないしなぁ…」
どうやら仲間内では彼の不調は全てその腹具合に帰結されるらしいが、そんな或る意味失礼な感想もスルーして、不意に丸井が幸村に背中越しに問うた。
「…おさげちゃんがさぁ」
「…竜崎さん?」
「……桜見て泣いてたんだよなぁ…何でもないって、勝手に涙が出たって言ってたけど…花見るだけで泣くなんて、アリ?」
あの時の彼女の姿を思い出しても、動悸を覚えるばかりで疑問がちっとも解決しない。
最近は、あの日のことばかり思い出してしまうし、何をするにも手につかない。
春なのに…新しい学生生活の始まりなのに…
「…そうか、彼女もお年頃だものね」
どうやら丸井よりは女心の機微に敏い幸村は、特に不思議に思うこともない様子で頷いた。
「多感な時期だもの、散る花や月を眺めて涙する乙女なんて、文学小説ではよく出てくる話さ。彼女はいかにも感受性が豊かそうだしね、恋でもしたらもっと綺麗になるよ、あの子は」
「恋!?」
幸村の発言の中の一単語に、丸井がいきなり食いついた。
「恋って!? おさげちゃんが誰かに恋してるって事!?」
「そうじゃなくて…今はしてないかもしれないけど、彼女ぐらいの女の子は恋をしたがるものなんじゃない? 特に桜咲くこの季節はね」
「……」
あっけらかんと大胆な事を言い放った幸村に、丸井は何か大きなショックを受けたような表情を垣間見せ…再び窓の外へと顔を向けた。
そして沈黙…
「……」
脇からちらっとジャッカルが相棒の様子を窺うと、何故か彼の頬が若干赤くなっている…気がする。
春の暖かな陽気の所為か、それとも…
「…おい、こいつの方がもうとっくに落ちてんじゃないか? 恋に」
「だね」
ふふっと笑いながらジャッカルの意見に賛同した幸村が、こそりと小さく呟いた。
『この間、竜崎さんからメールが来てさ…ブン太と一緒の時に泣いちゃって、どうしたらいいかってすっごく心配していたんだよね…優しくしてもらったけど、泣くなんて失礼なコトして嫌われちゃったんじゃないかって、そりゃもう、『恋する乙女』そのものの文章で』
「…………で?」
「大丈夫じゃない?って、返しといた」
「教えてやれよ、アイツにもよ!」
「えー? 折角珍しいブン太見られるのに」
お前が少しだけ動いたら万事解決じゃねーか!と、相棒思いのブラジル人ハーフが力説したが、向こうの優男ははいはいと笑顔で軽くいなした。
「まぁ折角だし、もう少しばかり二人には恋の悩みを味わってもらおうよ…後は俺が上手くブン太の背中を押しとくから」
「本当だろうな? 頼むぞ?」
「うん」
そしてその放課後、幸村は桜乃から自分宛に届いたメールを、丸井の携帯にそっくりそのまま『誤送信』したのだった……
了
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