眩しい笑顔


「こんにちは」
 その日の立海大附属中学の放課後、男子テニスコートに、同校ののものではないセーラー服を纏ったおさげの少女が姿を見せていた。
 青学の一年生である竜崎桜乃である。
 彼女を最初に迎えたのは、立海レギュラーの三年生、「紳士」の異名を持つ柳生比呂士だった。 
「おや、いらっしゃい竜崎さん。今日は早かったですね」
 普段はもう少し遅い時間に到着するのが常の少女に、朗らかな笑顔を浮かべた若者だったが、その表情は光を遮る偏向眼鏡の為に詳細を読みとる事が出来ない。
 他人に己の意志を読み取られないように、というのがそれをかけている理由らしいのだが、表情が見えない分、ミステリアスな雰囲気が漂っていた。
「えへへ、ホームルームが少し早く終わったから、一つ早い電車に乗れたんです」
「それはついていましたね」
 目の表情は見えなかったが、優しい笑顔を浮かべて歓迎してくれている事は間違いないだろう相手に、桜乃はにっこりと笑い返した後で、くるりと周囲を見回した。
「ええと、他の皆さんは…?」
「ええ、そろそろ来る頃だと思いますよ。私も実は、生徒会の仕事が予定より早く片づいたので、ここに来ることが出来たんです」
「あ、お互いラッキーでしたね」
「そうですね」
 ふふ、と笑った柳生は、それからも何となく周囲が気になるのか、せわしなげにきょろきょろと見回す桜乃に、何かを思い出した様にああと頷き、断った。
「…仁王君もすぐに来ると思いますよ」
「う…っ、べ、別にそのう…そういうつもりは…えーと…」
 途端に動揺して言葉が詰まってしまった少女に、紳士はおやおやと優しく笑う。
「バレバレですよ?」
「……内緒でお願いします」
 心の中の秘密をあっさりと看破されてしまった桜乃が赤くなって俯きながらそう願うと、相手はふむと顎に手をやり少しだけ考える素振りを見せる。
「…レディーの願いとあれば聞き届けるのが私の義務なのでしょうが…不躾ながら、思い切って告白しても宜しいのでは?」
「と、とんでもないですよ!! 私なんかきっと…あの人の目に入ったりもしてないです…あんなに凄い人なのに…」
「…」
 しゅん…とうなだれる少女に、紳士は微かにその表情を曇らせ、視線を脇へと外した。
「決してそんなことは…いえ」
 ぼそりと呟き…柳生は更に小さな声で続けた。
「…目に入っていないのは…そうかもしれませんね…」
 あの器用で不器用な男なら…
「え…?」
「ああ、いえいえ、何でもありませんよ」
「おい」
 不意に声を掛けられた柳生は、しかし特に驚いた素振りも見せずにそちらへと首を巡らせた。
「お待ちしていましたよ、仁王君…おや」
 返しつつ、相手の姿を見た紳士が眼鏡に手をやりつつ眉をひそめる。
「今日は変わり身の予定はなかった筈ですが?」
「気分じゃ、近頃やっとらんかったからの。お前も少し付き合いんしゃい」
「それは構いませんが…」
 柳生が話しかけているのは、まるで合わせ鏡に映った自分自身の様な若者だった。
 髪は七三に分けられ、偏光眼鏡で瞳を隠した長身痩躯の男。
 その姿を見た他人が見たら、ほぼ全員が彼を柳生比呂士と呼ぶだろう。
 そして今の二人を見た者達は、彼らが双子だったのかと驚くに違いない。
 それ程までに、仁王の変装は完璧だった。
「早く変装してきた方がええよ。こんなトコロ見られたら、ネタバレもいいところじゃ」
「やれやれ……にしても仁王君、また変装の所要時間が短くなった様ですね」
「努力の賜物じゃな」
 柳生の姿で、しかし自身の声と言葉で語る相棒に、柳生が苦笑しながら席を外す。
「では、私は一度部室の方へ失礼しましょう。仁王君程ではないかもしれませんが、私も少しは腕を上げましたから…竜崎さん、どうぞごゆっくり」
「あ、はい。有り難うございます、柳生さん」
 軽く眼鏡に手をふれながら柳生は二人に背を向けて部室の方へと歩いていった。
「…」
「…」
 残された二人が、どちらからともなく無言になり、その場に微妙な空気が流れる。
「……あ、あの…相変わらず変装が上手いんですね、仁王さん」
 少しばかりはにかみながら頬を染めて話しかけてきた少女を、ちらりと横目で見た紳士姿の詐欺師は、再び視線を脇へとそらしながら返した。
「まぁの、詐欺師の本領発揮じゃよ」
「あは、そうですね」
 笑みを交えながらの言葉だったが、その奥に微かな落胆の色が滲んでいるのを、仁王は敏感に感じ取って唇を歪めた。
「何じゃ、本物の柳生の方が良かったか?」
「い、いえ! そんな事ないですよ!! ただ…」
「ただ?」
「……」
 問い返された桜乃が、言いたくないのか軽く唇を引き結んで困り顔。
 勿論、そんないじりがいの有りそうな獲物をこの男が易々と手放す筈もなく、彼は少女の前に立ってじーっと上から相手を見つめた。
「なーんじゃよ、そこまで言うたら聞かせてくれるんじゃろ?」
「あ、いえその…わ、私の思い違いだと思いますから!」
「そうかどうかは言わんと分からんじゃろ?」
 尤もな台詞を言いながら、ゆっくりと仁王が柳生の顔を桜乃のそれへと近づけてゆく。
「あのっ…顔…」
「もっと近くに寄せるか?」
 意地悪な男の危ない行為に、純情な娘は真っ赤になりながら目を伏せ、必死に逃れる為の言い訳を探す。
「や、柳生さんの顔でそんな事されたら、こっちが悪い事して叱られてる気がします」
「仁王雅治の顔なら?」
「……またいかがわしい事してるなーって」
「…」
 ぷち、と何か小さな音が仁王の頭の中で聞こえ、彼は更に桜乃の正面に顔を寄せる。
「鼻先三センチの刑」
「きゃーっ! きゃーっ! きゃ――っ!!」
 うら若き乙女には過ぎた刺激で、桜乃は慌てに慌てながら、遂に降参してしまった。
「いいい、言います言います! 言いますってばぁ!!」
「最初っから大人しく素直にそう言うとけばええもんを」
「…本当に悪役そのものの台詞なんだから」
「何ぞ言うたかの」
「いえいえいえ…」
 下手な事を言うと、また柳生の顔をした相手が迫ってくる、と桜乃はそれ以上の文句を止め、仕方なく相手の問いへ答えた。
「…最近、柳生さんの格好の仁王さんしか、見てないなって思って」
「ん…?」
「私がここに来る時、やけに仁王さんが柳生さんの格好をしているのと被ってるんです…仁王さんの格好をした仁王さんに、最近会えてない気がして…」
「……」
「ちょっと…残念だなって……それもお二人の練習なら仕方がないんですけど」
 微かに心細そうな声で告白した少女に、仁王はじっと眼鏡越しの視線を向けていたが、やがてふいっとそれをそらしつつ眼鏡に手をやった。
 まるで、見てはならない何かを見てしまった、そんな罪悪感に迫られたかの様に。
「気のせいじゃよ…ただの偶然じゃ」
「…ですか…じゃあ、次は仁王さんの格好の仁王さんに会えるのを楽しみにしてますね!」
「!」
 にこっと満面の笑顔でそんな楽しみを語られ、仁王は再び相手に向けていた視線を、再び急いで逸らした。
「…プリッ」
「?」
 何となく動揺している感じがする若者に、桜乃はその理由が分からず不思議そうな目を向けたが、そこに仁王に化けた柳生が歩いて来たことで、その件については不問に終わった。
「お待たせしました、仁王君。まさか私がいない間に竜崎さんにヘンな事をしなかったでしょうね…私の姿で」
「…鼻先三センチ」
「はい?」
「いや、何でもない」
 相手の動揺を見る楽しみよりも、自身の保身を考えた詐欺師が口を噤む。
 この紳士、普段は確かに紳士然としているが、怒ったら結構恐いところもあるのだ。
 そうしている内に、二人以外のレギュラー達の姿もちらほらとコートの向こうに見え始めた。
「あ、他の皆さんもいらっしゃいましたね…私、少し挨拶して来ます」
「ええ、それが宜しいでしょう」
 一応、桜乃は他校の生徒なので、見学をするにしても部長の許可を取らなければならない。
 妹分として可愛がられている彼女が幸村達に拒絶されることはないだろうし、あまり堅苦しく考える必要もないのだろうが、やはりこういうけじめは親しくてもつけておいた方がいい。
 そこをちゃんと弁えている少女に優しく頷き送り出した後、柳生は仁王の顔で、自分の顔をした相手を見つめながら肩を竦めた。
「あまり都合良く人の姿を利用しないで頂きたいですね」
 全てを知っている、と言わんばかりの相棒の台詞に、仁王は動じる事もなく、否定する事もなく、淡々としていた。
 長い付き合いの相手なのだ、自分の気持ちなどとっくに分かっているだろうし、それを今更下手に否定するだけ労力の無駄だ。
 それに、仮にも「紳士」を気取る男なら、こういう話題を他人に漏らすなど決してありえないだろう。
「…しょうがないじゃろ。まだ慣れんのじゃけ」
 言いながら、仁王は偏光眼鏡を軽く押し上げる。
「……眩し過ぎるんじゃよ、あの子は」
 あまりに自分と違いすぎる、純粋な子。
 その笑顔が眩し過ぎて直視出来なくなってから、ずっと自分は柳生の姿でそれを誤魔化している。
 眼鏡越しならあの眩しさも少しはましになる気がするし…こちらの動揺にも気付かれにくいだろうから。
 見たいけど見られない…そのジレンマに陥って、未だに抜け出せる気がしない。
「まともに見たら、焼かれそうな気がしてのう」
「ドラキュラですかあなたは…しかしいよいよ日陰者の道まっしぐらですね」
「ほっときんしゃい」
 相棒に憎まれ口を叩きつつ、仁王は心の中で溜息をついた。
(しかし困ったのう…楽しみにしとるとも言われたし、そろそろこの格好で誤魔化すのも限界か…けど、次に会った時にまたあんな笑顔を向けられたら、さっきみたいに告白も何もかもすっ飛ばして、キスの一つも奪ってしまいそうじゃ)
 今までは、人の心の機微を読み、己の都合と重ねて生きてきた。
 それが初めて、そんな打算とは関係のない感情に揺さぶられ、突き動かされようとしている。
 しかも厄介なことにそれを疎むでもなく、何処かで楽しんでいる自分がいるのだ。
(ああ…こりゃ完全に目眩まされたな)
 もうこうなったらいっそ割り切って、盲目の恋に溺れてみてもいいかもしれない。
 そろそろ防戦一方というのも飽きてきた。
 見境を失くした詐欺師がどんなに怖いか、思い知らせてやるのも一興か。
 今日は休戦。
 しかし次に会う時は真っ向勝負で、我が身ごと彼女の事も振り回してみようか。
 好きだと言わせ、自分だけのものにしてしまおうか。
 新たな企みを胸の奥で画策しながら、仁王は偏光眼鏡を通してあの少女の姿を見つめ、やはり少しだけ眩しそうにしながら微かに微笑んだ…






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