Unlimited Heart


「お早うございます、仁王先輩」
「おう竜崎か、相変わらず元気じゃの」
 立海へと通じる朝の通学路で、そんな何気ない会話が交わされていた。
 呼びかけたのは、青学から立海へと転校し、現在は男子テニス部のマネージャーも務めている一年生女子、竜崎桜乃。
 軽快な口調で返したのは、同部のレギュラーでもある三年生、仁王雅治だ。
 朝練に向かう時間の関係上、彼ら二人はよく通学路で出会い、それから一緒に通学することが多かった。
 立海のテニス部レギュラー達は、この優良マネージャーを普段からとても可愛がっており、立海一のトリックスターである仁王もその例には漏れていない。
「ちょっと寒くなってきましたね」
「そうじゃの、俺のクラスでも風邪が流行っとるみたいじゃ。お前さんは大丈夫か?」
「うがい、手洗いは欠かしてません!」
「そうか、よしよし」
 なでなでなでなで…
 そしてもう一つ。
 仁王は、桜乃を褒めたり可愛がりたい時には、よく彼女の頭を撫で回すという癖というか習慣の様なものがあった。
 これはどうやら桜乃限定であるらしく、彼がこれまで他の後輩などに対し、この行為を行った事は誰も見たことがないらしい。
「きゃ〜」
 今日も早速、仁王の頭なでなで攻撃を受けた桜乃は小さな声を上げたが、褒められる事は純粋に嬉しいので、その表情は柔らかだ。
「マネージャーも身体が資本じゃ。それに何よりお前さんが辛くなる。気をつけんとな」
「はぁい」
 にこにこっと笑う桜乃の表情を見て、仁王は思わず苦笑いを浮かべる。
 どうにも自分は最近、彼女のこの笑顔が見たくて手を伸ばしている気がする。
 この子がこういう笑顔で笑ってくれているということは、この子が幸せであるということだ。
 無論、表情だけで人の真意が測れるなどという甘い事を、この詐欺師は考えてはいない。
 寧ろ、仮面を付けていない人間の方が、世の中圧倒的に少ないということも知っている。
 しかしこの娘…桜乃はどうやら他人を誤魔化し、騙す為の仮面は持ち合わせていないらしい…自分の詐欺師としての本能が正しければ。
 だからこそ、桜乃の屈託ない笑顔には、彼の心を安堵させる何かがあった。
「むむっ、何か企んでますか?」
 一方、そんな相手の事情は知らない桜乃は、彼の苦笑を見てちょっと警戒。
 酷い目に遭わされた事はないものの、これまでその素直な性格の所為で若者にからかわれたり、軽い詐欺に引っ掛かった経験は数知れず。
 構える桜乃に、仁王は「ふ〜ん」と何やら含んだ笑みを浮かべてみせた。
「なーんじゃお前さん、俺が何も企んどらん時なんかがあると思っとったんか? 相も変わらず呑気じゃのう」
「あっ、何か嫌な笑顔っ。避難避難〜!」
 ぱたた〜っと逃げようとする少女の腕をあっさり掴んで、詐欺師はとても楽しそうに笑う。
 向こうが本気で恐がっていたらそれなりにショックだろうが、桜乃は警戒はしているものの、嫌悪の色は見られない。
「つれないのう、俺とお前さんの仲じゃろうが」
「どんな仲なんですかぁ〜〜」
「主人とペット」
「うあああ〜〜〜ん!!」
 ぱたぱたと両手を振り回して主人の手から逃れようとしていた桜乃犬だったが、そこに第三者の声が割り込んできた。
「お早う、竜崎さん」
「え…あ、お早うー」
「…?」
 仁王と桜乃が振り返った視線の先に、自転車に乗った男子生徒がそれを止めてこちらを見ていた。
 少なくとも仁王にとっては初対面になる男子であり、おそらく下級生だ、同じ立海の制服を着ている。
 仁王が沈黙を守りながら二人の様子を伺っている前で、向こうは親しげに桜乃に声を掛けてきた。
「今日の数学の宿題、最後の分かった? 竜崎さん」
「あ、問5だね。うん、何とかー」
「ラッキー! 後で教室で教えてくれない? 俺、丁度今日、そこの答え合わせ当たりそうなんだよ。これだけ分からなくってさ」
「うん、いいよ」
 すぐに承諾した少女に、サンキュ!と短く礼を述べると、相手の男は再び自転車を走らせ、見る見る内に二人を追い抜いて行ってしまった。
 ひらひらと手を振って自転車を見送った桜乃は、それを降ろしたところで再び仁王に顔を向けた。
「すみません、お話の途中だったのに」
「いや、大した事じゃなかろ…同級生か?」
「はい、今、席が隣で、よくお話するんですよ」
「ふーん」
「…? 何ですか?」
 やけに去って行った自転車の少年を気にするような素振りをする先輩に、桜乃は不思議そうに首を傾げる。
 この人は普段は我が道を往く!を地でいく様な性格で、とにかく他人からの束縛、命令を嫌っている。
 そういう性格もあり、赤の他人の領地には最低限の付き合い以上に踏み込まないタイプだ。
 もし彼が踏み込んでいっている場合…その相手が詐欺の獲物として狙われている可能性が高い。
 その仁王が、自分の同級生に過ぎない見ず知らずの相手を気に掛けるとは…?
「…騙しちゃ駄目ですよ」
「最早、お前さんの頭の中では普通の生徒でもないんか俺は…」
 先輩ちょっとショックーとうそぶきながら、その時は仁王は適当に相手の追求をかわしつつ、それからも桜乃と二人で学校へと向かっていった。


 昼休み、柳生がダブルスの相棒である仁王と一緒に、一つの机を挟む形で座り、次回の練習試合におけるフォーメーションの確認をしている時だった。
 この日彼は、仁王の非常に珍しい姿を目にすることになる。
「仁王君?」
「……」
「仁王君」
「……」
 何度呼びかけても、相手はぼーっとした様子で、窓の外を見つめしかもその焦点が合ってない。
 夢と現の狭間を彷徨っている様な様子の仁王に、こちらの世界に呼び戻そうと何度か呼びかけてみても、相手は全く気付く素振りすらなかった。
「……」
 今の様な方法ではそれが不可能と判断した時点で、柳生は即座に次の手段に移った。
 相手に声を掛けることを止め、すうと右手を目の前の机の上に持っていきながら拳を握ると…
 だんっ!!
「うお!!」
 したたかにその拳で机を叩いた大音に、向こうはようやく肩を激しく動揺させて視点をこちらへと移してきた。
「おはようございます」
 例え目が開いていても呆けているのは眠っているのと同じこと、とばかりに、柳生が時間にそぐわぬ挨拶をする。
 一方仁王は、一度は背筋をしゃんと伸ばしたものの、すぐにそれは再びぐにょ〜と曲がり、彼の顎が机の上に乗せられた。
「何じゃ柳生、いきなり机に暴力を揮うとは可哀想に…」
「自分の事は棚上げですか…仕方ありませんね」
 そこまで言うのなら、と柳生は更に強く拳を握る。
「君がそこまで机に対して同情的だとは思いませんでした。ではこれからは仁王君が机の身代わりに…」
「ここにいぢめっこがおる〜〜〜」
 脱力モードはそのままに、今度はめそめそと泣き真似を始めた相棒に、柳生は今度こそ呆れた視線を眼鏡越しに向けた。
「……どうしたんです、今日は」
「…別にどうもしとらんよ?」
「嘘を仰い、朝練の時から何だか様子が変ですよ。メニューは無難にこなしていましたから他のメンバーは気付いていないかもしれませんが…体調でも悪いんですか?」
「別に」
「では何か悩み事でも?」
「悩み事…?」
 何気なく反芻した仁王の脳裏に、ある光景がフラッシュバックした。
 朝の通学路…桜乃があの自転車の少年と仲良く言葉を交わしていたあの光景。
 桜乃と自分はテニス部の部員とマネージャーという関係である事は間違いないが、彼らの同級生と言う囲いで語れば自分は完全な部外者だ。
 あの時の自分は、何の言葉も掛ける事は出来なかった。
 そう、他人の様に、彼女の背中を黙って見つめているしかなかったのだ。
 当たり前のことだ、間違った行為ではない…なのに、自分の何処かにそれを受け入れる事の出来ない感情がある。
 これは…何だ?
(竜崎との会話を邪魔されたから、ムカついとるんか? 俺…)
「仁王君?」
「!…ああ、いや…多分、ない」
「多分?」
「きっと、ちょっとだけ疲れとるんじゃろ…今日は早めに寝る事にするけ、勘弁じゃ」
「……」
 ひらひらと手を振って相変わらずおどけた調子の詐欺師だったが、その最後の台詞だけは、見た目と同じふざけた気持ちでのものではないと、柳生は即座に見抜いた。
 長く付き合って、相棒として相手の一挙手一投足の癖を全て盗んできた自分だからこそ分かる。
 その言葉自体に、仁王本人が確証を持てないでいる事を。
(本当に珍しい…仁王君自身がここまで心を揺らしているなど、私は今まで見たことがありません)
 一体何が…?
 顎に手を当てて悩んではみたが、結局それは無駄な事なのだと悟った時点で、柳生は諦めた。
 それ以上しつこく相手に尋ねることもしなかった。
 本人が分からないのに、他人に尋ねられて答えられる訳が無い。
 そして、答えを知らない相手を無駄に問い質すのは、紳士の行う行為とは程遠い。
「…明日には調子が戻るといいですね」
「…おう」
 本心で励ました柳生に相手が答えた時、次の授業の予鈴が鳴り響き、辺りは一時雑然とする。
 そんな中、柳生も教室に戻ろうと立ち上がったが…
「…ぐぅ」
 堂々と机に突っ伏した仁王に対し、
「早すぎます!」
と、叱りながら、結局拳骨を一つ相手の頭上に振り下ろしていた…


「あ、探しましたよ」
「ん?」
 ふと気付くと、自分が練習を始めようと立っていたコートの向こうから、女性の声が聞こえてきた。
 靴紐を結ぶ為に屈み込み、伏せていた頭を上げると、その先で手を振っている姿が見える。
 桜乃だ。
 いつもの様にマネージャーの仕事を元気にこなしている様だ。
 周りのメンバー達はそれぞれ別の場所にいて、相手の視線がこちらへと向けられている以上、向こうが探していた対象というのは自分しか考えられない。
「おう、何じゃ、竜崎」
 立ち上がり、相手の方へと改めて身体を向けると、向こうはもうコートを半分以上歩いて渡ってきていた。
 にこにこと、とても嬉しそうな笑顔を向けているところを見ると、何か喜ばしいことがあったのだろうか?
「良かったぁ、とても会いたかったんです」
「!」
 ああ、何だ、自分に会いたかったから…会えたから、そんなに喜んでいたのか。
 相変わらず素直で可愛い子だ…と思いながらも、自分もつい嬉しくなって笑ってしまう。
 何故かは知らないが、いつもならもっと冷静に応えている筈の自分が、今日に限ってやけに心が緩んでしまっている。
 しかも、それを受け入れてしまっている…何の疑問も持たずに。
 おかしいと思う気持ちは確かにあったが、今の仁王にはそれを疑問に思うよりも桜乃を受け止める事の方が余程大切で、彼女に向けて手を差し出した。
 もう相手は自分のすぐ目の前まで走ってきている。
 後は、その手を捕まえるだけ…の筈だった。
 す…っ
「!?」
 差し出した手は、握られるどころか触れられることすらなく、そのまま宙を彷徨った。
 相手が触れ損じた訳ではなく、触れようとしなかったのだ。
 その証拠に、桜乃はもう自分の傍を通り過ぎ、こちらには一瞥も向けることはなく、背後へと走って行ってしまったのだから。
(え…?)
 一瞬、何が起こっているのか分からなかった仁王は、得意のポーカーフェイスも出来ないままに振り返る。
 そこには立ち止まっている桜乃と…あの少年がいた。
 あの日と同じ、自転車に乗った姿で。
「!」
 呆然とする仁王を置いて、桜乃はまるで彼が存在していないかの様に、向こうの男にばかり笑って、話し掛けている。
 そして向こうの少年も、桜乃と何かをとても親しげに話しながら、手を彼女の髪や頬や肩へと、遠慮もなく触れさせていた。
 まるで恋人同士の様な、そんな雰囲気の中で。
(嘘、じゃろ…竜崎)
 お前さん、いつから…そいつとそんなに親しく…?
 俺の目を誤魔化せるなんぞ、あり得ん筈じゃ、お前さんに限って!
 ショックの原因が、桜乃と少年の関係なのか、それとも自分がここまで動揺しているからなのか、分からない。
 不愉快で、気持ち悪くて…気がついたら心が全てを否定し、叫んでいた。
「嫌じゃ!! 絶対に認めん!!」

「っ!!」
 叫びながら目を閉じ、再び開いた時、暗闇が見えた。
 暫し身動き一つ出来なかった若者は、今が深夜で、自分がベッドの中にいる事実を確認すると、ゆっくりと身を起こした。
 脇の目覚まし時計のデジタルを確認すると、まだ三時を回っていない。
 静寂の中で、身体だけではなく精神も目覚めたのか、仁王はようやく状況を把握した。
「…夢、か」
 夢だったのか…さっきまでのあれは…
 あの娘も、少年も、現実ではなかったのか…
 確かに今更考えたらおかしい、部活の最中に桜乃がコートを歩いて渡ってくるなんてあり得ないし、振り返った先に自転車に乗った奴がいるなど、状況的にも考えられない。
 考えるほどに出てくる矛盾点を全て見逃してやっていたのも、夢の所為だったのか。
 そして、覚める間際に自分が叫んだのもまた…
「…はは」
 力の抜けた笑みを零し、一気に疲労を覚えた身体を再びベッドに投げ出して、若者は仰向けのままに腕で視界を覆う。
「……流石の俺も、夢の中までは騙せんか」
 夜明けまでは、まだ遠かった。



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