どうせ嘘なら
「おう、丁度良かった。ちょっと付き合ってくれんかの?」
「はい?」
そんな短いやり取りの後、桜乃は先輩の仁王に連れられて誰も居ない彼の教室へと連れて行かれていた。
そこで二人が始めたのは、とある有名な戯曲の台詞合わせ。
「えーと…『ロミオ、ロミオ、あなたはどうしてロミオなの…』」
「お前さん、もうちょっと感情込めてやれんかの…」
お互いに厚い台本を手に向き合い先程から一幕から通して台詞を読んでいたのだが、有名どころのシーンで遂に仁王が苦言を呈した。
彼の指摘は桜乃も尤もだと思っていたらしくそれについては反論しなかったが、彼女もまた台本をぱたんと閉じて仁王に困った顔で答えた。
「だって〜…いきなり知っている人相手にこんなコトするなんて無理ですよう」
事の発端は、立海での文化祭である海原祭が近づき、仁王のクラスの出し物が劇に決まったことだった。
そこで有名な戯曲を演じることになり、主役の男性は仁王に決まったというのだ。
まぁ相手の端正な顔立ちと、すらりとした長身で均整の取れた体格は、確かに主役を十分に張れる程に見栄えがいい。
クラス内の投票で決まったと言われても何ら疑問はない。
そして今日、出来た台本を使っての練習をするから相手の女性役になってくれと仁王から頼まれ、桜乃は今ここにいるのだ。
「大体のあらすじは知っているし、有名どころの台詞も幾つかは聞いた事はありましたけど…」
ぱら…と台本のページを捲り、桜乃は顔を隠すようにそれを自分の前に持って行くとしみじみと言った。
「…この人達、本当に十六歳と十四歳なんですか…?」
「昔の人間の方が、よっぽどマセとるよな…」
『イマドキの子は…』と説教垂れる大人達に、この有名文学作品を目の前に突きつけてやりたい…と、仁王も桜乃の言わんとしている事に同意している。
「…まぁ完全に感情移入出来んのはしょうがないがのう…そこまで棒読みでやられると、こっちの調子が狂うんじゃ」
「うう、仕方ないじゃないですかぁ、こんなのやったコトないし照れ臭くなっちゃうし…どうしてお相手に決まったクラスメートさんとしないんです?」
共演する人が決まっているなら、その人と練習するのがスジでしょ?と尤もな事を述べた後輩に、仁王は渋い顔をして首を横に振る。
「あー、それはそうなんじゃが…どーも息が合わんでのー」
「いや、だから練習するんじゃ…」
突っ込もうとした少女が全てを言い終える前に、相手の詐欺師は肩を竦めて『へっ』と軽く嘲笑う。
「それにこのヒロインは相手を一目惚れさせる程の容姿で、性格も可憐な乙女なんじゃろ? 普段から現実を見ちょるクラスメートをいきなりそう見ろと言われてものう…幾ら俺が詐欺師でも無理じゃ」
「その人に謝って下さい」
びしっときつく言い切ってから、桜乃はふうと息を吐いた。
「…なら尚更私なんかじゃダメでしょう? 少なくともその先輩さんの方が美人だと思いますよ」
「……んー」
少しだけ声のトーンが落ちた相手に男はちょっと考える仕草を見せると、ぽんぽんと彼女の頭を優しく叩いた。
「けどまぁ、お前さん相手じゃと可愛い小動物相手にしとる様でやり易いんよ」
「私にも謝って下さい」
『可愛い』の後の台詞が余計です、と持っていた台本で相手の腕をぽこんと軽く叩いてから、桜乃はむ〜っと拗ねた表情で彼を見上げて言い返す。
「仁王先輩だって、そう偉そうなコト言えませんよ? 普段から『詐欺師』なんて言われてるんですから。その『詐欺師』が、一人の女性を死んでまで想い続ける程の一途な男性を演じるなんて言われても…」
そこまで言ってから、二人は暫くじーっと見つめ合う。
「……」
「……」
桜乃の脳裏に『結婚詐欺』という単語が思い浮かび、徐に彼女は背を向け耐え切れずにころころと笑い出してしまった。
「いや〜ん、胡散臭くてダメ〜〜〜〜!」
「お前さんも謝りんしゃい」
何を想像してくれたのか大体分かる…と、仁王もお返しに軽くぽこんと相手の頭を台本ではたいた。
勿論、先輩後輩の軽口の叩き合いのレベルなので険悪になるという風でもなく、やれやれと仁王は苦笑して一度教室のドアへと向かった。
「あー、言い合っとる内に喉が渇いたぜよ、ちょっと購買で飲み物でも買ってくる。お前さんはここで待っとりんしゃい、〇▽が好きじゃったの?」
「え、あ…はい」
「ん、じゃあそれも買ってきちゃる。付き合ってくれとるけ、オゴリじゃ」
自分がよく飲む清涼飲料水の名前を出されて思わず頷くと、相手はにっと笑って優しく頭を撫でてくれた後、教室を出て行ってしまった。
「……」
会話がなくなり、途端に教室が静寂に包まれ、見た目もがらんと広さを増した気がした。
遠くで聞こえる掛け声は、何処かの運動部のものだろう。
今ここに自分一人しかいない事を実感しながら、少女は仁王が出て行ったばかりの扉をじっと見つめ、彼が自分に今日の練習相手を願い出た時の事を思い出していた。
『ちょっと付き合うだけでええきに。本気でその台詞を言わんでも、どうせ劇なんじゃから嘘で割り切ればええんじゃよ』
「……と仰られましてもねぇ」
はぁ、と溜息をつき、桜乃はすとんと最寄の椅子に腰掛けると、改めて渡された台本を開いた。
「只の先輩だと思えたら、もう少しは上手く出来たと思うんだけど…」
或いは、こんな題材でなければ、関係なかったのに…
(自分がこんなに割り切れない、女々しい性格だなんて思ってなかった…女だけど)
実は相手に対して先輩以上の感情を抱いていた少女は、割り切れない想いを抱えつつ相手に協力していたのだった。
只の劇である、演じるのは自分と何ら関係ない人物の生涯だ。
そう思っても、演じている内についこの女性に感情移入してしまい、まるで相手の役柄ではなく彼本人に台詞を投げかけてしまいそうな…そんな危うさに囚われてしまうのだ。
だから、感情を込めるに込められず、機械仕掛けの人形の様に台詞を紡ぎ出すしかない。
本意の台詞ではないと、向こうも分かってくれてはいるだろうけど…
「…ちょっと復習しておこうかな」
このまま何もしないで待つというのも手持ち無沙汰なので、桜乃は取り敢えず最初からもう一度台詞を読んでいくことにした。
ゆっくり、ゆっくり…その世界に身を浸すように、桜乃の瞳は台本に綴られた世界を読み取り、唇はそれを現に紡ぎ出してゆく。
皮肉なことに、想う相手がいない場では、桜乃は見違えるようにその言葉を情緒豊かに表現出来ていた。
「…ええと、次のシーンは…そうそう『ロミオ、ロミオ、貴方はどうしてロミオなの? 私に語りかけた優しい言葉、あの愛の台詞が本当なら、名前はロミオでもいい、せめてモンタギューという肩書を捨てて…』」
この戯曲の中でも最も有名だろうワンシーンの台詞をなぞったところで、桜乃は一旦台詞を止めて、じっとその文章を見つめ考え込んだ。
(…何だかなぁ…仁王先輩に『ロミオ』って呼びかけること自体がしっくりこないんだもん…あ、ちょっと今だけ名前を変えて言ってみようかな)
どうせ嘘ならそれぐらいいいよね…
桜乃はまだ若者が教室に戻っていない隙を見て、台詞の文章を確認しつつ、自分なりの改変を行ってみた。
そして肘をつきながら、囁くように小さい声で誰も居ない教室の中呼びかける。
「仁王さん、仁王さん、どうして貴方は詐欺師なの? 私に語る優しい言葉、向ける笑顔が真実なら…名前は貴方のままでいい、せめて詐欺師である事を捨てて…」
私の前では、貴方は貴方のままでいて……
「……」
短い台詞の安易な改変だった。
しかし作った自分でも少し驚いてしまうぐらいに当人の心情を顕しており、彼女は自身の声でその台詞を聞いた後、視線を宙に彷徨わせたままじっと動かずにいた。
数秒後、誰にも聞かれていない台詞を吐き出した己の行為の無意味さに、少女はふぅと溜息を吐き出す。
(バカみたい…)
言ったところで、相手に聞かれていなければ叶う筈も無い。
聞かせたところで、向こうがそれを叶えてくれるかも分からないのに……
「ふぅ…」
こういう台詞を沢山読んだから自分まで毒されてきているのかも、と思ったところで桜乃が姿勢を正しつつ、その拍子で視線が教室の扉へ向いた。
「っ!!」
がたんっ!!
激しい心の動揺が身体にダイレクトに伝わり、その動きは椅子と机にまで伝わった。
しかしそれは今の桜乃にはどうでもいいコトで、彼女の視線は扉から全く動く気配がなかった。
正しく言えば、扉の傍の人影に、だ。
(…う、嘘…っ)
どうして…いつの間に…!?
人影は、銀の髪を揺らせながら、片手に二本のペットボトルを器用に持った姿で、じっと無言でこちらを見つめていた。
一体いつからそこにいたのか、桜乃にはまるで気配が分からなかった。
(…き、聞かれてた? まさか……)
今来たばかりなら、何気ない振りをしたら誤魔化せるんだけど…と思っている間に、不意に向こうがにやっと唇の片方を意味深に歪めた。
「ほう…? 面白い練習じゃのう」
「!!」
まさか、と嫌な予感を感じている間に、今度は向こうはすたすたすた、と真っ直ぐにこちらへと近づいてくると、すぅ、と顔を桜乃のそれへと寄せてきた。
彼の瞳は、相変わらず楽しそうに揺れている。
「そんな可愛いおねだりは、ちゃんと俺の前で言わんとダメじゃろ…?」
(聞かれてた〜〜〜〜!!)
桜乃の嫌な予感は見事に当たっていたのだと証明すると、仁王は真っ赤になる相手に構わず、空いていた手を伸ばして彼女の腰を抱き寄せる。
「ひどいです、立ち聞きしてたなんて…どうして…」
顔を背け、羞恥に震えながら訴える桜乃に、仁王がぞくりと戦慄を覚える。
どうしてって…それはこちらこそ聞きたい。
どうして、お前はいつもそうやって、こちらの理性を突き崩す様な真似をしてくれるのか…
「それは劇の台詞かの…それとも、お前さん自身の言葉か?」
確かに劇中では、女性の呟きが男に聞かれ、彼女が彼を非難する場面があるが、この状況ならわざわざそんな質問をせずとも少し考えたら分かりそうなものである。
敢えて尋ねようとする相変わらずの若者に、桜乃はう〜っと拗ねた目を向けて無言で抗議したが、それは却って彼女の可愛らしさを彼に見せ付けるだけの効果に終わってしまった。
「…ふ」
微かに笑うと、仁王は相手の耳元に顔を寄せてひそりと囁いた。
「『貴女への想いが溢れて、気が付いたらここへ来ていた』…」
「え…」
それは、劇中の男の台詞だった…と思い出していると、今度はいつもの口調の彼の台詞が繋がる形で聞こえてくる。
「望むなら、お前さんの前では詐欺師の名を捨てちゃるよ…けどその前に俺は、まだお前さんの気持ちを聞いとらん」
「!…わ、私の気持ちって…も、もう聞いたじゃないですか…」
繰り返すには恥ずかしい言葉だと桜乃が一度は拒もうとしたが、向こうは顎を少女の肩にちょんと乗せてじゃれるようにしながら尚もねだった。
「お願いじゃ、もう一度…」
台詞こそ違えど内容は劇中の二人のやり取りに酷似しており、桜乃はもう自分が劇の中身をなぞっているのか自身の言葉を連ねているのか分からなくなってきた。
どうせ嘘なら…って思っていたけど、さっきの言葉は本当は嘘じゃないの…
私は本気で…この劇の中の女性の様に、本気で貴方が……
「…もう…仁王さんのバカ…」
拗ねながら、桜乃はねだる相手に小さな声で応じた。
「……大好き」
その告白に、男がに、と深い笑みを刻んだ。
「ん…知っちょるよ」
詐欺師の名を捨てるといいながら、結局人を食った台詞を述べた仁王に桜乃が抗議の声を上げる。
「もう! 仁王さんったら…!!」
しかしその全てが語られる前に、彼は実力行使で相手の唇を塞いでしまっていた。
「ん…!!」
目を白黒させる少女にちゅーっと深く長くキスをした男は、唇と一緒に相手の抗う気力と理性をも奪ってしまう。
やがて唇を離しながら、彼はにやっと笑いつつ呟いた。
「…俺はロミオじゃない……アイツみたいな愛は期待せんようにの」
「え…?」
「あんな下手な嘘で共倒れする様なヘマはせんし…そもそも好きな女にそこまで思い詰めさせるようじゃ、男として失格じゃろ?…お前さんは安心しといてええよ」
「……約束出来るんですか?」
「信用出来んか?」
「……私の前のあなたなら…信じます」
私の前では詐欺師の名を捨てると言ってくれたから…私はあなたを信じたい。
「またそんな可愛いコトを言うんか?……ゾクゾクしてしまうじゃろ」
「あ…っ」
抱き寄せられ、その拍子に手にしていた台本が床へと落ちて乾いた音をたてる。
その音に、はた、と現実に引き戻された少女は、照れた顔を向けながら若者に問うた。
「も、もう練習はいいんですか…?」
「あんな嘘の台詞、言う暇ない…お前さんが目の前におるのに…」
それよりもっと、言いたい事がある…伝えたい事がある…
台本の中に綴られた軽い言葉ではない、真実の言葉が…
了
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