線を引く


「おや、あの子は」
「ん? あ、どっかで見たことあるよーな…」
 その日、立海のテニス部レギュラーメンバーが全員で街に繰り出していた時のこと。
 ふと部長である幸村が声を出しながら、数メートル先を歩いている一人の少女に視線を遣ったことで、他のメンバーもその人物に注目した。
 見た目、普通の少女だが、その長いおさげは腰まであり、明らかに他の通行人よりは目を引いている。
 のんびりとした歩みで、今は横顔を見せる形でビル内の店の中を覗いている少女は、表情だけを見たら内気な印象だった。
 向こうはまだこちらには気付いた様子はなく、じーっと店の中に注目している。
 何か気に入った洋服でもあったのだろうか。
 丸井がガムを噛みながら相手の事を思い出そうとしている間に、それまで副部長の真田と喋っていた柳蓮二があっさりと答えを出した。
「青学の生徒だ。竜崎先生の孫だったな、試合の時にもよく見かける」
「ああ、そう言えば」
 丸井の相棒であるジャッカルも彼女については今柳に言われたことで思い出した様だ。
「確かにそうじゃな。あの長いおさげには間違いなく見覚えがある」
「よくよく思い返すと、青学のベンチで見かけたことがありますよ。熱心に向こうを応援していましたね」
 仁王や柳生も、全く覚えていないという訳ではなかったらしく、確かに過去の記憶に彼女が存在していることを確認していた。
「そうか、だから見覚えがあったんだね…竜崎先生のお孫さんなら姓も竜崎なんだろうけど…」
「名は桜乃だ」
「流石に詳しいな、蓮二」
 立海に於いては並ぶ者のいないデータマンである柳に、真田が惜しみない賞賛の意を示す。
 彼の情報収集能力は普通の学生とは比べものにならない。
 彼の綿密なデータの解析があってこそ、これまでの立海の快進撃が実現したと言っても過言ではないのだ。
 更に彼の恐ろしいところは、データを収集する範囲がテニスのみに限らず、あらゆる分野、雑学に渡っていることだ。
 故に、一見テニスには何ら関係のない、相手の監督の血縁関係について彼が言及したことについても、他のメンバーは何ら疑問を唱えなかった。
「買い物かな?」
 青学の某一年生には溢れる闘争心を隠そうともしない切原も、相手が年下の女子ともなると、その表情は猫の様に無害なものになる。
「あまり見つめるものではありませんよ、失礼にあたりますから」
 流石に紳士らしく柳生が後輩の行為を窘めている間に、見えない視線の気配を感じ取ったのか、それとも彼らの話し声が微かに聞こえたのか、桜乃がふいっとこちらへと顔を向けた。
「あ…」
 どうやら彼女もこちらの面子については記憶に残してくれていたらしい。
 そのまま無視する様子もなく、その大きな瞳はこちらを捉えたまま、彼女は身体も同じく若者達の方へと向けた。
 声を掛けるには些か距離があったので、彼女は静かにお辞儀をする。
 そうしている間に、お辞儀をされた男達もそのまま素通りする訳にもいかないので、取りあえずは少女の方へと歩み寄った。
「こんにちは」
「あ、こんにちは…」
 部長の幸村が代表で声を掛け、桜乃はそれに答えながら、小さく身体を揺らせる。
 少々緊張している様子だったが、幸村を始めとする誰もそれを咎めようとはしない。
 一人対多人数…しかもこっちは男子の集団であり、向こうが気後れするのは当然の話だった。
「一人かい?」
「はい…特に用事はなかったんですけど、ちょっと気晴らしに」
「そう」
 最初に質問した幸村に桜乃が答えていると、他の部員達もその輪の中に加わっていった。
 青学と立海は確かにテニス部に関して言えば互いがライバル校に位置しているが、それはそれだ。
 対抗している学校の生徒と言葉を交わさないという理由にはならないし、互いに顔を見知っているのであれば、寧ろ多少言葉を交わす事は必須ではないが当然の話。
「……」
 そんな中にあって、一人、柳蓮二だけが、特に何の言葉を言うこともなく、じっと桜乃の方を観察していた。
 彼はメンバーの中で特に雄弁という程のものでもない。
 弁は立つのだが、自分から問われてもいない事をべらべらと喋る様な事はしない性格なのだ。
 だから寡黙にしている間は、興味ある対象の観察に徹している。
 そんな彼が見つめている少女は、彼の視線にはまだ気付かない様子で、今は切原と最近の天気について取り留めのない話に興じていた。
「……」
 無言で桜乃を見ている自分と彼女との間に、柳は自分でも無意識の内に馴染みのある風景を脳内で構築させていた。
 話している少女と自分との間に浮かぶのは、一つのテニスコート。
 自分は立海側のベンチ、そして彼女は青学側のベンチ。
 それぞれが在るべき場所にいて、そして、目の前のコートには、まるでケーキを分割する様に鋭く細い線が引かれている。
 それは、本来コートには在るはずもない線。
 しかし、柳の中では、それは明らかな境界線となりあちらとこちらを分断していた。
 立海と青学…相入れない二つの勢力、それは分かる。
 しかし何故今、それを自分は思い出しているのか?
「…?」
 疑問は更なる興味を呼び起こし、柳がじっと視線を注いでいる内に、ようやく桜乃も相手のそれに気がついた。
「え? どうかしましたか…?」
 ただ見られていたならやり過ごせていだろうが、何か明らかな意志を持っての凝視は流石に気になり、彼女は柳に問いかけた。
 これまでなかった、初めての経験。
 コート以外の場所での、彼女との接触。
(…ああ)
 そして柳は、その問いかけを聞くのとほぼ同時に、自分の疑問を一つ解決していた。
 ああ、そうか…この違和感が答えか…
 このもたらされた違和感が、自分にそれを再確認させる為に、「線」として現れたのか。
「……いや、ただ、いつもと違っていたからな」
「違う?」
「お前はいつも青学のベンチの方にいるからな、こうして俺達のすぐ傍で、立海、青学関係なく居ることが、少々新鮮に映った」
 そう答えながら、柳は苦笑した。
「お前は、いつも線の向こう側にいる」
「線…?」
 面白い言葉を聞いた様に、桜乃は相手の台詞に無邪気に笑うと…
 ぴょんっ
「!?」
 小さくジャンプして柳のすぐ目の前に着地すると、優しくぽんっと彼の胸を叩いた。
 まるで、彼の見えない心の扉をノックするように。
「…え…?」
 不意を突かれて、珍しく狼狽した柳に対し、桜乃は相変わらず彼の目の前でにこにこと笑っていた。
「柳さんが引いた線は、私には見えませんから関係ないですねぇ。だからこうして、ちゃんと触れるでしょ?」
「…!」
「見えない線なんて、まるで国境みたいですね」
 くすくすと笑いながらの台詞に幸村が便乗した。
「国境か、確かにね…あれも見えない線だな」
「地続きなんですから、それでどう変わるって訳でもないのに変ですよね」
 地続き…
 線は引かれていても、互いの立つ場所は繋がっている。
 線は引かれていても、互いに触れることは出来る。
 では果たして、その「線」を引くことに意味はあるのか?
 いや、そもそも…俺は何の為に、それを俺とお前の間に引いていたのだ?
 単にお前が青学の生徒だったからか?
 ああ、それも確かにそうだろう。
 しかし今はそれよりもっと…大事な事に気づいてしまいそうな気がする。
 もしかしたら俺は、何かを抑える為に、敢えて自分とお前との狭間に線を引いていたのかもしれない。
 そしてそれに気づいてしまったら、俺は何か、引き返せない場所に踏み込んでしまいそうな気がするのだ。
 そうだ、正に、「一線を越える」様に。
 何だ、これは…
 気づいて越えるべきなのか…?
 気づかず止まるべきなのか…?
 この心のざわめきは…お前が胸に触れた瞬間から続いているこれは、何だ…?
「じゃあ、俺達もそろそろ行くよ」
「はい、お気をつけて」
「お前もな」
 幸村と真田が少女に暇を告げている声が聞こえてきた。
 それを認識しつつも、柳は相変わらず桜乃への興味を断ち切る事が出来なかった。
(…線を、消したら…)
 これまで自身が引いてきた線を消したら…?
 笑っている桜乃と自分の間に見えていた、己の脳内にのみ存在していた線を消してみる。
 自らの認識をほんの少し改めたところで、微かに男の眉がひそめられた。
(こんなに、近かったのか…?)
 青学という名を借りた、隔てる細い線一本を消したそれだけで、彼女との距離が驚く程に近くなった。
 いや、それが本来の距離だったのだ。
 今までは自分が遠ざけてしまっていたのだ、たかが線一本で。
 驚きながらも、何故か今の景色が自分にとって心地よいものに見えた柳だったが…

 モドレナイゾ

(…!?)
 不意に脳裏でもう一人の自分が囁いた声が聞こえた。
 何故そんな声が聞こえたのか、今の柳には意味が分からない。
 ただ、彼女と…桜乃と己を隔てていた線を取り払う事で、自分の世界に何らかの異変が起こるのだろうという事は予想出来た。
 人は接触する存在に常に影響を受け続ける生き物だ。
 それでは今の自分の声は、彼女との接触に警鐘を鳴らす為に聞こえたのだろうか?
 彼女と接する事で、俺と俺の世界が変わってしまう、と?
「……」
 再び相手に振り返ると、丁度彼女は手を振ってその場を離れていくところだった。
 桜乃の笑顔を見つめ、去る姿を見送った柳は、既に選択の余地がない事に気づいていた。
 彼女を、もっと知りたい。
 見えない線を隔ててではなく、そのあるがままに。
 これはいつもの興味だろうか、それとも、俺の知らない何か別の感情なのか?
(しかし、例え俺の世界が変わるとしても、今の俺の欲求を抑える事はもう不可能の様だ…)

 お前が俺にとって何なのか…どんな存在になりうるのか…知りたいのだ






Shot編トップへ
サイトトップへ