唇に指を押し当てて


 その時、何故かは分からないけど、確かに自分は浮ついていたのだと思う。
 春になり、青学に入学して、新しい友達も出来て…テニスというスポーツの楽しさも知ったばかりだったから…
 だから、今までした事が無い失敗を、あの日…あの人の前でしてしまったのだ。

「お静かに」
「っ!!」
 凛とした声が聞こえたと同時に、自分の唇に何かが押し当てられ、桜乃は声を閉ざすと同時に息を呑んだ。
 そして半瞬遅れて、自分がいる場所の事を久し振りに思い出す。
(あ…っ!)
 薄々と己の仕出かしてしまった失態に気付き、桜乃がゆっくりと目を動かして声がした方へと、向けると、そこには長身で細身の男性がいつの間にか立っていた。
 冷えた彩の無機質感が強い眼鏡は、相手の表情も視線も隠していたが、向こうがこちらを見下ろしているのは明らかで、ほんの少し眉が顰められている様にも見える。
 そんな相手の存在に気付いた後で、桜乃は今も自分の唇に押し当てられているものが彼の人差し指だと知り、激しく動揺した。
「…っ!!」
 窘められた事実と、唇に触れられた事実…その二つのどちらに自分が動揺しているのかも分からず、少女はただひたすらに真っ赤になっておどおどするしかなかった。
「…図書館は、静かに読書と勉学に勤しむ場所です。過ぎたお喋りは慎まれた方が宜しいですよ、お嬢さん方」
 優しい…しかし、戒めるべき処はしっかり戒める意志の強そうな声の持ち主は、桜乃と、彼女と数秒前まで話し込んでいた友人に交互に視線を向け…ようやく桜乃の唇から己の指を離した。
 友人もまた、静かに窘められた事に対してばつが悪そうな表情をしている。
 やってしまった…申し開きの仕様も無い。
 ほんの少し前、自分はここの図書館を訪れ、そこで偶然に友人と出会った。
 最初は勿論、図書館という場所である事を自覚し静かに話す様に心掛けていたのだが、つい彼女とのお喋りに夢中になってしまい、声が大きくなってしまったのだった。
 非は完全にこちら側にある。
「すっ、すみませんでしたっ!!」
 真っ赤になったまま、桜乃はぺこっと相手の若者に頭を下げた。
 滅多に叱られたコトがないだけに、より己の仕出かしてしまった事を大きく感じ、相手の顔も見られないまま桜乃はただひたすらに己を恥じていた。
(うう…きっと、はしたない女って思われただろうな…)
 そう思いつつじっとしていた桜乃だったが、いつまでも向こうが何も言わず、動こうとする様子も無い事に気付き、彼女がふと顔を上げる。
「?」
 見ていた…自分を。
 瞳は眼鏡で隠れていたが、こちらに視線を向けていた事は気配で分かる。
 しかし自分が相手に顔を向けたことが合図になった様に、今度は向こうが視線を逸らして身体も離していった。
「…以後、お気をつけて」
「は、はい…」
 互いに名乗ることもなく、二人はその場で別れたのだった。


 しかし、以降も度々、桜乃はあの若者を同じ図書館で見かけていた。
 元々本が好きで、中学生になったことを機会に蔵書数の多いこの場所を訪れるようになったのだが、三回に二回はあの眼鏡を掛けた若者の姿を見掛けた。
 とは言え、見かけたところで特に用事もないのに声を掛ける訳にもいかず、二人はそれからもずっとそこでは『一人で来た来館者』同士でしかなかったのだ。
(あ…あの人だ…)
 そして今日もまた…彼はいた。
 窓際の席に着き、机の上に置いた本に静かに目を落としている。
(…誰なんだろうな? 青学の制服じゃない…)
 桜乃はそう思っても、向こうは相変わらずあの眼鏡で視線を隠しており、じっと静かに姿勢も正しく読書に勤しんでいる。
 その姿はまるで一枚の絵画の様に目を惹き、無音の世界の中でも一際目立っていた。
(…でも、いきなり訊くのも失礼だよね…)
 きっと自分はあの日の所為で、彼には良い印象なんて持ってもらえてないだろうし…そもそも用事もないのに他人が喋りかけるなんて怪しいばかりだし…
 そして桜乃は無言のままに席に着く。
 しかし彼女は自分の知らない間に、彼の姿が見える場所を席に選ぶようになっていた。
 意外な場所であの若者の名を知ったのは、夏に入った頃。
 しかもその場所は、この二人に馴染みのある図書館ではなかった。


「うう…ん…」
 上の棚にある本を取ろうと、脚立もない場所で桜乃は必死に右手を伸ばしていた。
 もう少し…しかし惜しい程の僅かな距離が、あの棚を絶対的な不可侵領域にしてしまっている。
 ぴょんぴょんと諦めきれずに跳んでみたものの、それでも目的の本は手許には得られない。
「ん〜〜〜〜…」
 ぷるぷると全身を震わせながら尚も桜乃が足掻いていた時、不意に背後から伸ばされてきた手が、軽々と目的の本を先に取ってしまった。
「…!?」
 当然振り返った先に立っていたのは…あの眼鏡の若者だった。
 彼は少女が振り向いて、自分の姿を認識したところで一呼吸置き…ゆっくりと本を差し出した。
「どうぞ」
 数ヶ月ぶりに聞く声は、あの日と変わらず物静かで…優しかった。
「あ、有難うございます、柳生さん」
「ん…?」
「…っ」
 思わずついて出てしまった言葉に、言った桜乃本人がはっと口を手で押さえ…静かに俯いた。
 その頬が微かに朱に染まってゆく。
「……」
 じっと見つめてくる若者に、彼女は少しだけ躊躇し…そして彼の視線での問い掛けに答えた。
 こういう場での沈黙は、何となく気まずい。
「あ…すみません…テニスの関東大会で…」
 見ていました…貴方を…
 あんな場所で貴方を見るなんて思っていなかったけど…しかもあんな形で。
「…ああ」
 納得した様に向こうは一度首を縦に振った。
 立海大附属中学三年生 男子テニス部レギュラー…柳生比呂士。
 まさかと思ったが見間違う筈もない…今まで何度もここで見ていた人なのだから。
 しかし正直、文学青年と思っていたら実はスポーツマンでもあったというサプライズには、現場で自分の目を疑いそうにもなった。
「すみません…いきなり名前を呼んで、びっくりさせてしまって…」
 桜乃が軽く頭を下げて謝るのを見て、相手はちょっと戸惑った様子だったが、すぐに笑って言葉を返した。
「いえ…ではお返しに」
「?」
「…貴女は、竜崎桜乃さん、でしょう」
「え…?」
 いきなりそう問われ、桜乃は答えるより前に困惑してしまう。
 私…いつかこの人に名乗ったことがあったかしら…?
 それとも、私の名前を記した何かをこの人に貸したり…?
 ううん、そんな事は無かった…私はあの日からこの人とは一言も…
「……」
 どう言っていいのか分からず、きょとん…と大きな瞳を向けてくる少女に、向こうは苦笑しながら眼鏡の縁に手を添えた。
「…私も見ていましたよ、貴女を…関東大会でね」
「え?」
「相手校の顧問の傍にいらっしゃいましたから、すぐに気が付きました…正直、驚きましたが……竜崎先生のお孫さんだそうですね」
 簡潔な言葉だったが、説明には十分だった。
 そうか…相手方の監督なら、試合当日も目がいかない筈はない。
 確かに自分はあの日、祖母の近くで青学を応援していたし、たまの空き時間には彼女と話したりもしていた…何も知らない他人が見ても、何らかの関係があると見て当然だ。
「…そう、です」
 頷いて答えたものの、その先が続かない。
 こういう時にはどういう話をしたらいいのか分からない…知己であって初対面の様な関係の人に、どんな事を話したら…話したくない訳じゃないのに…
(……あ、でも…)
 ここは図書館なんだから…静かにしないと、また注意されちゃうな…
「……」
 返事を返したきり、再び遠慮がちに俯いて口を噤んでしまった少女を、柳生は静かに見下ろしていたが、ふ、と右手を掲げて図書館の出入り口を示した。
「…少々宜しいでしょうか、竜崎さん」
「?」
「少しだけ外に…お時間はそう取らせません」
「…はい」
 特に断る理由も無かったので、桜乃は素直に言われるまま一度館の外に出た。
 風が軽く頬に当たるが、今は夏を迎えた時期で寧ろ心地良いぐらいだ。
 駐車場を兼ねる入り口の広いスペースに出て、傍に樹が植えられている場所まで来たところで、その礼儀正しい若者は桜乃を見下ろしながら少し首を傾げた。
 何となく、その眉が顰められている様にも見える。
「…私の思い違いであれば申し訳ありません…貴女は、もしかして私を恐れているのでしょうか?」
「はい?」
 館の外ということで、ここなら気兼ねなく声を出せる…と思った早々に、いざ出た声は聊か間抜けだった。
「恐れ…?」
「…その、何となく、なんですが……これまでもずっと、貴女に避けられている様な気がしたものですから…」
「ちっ、違いますっ!!」
 間抜けな声の次は、自分でもびっくりするぐらいの大きな否定の言葉だった。
 桜乃は首を横に振り、更に両手も動かして、彼の発言を真っ向から否定する。
「恐がっている訳じゃなくて…っ! あの、その、柳生さん、目立ちますからつい視線が…っ! ええとでも別にやましい気持ちじゃなくてそのう図書委員みたいだなって思ってだけどでもテニスも出来るなんて凄いと言うか何と言うか…」
「すみません、処理速度が追いつきません」
 嫌味ではなく本気でそう考えているらしく、明らかに困惑した様子で相手が口を挟んできた事で、ぷしゅ〜っと桜乃の中の脳内回路もショートしつつ処理速度を落とした。
(ああ、何か失敗したことだけはよく分かる…)
 一度ならず二度までも、この人の前で醜態を晒してしまった…と、桜乃は力なく肩を落とした。
 もう、言い繕う気力すらない。
「…すみません…私、きっとはしたない子だと思われちゃったから…二度とそうならないようにしようって思って…貴方の邪魔にならないように、声を出さないようにしていたから…だから、不自然に見えちゃったのかも」
「はしたない…?」
 こくっと頷いた桜乃に、柳生が沈黙する。
 呆れていたのではなく、驚いていたのだ。
(あの程度の注意を受けたぐらいではしたないと己を恥じるとは…稀に見る生真面目さですね)
 しかしそれは嫌いではありません、と心で断り、柳生は桜乃に改めて確認した。
「…では、私を恐れていた訳ではないのですね?」
「はい…それは違います!」
「そうですか、良かった」
 本心なのか、彼は眼鏡に再び手を添えながら安堵した様に息をついた。
「…気になっていました。もしかしたら、知らないところで貴女にきつく言い過ぎたところがあったのではないかと…」
「そんな…悪かったのは私なんですから…」
 桜乃の言葉に、相手は優しく笑った。
 眼鏡があっても、その視線はきっと慈愛に満ちたものだろうことが伺える程だった。
「…確かに、貴女は一度はマナー違反をしました…しかし、それから貴女はよく省みられた。叱られた理由を理解し、二度と同じ間違いを犯さない様に自戒されていた…それは大変感心するべきことです…自分を蔑む必要はありませんよ」
「は、はい…」
 これは…褒められているのかな…?
 そうなのかな、そうだったらいいな、と思っている間に、若者ははた、と館の方へと視線を向けてから桜乃に促した。
「…話はそれだけです。結構時間をとらせてしまいましたね、申し訳ありません。さぁ、戻りましょう」
「あ、はい…あ、の、柳生さんっ」
 戻れば、また口を開くことが憚られてしまう…その前にどうしてもこれだけは…!
 決死の覚悟で柳生を呼び、少女は相手に一番問いたかった質問を投げかけていた。
「あのう…これからも、会えたらお話してもいいですか? お、お邪魔じゃなかったら…その、図書館の外で!」
「え…」
 一瞬、信じられないという様な表情と声を出した若者は、しかしすぐに微笑み返してくれた。
「…ええ、いいですよ」
「! 有難うございます!」
 初めて出会って数ヶ月…二人の最初の会話だった。


 それから二人は、図書館で出会う度に何かを語り合った。
 それは互いの学校の事であったり、或いはテニスについてだったり…
 時には二人の家族や友人にも話は及んだ。
 館の中では言葉を交わす事は殆ど無くても、互いの姿が見つけられたらそれだけで良かった。
 館の外に出れば、静かに互いの存在を己の心の中で育むように…彼らは語り合った。
 夏も秋も冬も…そして巡り来る春も…
 若者が中学を卒業するというその日まで。


 立海大附属中学卒業式当日…
 当日の夕方も、二人の姿はその図書館にあった。
 何気ない、いつもの日常が過ぎてゆく。
 夕方になり、彼らが帰宅する時間になり、二人は静かに館を出る。
「……」
 その日の桜乃は、いつにも増して無口だった。
 そしてそれは柳生も同じだった。
(…こうして会えるの…今日が最後なのかな…)
 高校になると、中学生とはスケジュールは違ってくる…今までの様にこうして当然の様に会える様になるのは…難しいかもしれない。
 自分達は、今も只の読書仲間。
 これからも彼と会いたいと望むのならば、その関係を適切なものに変える必要があるのだ。
 適切な関係とは何か…実はもう分かっている。
 分かってはいるが、桜乃は今日の今日までずっと、それを実行出来ずにいた。
(柳生さん…恋人いるのかな…)
 こんなにしょっちゅう図書館に来ているなら、いないと思う…いや、思いたい。
 そうでなければ、自分にはもう手は無いのだ。
 長い付き合いの中で自分の気持ちはもう分かっているのに、相手の心はどうなのか、まるで自信がない。
 仲が良かったのは間違いないけど、それも『友人だったから』という言葉一つでどうとでもなるだろう。
(ああ…どうか、どうか彼が受けてくれますように…)
 心の中でそう願い、桜乃は息を吸って、そろりと唇を開いた。
「あの…柳生さん」
「はい?」
「……あの、ですね…ちょっと、大事なお話をしたいんですけど、いいですか?」
「大事な…?」
 そう言われると、柳生は歩道を歩いていた足を止め、静かに桜乃に向き直った。
 どうやら大事な話を歩きながら聞くのは失礼に当たると考えたらしいが、却って緊張感は高まってしまう。
「何でしょうか?」
「あ、えーと…柳生さん…あのう…」
「はい」
 淡々と答えを返される度に、ばくばくと心臓の音が激しく大きくなっていく。
 少しはこっちの様子で話の中身を察してくれないかな、と思ったりしながら、少女はそれでも必死に言葉を声に乗せていた。
「…もし、もしですね……柳生さんに…恋人が、いないなら…」
「…」
「……その、わた…」
 ぴた…っ
「っ!!」
 唇に何かが押し当てられる。
 柔らかかくて温かい…柳生の指。
 あの日、最初に出会った瞬間が、桜乃の脳裏にフラッシュバックした。
 あの時もこうやって…言葉を封じられていた。
(…………ああ)
 過去と現在を脳裏で何度も行き交い…桜乃は失望に囚われてしまった。
 ダメ、という事なのか…
 私の唇を止めるという事は…想いを打ち明ける事を許さないと、受け取れないと…そういうこと…
「……」
 発言を止めてしまった桜乃の様子を見て、柳生は指を彼女の唇から離す。
 二人の間に沈黙が流れ…破ったのは柳生だった。
「……もう、いいのですか?」
「え…?」
「もう…貴女の覚悟は、決まったのでしょうか…?」
「かく、ご…?」
 問い返す桜乃に、柳生は一歩歩を進め、彼女の直前へと立った。
 そしてゆっくりと、優しく言い聞かせるように続ける。
「…私の告白を受け取る覚悟は……出来ましたか?」
「!」
 見開かれた桜乃の瞳に、苦笑する相手の姿が映りこむ。
 それは困っている様な…照れている様な、そんな姿だった。
「女性に、そんな事をさせる訳にはいきません…愛しいレディーに愛を語る許しを請うのは、紳士でなければ」
「や、ぎゅうさん…」
 突然の展開に驚いている少女の手を優しく取って、彼は静かに厳かに彼女に願った。
「…竜崎さん…いえ、桜乃さん、私は貴女を心から愛しています。どうかこれからは恋人として、こうして私と一緒にいて下さい」
「…っ…あ…」
 告白を止められ、失恋かと思ったら逆に告白され、桜乃の心は大きく乱れた。
 夢ではないかと思ったが、相手の握ってくる手はとても温かい…
 夢ではない。
「はい…」
 ただ一言…それしか言えなかった。
 しかしそれで十分だった。
「…有難うございます、桜乃さん」
 静かに、しかし感極まった声でそう言うと、柳生の手は桜乃の握っていた手をそのまま持ち上げ、優しく甲に口付けた。
 紳士の呼び名に相応しく、毅然としながらも、細やかな配慮に満ちた仕草で。
「ずっと見ていました…貴女を」
 図書館の中で聞こえた声…窘めようとして貴女を見つけた時、その笑顔に時が止まった。
 ほんの少しだけ…そのまま笑顔を見つめていたいと、紳士にあるまじき想いを抱いてしまった。
 それからずっと…私の目は貴女だけを探していたのです。
「…これからは貴女も、私を見ていてくれますか…?」
 問い掛けてきた相手に、桜乃は頷こうとしてふとそれを止め…くすりと微笑んで自由になっていた左手を上げた。
「…っ」
 彼女が遠慮がちに軽く触れてきたのは、彼の眼鏡。
 何を言わんとしているのか察した若者は、苦笑いを浮かべて己の眼鏡に手をやり、ゆっくりと外す。
「…他の人には、内緒ですよ」
 愛しい貴女だけに…と晒した若者の瞳は、予想より遥かに優しく澄んだ彩で、桜乃だけを見つめていた……






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