五分遅れ
「あれ? 事故があったみたいですね」
「む…ああ、そうだな」
或る日の立海の最寄の駅で、そんな会話が交わされていた。
他の客の中に混じって、駅に設置されている電光掲示板を見上げている二人の人物。
一人はおさげの少女…もう一人は、一見すると成人の様にも見えるが、制服を纏っているところを見るとどうやら立海の学生の様だ。
男は、慣れた手つきで己の被っていた黒の帽子のつばを押さえながら、共に立っていた少女に話しかけた。
「まぁ運転が再開しているのは不幸中の幸いだったな」
彼が言った通り、掲示板にゆっくりと流れるメッセージによると、運行は先程までは中断されていたが現在は多少遅れはあるものの再開しているという事だった。
「はい、真田さん」
厳格さが伺える若者に対して、しかし娘は何ら物怖じする様子もなく素直に笑って頷いた。
何気ない些細な仕草だったのにも関わらず、目の当たりにした男は忙しなく視線を逸らす。
「ず、ずっとここで足止めを食らうと、お前の帰りが遅くなってしまう。取り敢えず、次の電車を待つことにしよう」
「はい」
かなりの身長差がある二人だったが、彼らはそんな事など何でもないといった様に、並んで歩き出した。
改札口から構内へと入り、真っ直ぐにホームへの道を歩き、その内の一つを過ぎたところで、あれ?と少女が相手を不思議そうに見上げた。
「真田さんが乗る電車のホームって、あそこじゃありませんでしたか?」
「ああ」
「…?」
肯定しながら尚そちらへと向かおうとはしない相手に、桜乃がきょとんと首を傾げて不思議そうな顔をする。
それを感じながらも真田は視線を合わせようとはせず、真っ直ぐに前を向いたまま彼女の問い掛ける様な眼差しに答えた。
「ど、どうせここまで来たのだ、ついでにホームまで送ってやる。最近は何かと物騒だし、俺も急いでいる訳ではないからな…迷惑か?」
最後の一言には明らかに不安が滲んでいたが、対する桜乃の返事はその不安を瞬時に払拭した。
「いいえ! 凄く心強いです。有難うございます、真田さん」
「いっ…いや」
嬉しそうに微笑みかけられた若者は、それだけでぎこちなく身体を後ろに引きながら、落ち着かない口調で返した。
「別に…何ということではない」
さぁいこう、と促す男の視線は、しかししっかりと逸らされたまま、彼は少女の身体に指一本触れる事もなく、二人で彼女の乗る電車が入るホームへと向かう。
それだけを聞いたら、まるで真田が相手に対して好ましくない感情や嫌悪感を抱いている様にも聞こえるが、実は逆である。
百聞は一見にしかず
その諺の通り、二人の様子を見たら、彼の少女に対する感情が負に傾いていることなど有り得ない事が分かる筈だ。
視線を逸らすのは見たくないからではなく、恥ずかしいから。
触れないのは、その男があまりに純情で、女性慣れしていないからだ、と。
そして更に、少し勘のいい人間なら、真田をそうさせているのが彼の性格だけではなく、少女に対する好意からだという事にも気付くだろう。
そう、彼は、真田弦一郎は、他校の生徒であるこの竜崎桜乃という少女を、どうしようもない程に好いているのだった。
固い性格である若者の、生まれて初めての恋だった。
性格が災いしてか、そんな話題などしたことも無かった為、彼にはとにかくそういう世界の情報が少な過ぎてどうしていいのか分からず、彼女の前ではいつも今の様な状態に陥ってしまっているのだ。
他人が見たら微笑ましくても、本人にとっては大問題。
もし肝心の相手である桜乃が真田の気持ちを察してくれたら別の形での展開も望めたのかもしれないが、残念なことには彼女も真田と同じく恋愛ごとには鈍感だったらしい。
お陰で二人の関係は相変わらずの平行線…しかし桜乃が真田の事を心から信頼している事は間違いない様だが。
兎に角そんな二人はすたすた、とことこと並んで仲良く目的のホームへと向かった。
ホームに到着すると、先に電車を待っている人の姿は然程多くなく、ちらほらとベンチも空いている状態だった。
改めて備え付けの掲示板に目を遣った桜乃が、電車の到着時間を確認して腕時計と照らし合わせてみる。
「…五分遅れというところですねぇ」
「そうか…」
二、三分程度ならこの場に付き合うのも自然な流れだが、五分となると少々長い…このまま彼女の傍に留まるのは不自然か…
どうしよう、と内心真田が考えていた時だった。
「あ、あの、真田さん!…もう、あちらのホームに行かれますか?」
「ん…?」
何かの意を決したような気合が入った顔と声で桜乃が呼びかけてきたので、真田は何事かと思いながら彼女を見下ろした。
何れは行かなければならないがすぐにこの場を離れなければならない訳でもなく、どう答えるべきかと考えている間に、向こうが申し訳なさそうに首を傾げて控えめに申し出てきた。
「もしお時間があれば、もうちょっとだけ、お話しませんか…?」
「っ…!!」
心細くなったのか、手を合わせて上目遣いに見上げてくる。
つい油断して視線を合わせてしまった真田は、『ずきゅーんっ!!』と胸の奥から響いてくる音を聞いた…勿論、幻聴。
「かっ…構わんが」
「良かった」
じゃあ空いているベンチに座りましょう、と場所を探す桜乃に頷きながら、真田はさり気なく少しの間だけ彼女に背を向け、胸元のシャツをぶるぶると震える手で握り締めた。
(へ、平常心、平常心…っ!!)
もう少し自分の精神力が弱ければ、問答無用で『ぎゅーっ!』としていたかもしれない。
こういう場合、自分は正しいのか、それともヘタレなのか…
桜乃が見つけてくれたベンチの空いている一席に腰掛けながら、相手と再び会話を再開するまで、健全な若者は心で九九を唱え続けていた。
「お話していたら、五分なんてすぐですよね」
「そうだな、何もしていないよりは短いだろう」
そして二人は互いがちゃんと着席したところで、改めて和やかな雰囲気の中で会話を始める。
お茶もお茶菓子もない、しかし、とても楽しい時間。
テニスから双方の学校について話題が移り、それから更に今度はテニス以外の趣味へと話題が移ってゆく。
「ふぅん、将棋って奥が深いですねぇ…そう言えば真田さんは、本当にリラックスする為の趣味とかはお持ちじゃないんですか?」
ふとそんな事を問われ、真田は腕を組んで考え込んだ。
「む?…ううむ、改めて言われてみると、ないかもしれないな…常に己の立ち位置を理解し、気を抜くことなく己を高めよというのが祖父の教えでもあるし…」
「うーん、確かにそれも重要なコトかもしれませんが…」
相手の堅実さのルーツが分かった様な気がする、と思いつつも、桜乃は人差し指を立てながら相手に進言した。
「たまにはほっと肩の力を抜いて、何事も気にせず忘れて休むというのも大事ですよ? あまり気を張り詰めてたら、却って疲れちゃいそうです」
「…むぅ、そう言われてもな」
もし二年生の後輩が同じ事を言ったとしたら即座に相手のサボる口実だと断じただろう真田だったが、桜乃に言われるとつい真面目に考えてしまう。
「何事も忘れて…と言われても、どうしていいものか…」
RRRRRRRR……
その時、突然二人の耳に電子音のベルが聞こえてきた。
「…?」
「え?」
何…と思いつつ二人の視線が彷徨い…ホームの向こうに飛ばされたところで、彼らはほぼ同時に立ち上がっていた。
「しまった!!」
「きゃあ、電車が…!」
桜乃が乗る筈の電車、五分遅れで到着していたそれが、見た時には既にホームの客を全員中へと呑み込んでドアを閉めるところだった。
立ち上がったところでもう遅く、彼らの前でドアを閉じた電車は、ゆっくりと動き出して次の駅へと向かってしまった。
たった五分という事は分かっていた筈なのに、つい互いにお喋りに夢中になってしまい、電車の到着を見逃してしまっていたのか…
「す、すまん竜崎! 俺が、気をつけていなかった所為で…!」
「……」
真田がそう詫びる傍らで、桜乃は暫く過ぎ去っていった電車を見送っていたが…やがて、
「…ぷっ」
軽く吹き出すと、面白そうにころころと笑い出してしまった。
「うふふ…! 真田さんらしくない失敗でしたね?」
「う…」
私だけならともかくとして、と続けた桜乃はひとしきり笑った後で、清清しい笑顔を彼へと向けた。
「出来るじゃないですか、忘れること」
「え…?」
一度立ち上がった身体を再び席へと座らせて、二人は互いに軽く向き合う。
「いつもの真田さんだったら、絶対に今みたいな失敗はしませんでしたよ。気が付かなかったって事は、電車の時間も忘れてたってことでしょ?…お話している間も少しはリラックスしていたみたいだし、それでいいんじゃないですか?」
「そ、それはそうかもしれんが……」
どもりながら、真田はばつが悪そうに視線を逸らした。
「お前の所為でもあるのだぞ、俺はいつも…」
「え?」
「…お、お前と話している時は、いつもこうだ…」
お前しか見えず、他の事などどうでも良くなってしまう…
そこまでは流石に口に出すのが憚られてしまい、言えなかった。
「……」
少女はきょとんと大きな瞳を更に大きく見開いて、照れている相手の顔を見つめていたが、やがてにこ、と嬉しそうに笑った。
「…じゃあ、これからもお話しないとですね!」
「え?」
「私とお話してリラックス出来るなら、しましょう! 私も、真田さんとお喋りするの好きですし、全然問題ないですよ」
「…!」
魅惑的な誘いに思わず頷きそうになったところで、若者の流されきれない堅物な心が、最大出力でブレーキをかけた。
「まっ…まぁそうかもしれんが…だがそうなると、俺はずっとお前に…」
「?」
その時、確かに掛けたのはブレーキだった筈だ。
しかし、桜乃の笑顔によってもたらされた熱暴走の所為か、真田は自分でも知らない内に、ブレーキではなくアクセルを踏み込んでしまっていた。
「……ずっと、俺の傍にいてもらわないといけなくなるのだが…」
「!!」
自分としては嬉しいが、流石にお前は困るだろう、と、そういう意味合いで言った台詞。
しかしその台詞が、聞き方によっては物凄く大胆な求愛の意味を持つことに、真田は発言した後に気が付いてしまった。
「…あ!!」
気付いたところでもう遅い。
一度口から出た言葉はもう元には戻らない、相手の記憶から消すことも叶わない。
「い、いや! 今のは…っ!!」
嘘だ、冗談だ、という訳にもいかない…実際、そうではないのだから。
唯、自分が思い願い、隠していた気持ちを声に出しただけなのだから。
しかし…タイミングが問題だった。
「〜〜〜」
生真面目な若者は帽子を深く被りながら瞳を硬く閉じ、このまま心に感じている熱で自分を燃やし尽くしたいとすら願った。
自分は色恋には詳しくない…が、いきなりあんな事を言われたら、引くに決まっている。
そういう事を言う資格があるのは、その女性に同じく好かれている、心を開かれている者に限られている。
只の知人に言われても、困惑するばかりだろう…
そう思いながら、そろりと瞳を開いて無言になってしまった少女の様子を伺うと、やはり向こうも真田の台詞の意味を受け止めたらしく、赤くなって俯いていた。
どのぐらい時間が進んだのか分からない曖昧な世界で、その少女は頬に手を当てながら微かに笑った。
「え、と……あは、こま、りますね…そんな…」
困ると言われて少なからず落ち込んだ真田だったが、それが当然の反応なのだと分かっているだけに何も言えない。
「…そうだろうな…すまん、その…」
『忘れていいぞ』と続けようとしたところで、一度途切れた桜乃の言葉がまた聞こえてきた。
「そんなこと言われたら……私、ずっとここにいなきゃ…」
「…え?」
思わず聞き返してしまう。
確かに聞こえていた筈なのに、理解出来なかった。
それはどういう意味だ…と思っていると、桜乃の右手がおず、と伸ばされ、彼のそれに触れてきた。
「っ!?」
「…たった五分じゃ、済まなくなっちゃいますよ?」
「りゅう、ざき…?」
脈打つ心臓の鼓動を脳の中で激しく感じながらも、真田は触れられた桜乃の手を払うことなく、寧ろ己から指を絡めた。
いつもの理性が、今はまるで働かない。
相手の細い指先を感じているだけで、もう何も言えなくなってしまっている若者に、少女はまだ赤くなりながら小さく言った。
「真田さんがいいなら……私も傍にいたいな…」
「!!」
アクセルもブレーキも壊れたら、今の自分の様に動けなくなるのだろうか。
その代わりに、高純度のガソリンが脳髄の中に満たされて思考を暴走させてゆく。
お前は確かに、俺の傍にいたいと言った。
嘘の様だ……しかし、嘘であってほしくない!
もし俺が、俺の気持ちを認めるなら…お前は俺の望みを叶えてくれるのだろうか?
それなら俺は…喜んで、お前に伝えるぞ。
いつもなら視線を横に逸らしていただろう、しかし今の真田は、真っ直ぐに逸らすことなく少女を見つめていた。
いつもの遠慮がちな態度が嘘の様に、堂々と。
「…俺も…俺は、お前が…」
好きだ…
ベンチに座ったままの相手を、ゆっくりと手を伸ばして腕に抱き締め、最後の一言は耳元で囁く。
周りには誰もいなかった…それでも、他の誰にも聞かせたくなかったから。
「……うふふ」
真田に身を委ねながら、彼の胸の中で桜乃が小さく笑った。
「…電車、五分遅れてくれて良かった…」
「え?」
「……遅れてくれたから…こうしていられるんですよね?」
「!…ああ」
確かにそれはそうだな、と納得しながら、嬉しそうに桜乃を抱き締めていた真田の顔が不意に曇った。
「…? どうしたんですか?」
「……その…また、もう五分もすると、次の電車が来るのだが…」
「あ…」
「……電車が来ても、お前を手放せる自信が、ない」
折角、こうして腕の中に抱き締めることが出来るようになったのに…と残念がる男に、桜乃は少しだけ沈黙していたが、こそっと小さく囁いた。
「もうちょっとだけ……遅らせます、か…?」
「!」
電車の遅れは五分で済んだが、彼らについてはそうはいかない様である。
了
戻る
サイトトップヘ