触れられない距離
「こんにちは、真田さん」
「!…お前か」
その日、立海のテニス部の活動中に、一人の少女が見学に訪れていた。
青学の一年生、竜崎桜乃が、ここ立海のテニス部を見学に訪れるのは、もう関係者にとっては珍しいものでもなくなっている。
特にレギュラー達にとっては彼女は妹分としての立場に近く、何かと気に掛けてやっていた。
「あ、竜崎だ」
「久しぶりだな」
切原とジャッカルが、遠くで真田と共にいる彼女の姿を見て声を出す。
それに応じて同じくそちらを見た丸井が、ガム風船を作りながら続けた。
「…相変わらずお堅いねい、ウチの副部長」
何が、というとその副部長の様子を伺えばすぐに分かる。
桜乃と何かを語り合ってはいるものの、その距離は何となく間が空いており、加えて男は腕組みの仁王立ち。
かろうじて体を相手の方に向けてはいるものの、視線は一秒合わせたら二秒逸らしている感じ。
悪意こそ感じられないものの、いかにも女性に慣れていない堅物の男性の対応である。
それでも向こうの少女が普通に話しているのは、これまでの経験で真田がそういう人となりだという事を理解してくれているのだろう。
理解ある知己を持つというのは幸せなことである。
「距離七十センチ。少しは慣れというものを知る事が出来たらいいのだが…弦一郎には難しいのか」
淡々とそう呟く参謀の柳に答える形で、詐欺師の男が皮肉の笑みと共に言った。
「自分からあれだけがっちりガードしとるのに、慣れるも慣れんもないじゃろうが…腕組みまでして、指一本触れられもせんし、空いとる距離もまたビミョーじゃしのう」
「軟派な人間よりは好ましいですが、確かに少々固すぎますね…相手が竜崎さんなら、変な誤解を生むことはないでしょうが、あまり固いと相手との壁が高くなりますよ」
困ったものですね、と続けた紳士の隣には、部長である幸村がいつもの様に薄い微笑みを称えて無言を守っていたが、若者達の会話が一時途切れた事を受けてそこから動いた。
「おう?」
「幸村部長?」
丸井達の不思議そうな視線を受けながら、部長はラケットと、テニスボール一つを手にしてスタスタとその場を離れ、コートへと向かっていった。
「…今の、少し反応が遅かった感じがしました」
「ああ…」
コートを見つめ、試合を熱心に見学している少女の一言に、真田がちらっと腕時計を見遣りながら頷く。
「試合を始めてから結構な時間が経過している。奴は純粋に短期決戦が得意なタイプだが、その分、長期戦は苦手でな…スタミナが続かんのだ。それを克服するのが当面の課題でもある」
「ふぅん…でも、他にも何となく違和感があるような…ステップのタイミングがほんの少し…完璧に見えるのに何でだろう…?」
うーん、と首を曲げながら必死に考える桜乃を、真田がちらりと見る。
こちらに視線を向けていない場合には、相手にそれを向ける事は何という事もない。
自分が彼女を見ているという事実が知られていないのなら、ずっと見つめていたいのだ。
いや、出来ることなら、見つめるだけではなく触れていたい。
それが出来ないのは、恐ろしいからだ。
一度彼女に触れてしまえば、心に留めている欲求の歯止めが効かなくなりそうな気がする。
そしてそれが桜乃を嫌悪させ、自分から遠ざけてしまいそうな気がして、恐ろしくて仕方がない。
だから、自分は敢えてここにいる、触れられない距離を自ずから置くことで、互いを守るために。
そして腕を組むことで、浅ましい想いを戒めている…
そんな胸の内を気取られない様にしながら、真田は相手の疑問に答えるべく、再びコートに視線を戻しながら考えた後、思い当たる事を述べた。
「…お前は、青学でも見学をしているのか?」
「え? は、はい…ここに来る時間がもてない時は、よく…」
「成る程な……越前の試合も?」
「はい、やっぱり、凄く上手ですから」
「ふむ」
「? それが何か?」
見上げてくる桜乃に視線を合わせ…再びせわしなくそれを逸らしつつ、彼は続けた。
「い、いや…奴は特別だからな…スプリットステップを使える奴のタイミングを基準に見てしまうと、出来ない奴のそれとは明らかに違うだろう」
「あ…そうでした」
なかなか出来ない技術を持つ人物の活躍を見慣れているが故に感じていた違和感だったのか…納得。
「言われてみたらそうですね…今見ていたステップも別に悪くなかったから、それがかえって不思議で」
「視覚的に気づいた事でも理屈で説明出来ない事はよくある…しかしそれに気付くとは、お前も遊びで見ている訳ではなさそうだな…感心な事だ」
「そ、そんな事ないです。結局、真田さんに言われないと分からなかったんですから…」
ぱたぱたと手を振って恥ずかしがる相手に、真田が謙遜するなと笑う。
「目的もなく見ているだけでは、その相違にも気付く事はなかった筈だ。見てすぐに実践出来るほどにテニスは単純ではないが、プレーの違いを見抜くセンスを養い、己に活かす事は、全てのプレーヤーに共通して重要な事だぞ」
「は、はい…」
固い言い方ではあるけど、今のって褒めてくれたんだよね…?と桜乃が心で思った時だった。
「危ないっ!!」
突然その場に響いてきた大声。
「…?」
聞き慣れた声…とぼんやりと桜乃が思っている時には、彼女の腕は何者かに勢いよく捕まれていた。
「竜崎っ!!」
「え…っ」
捕まれたと思った次の瞬間には、そのまま腕ごと引かれて何かにぶつかっていた。
衝撃こそあったものの、痛みはない。
それどころか衝撃が去った後には、温かで力強い何かで包まれているような心地よい感触さえ覚えていた。
「…え?」
何が起こったのかまだ分かっていなかった少女が、暗くなった視界から逃れるように目線を上に向ける…と、
「…怪我はないか? 竜崎?」
(ひゃっ…! 真田さんが…)
近い…ッ!
顔がすぐ傍…上から覗き込むように見られている事に先ず驚き、そして自分が彼に抱き締められている事実に気付いて更にまた驚く。
「だっ…大丈夫、です…」
「…っ」
うっすらと頬を染めながら答えた相手の反応からようやく真田も今の二人の格好に気が付き、今更ながらに狼狽した。
「あ…っ、その…す、すまん!」
「い、いえっ…有難うございました」
お互いに少しだけ遠慮がちに離れ…どちらも声を掛けづらそうにしているところに、そもそもの騒ぎの元凶が現れた。
「ごめんごめん、ちょっと手が滑って…怪我は無かった?」
「精市…」
「幸村さん…あ、私は大丈夫です」
幸村は二人が無事だと聞かされたところで、そう、と笑った…いつもの穏やかな笑顔で。
そこから、彼の本当の心の内は覗く事は出来ない。
「良かった。弦一郎が傍にいたから助かったよ…しっかり守ってもらえるんだし、竜崎さんも彼の傍にいたら安心だよね?」
「は…はい」
同意を求めた相手に、桜乃が再び頬を染めつつ返事をしたが、それを見ていた真田は何故か渋い表情のままに親友を見つめていた。
「…あ、私、ボール取って来ますね」
そして桜乃が一時そこから離れた後で…
「俺と共にここに入部して三年…今まで一度としてこんな失態をやらかさなかったお前が、一体何の真似だ…?」
明らかに、先程のアクシデントが故意によるものだと看做したように真田が相手をきつく見据えたが、本人はえ?と朗らかな笑みを崩さなかった。
「だから偶然だってば…ところでどうだった?」
「…?」
「思ってたより簡単でしょ…? 距離を縮めるって」
「!!…お前…っ」
やっぱり…!!と返そうとした時には、既に向こうは背を向けてその場から離れようとしていた。
「触れたぐらいで壊す訳でも殺す訳でもない…君は恐がりすぎだよ、弦一郎」
君が思っている程に、あの子は弱くはないよ…そして君自身の心もね。
「………」
親友が何を言わんとしているのか…勿論真田にはもう分かっていた。
「…ふん」
言いたい事、分かりはするが…お前の意地の悪さもよく分かるぞ……しかし感謝はしよう。
真田が一人になり暫くした後、再びボールを持った桜乃がそこを訪れ、きょろっと辺りを見回した。
「? 幸村さんは?」
「ああ…行ってしまった。代わりに俺が預かろう」
「そうですか、じゃあ」
若者は、その小さな手から黄色のボールを受け取った。
いつもよりずっと近い距離で、指先を触れ合わせて…
その時確かに…彼の心には恐れの感情はなかった。
後日…
「…二人の距離、六十センチ」
真田と桜乃の距離を相変わらず目測で正確に測った柳が言う隣では、切原がやれやれといった様子で後ろを振り返っていた。
「…あと四、五回部長がちょっかい出したら、ちょーど良くなるんじゃないッスかね」
「俺もそこまでヒマじゃないんだよ」
幸村の表情もまた、微笑みながらもやれやれといった様子だ。
ハッパをかけてやったのに、ようやく十センチの進歩か…まぁいかにも彼らしいけど。
「ま、後は本人達で何とかするじゃろ」
「観察日記をつけないように、仁王君」
ちゃっかりと柳の言った二者の距離を書き留めていた詐欺師に、紳士がきっちりと釘を刺す。
記してどうなるものでもないだろうが…
「…雰囲気は悪くないし、上手くはいくと思うが」
「その前に寿命が来ないといいけどよい、真田のヤツ」
ジャッカルと丸井の台詞に、反対するメンバーは誰一人としていなかった…
了
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