カルピンの冒険・立海編
或る月曜日の放課後…
授業後にも関わらず、相変わらず立海テニス部は精力的に活動していた。
「よし! 集合!!」
力強い号令をかけて真田副部長がレギュラー陣を集めると、彼等は迅速に一列に並ぶ。
常日頃の厳しい練習の中で培われてきたその行動には、一縷の無駄もなく見ている者に美しささえ感じさせる。
「……ん?」
不意に、銀髪の男が自分の右隣を見て眉をひそめた。
いつもならそこにもう一人並ぶはずの人間がいないことに気付いて、彼は辺りをきょろっと見回した。
「…おらんの」
立海テニス部レギュラー陣の中でも一番のトラブルメーカーの不在に、仁王は左にいた自分の相棒・柳生に尋ねた。
「赤也はどうしたんじゃ」
「いませんよ」
「…そうか、あれでも一応いい奴だったのにのう…」
しみじみと空を見上げる仁王に、更に隣のジャッカルが不安も露に声を掛ける。
「いや…もしかしてお前、アイツを勝手に殺してないか?…って一応って…」
「違うのか?」
本気かよ!!とは心の中で突っ込んでおいて、ジャッカルははぁとため息をつく。
「…今、昨日の罰として部室の掃除してるんだよ」
「罰? 何かしたのか」
「ああ、昨日の青学との練習試合でな…」
昨日、立海テニス部は自分達のコートに彼等を招く形で練習試合を行ったのである。
互いに切磋琢磨する強豪二校、確かに良い試合だったし良い刺激も受けた。
因みに、向こうの顧問の先生が同日、枝付きのキウイを差し入れてくれて、みんながそれを美味しく頂いたのも記憶に残っている。
「もしかして、残りを食ったか…?」
確かまだ残っているキウイが部室の冷蔵庫にあった筈だ、と予想した仁王に、その言葉の意味を理解した相手は首を横に振る。
「そうじゃない……あっちの生意気一年生のバッグに、油性ペンで落書きしたんだよ」
「もし食ったら、俺が容赦しないよい…」
説明するジャッカルの隣では丸井がいつになくげんなりとした様子だった。
「しっかりしなさい丸井君」
仁王のダブルスの相棒である柳生の呼びかけにも、相手の落とされた肩はなかなか持ち上がらない。
「あ〜〜…腹減った…エネルギー足りない…昨日、張り切りすぎちまったぃ」
「自業自得ですよ、丸井君。副部長に怒られますよ」
そう言いながらも比較的穏やかな笑みを浮かべている柳生は、流石に紳士といったところか。
そこで真田の話が始まり、全員が一度口を閉ざす。
「今日の前半のトレーニングはこれで終了とする! 後半は、レギュラーは昨日の反省会の後にローテーションを組み、シングルスに特化した試合を行う」
「…なるほどのー」
仁王は少し疲れた視線を前の副部長に向け、ぼそりと呟いた。
(道理で今日の副部長、眉間の皺が三割増しになっとるワケじゃな…)
普通の人間なら見分けられない相手の変化を目敏く見破った詐欺師は、そして部室へと視線を向ける。
あの中で切原が掃除をしているというワケか…まぁ、掃除で済んでいるならまだマシだろう。
そしておそらく、掃除を命じたのは真田の後ろで穏やかに微笑んでいる部長の幸村だ。
真田だったら掃除とかではなく、間違いなく鉄拳制裁だろうから。
(ま、幸村の指示なら赤也も少しはマシに動くじゃろ)
真田が話を終えた後、次は柳が補足を始める。
「反省会は、昨日撮ったビデオを見ながら部室で行う。休憩後はコートではなく、部室で全員待機していてほしい」
皆が頷くのを見て、柳は再度真田たちを振り返る。
「他に、言っておくことはあるか? 弦一郎、精市」
「そうだな…」
一方、部室の中にいた切原は…意外にも真面目に掃除に取り組んでいた。
何しろ幸村直々の命令なのだ、もし迂闊に手を抜いたらえらいコトになる。
(これが副部長の命令だったら、ちっとはサボれるってもんだけどな〜〜〜)
つまり、真田の鉄拳より、幸村の優しい笑顔…・の向こうに見え隠れする威圧感の方が恐ろしいというワケだ。
これは切原に限った事ではなく、メンバー全員が感じている事実なのだが。
「ふぃ〜〜、まぁ大体こんなモンかな」
机の上を拭き、椅子を並べ、窓を拭き……大体の簡単な掃除を終わらせた後、切原は最後の床掃除に取り掛かろうと道具を探し始めた。
「えーと…モップモップ…どっかになかったっけ?」
きょろきょろと見回した切原の目が、部室の隅に盛り上がった物体を見つけた。
細い繊維に包まれた、白くて直径三十センチ程度の楕円形の物体だ。
「お、あったあった」
いかにもモップである…付属の柄はないが、それはまた探そう。
取り敢えず、モップを水洗いしなきゃな〜と考え、切原はすたすたすたとそちらに歩いて行き、おもむろに、そのふわふわの綿菓子みたいなモップをむぎゅりと掴んだ…
再び場所はコートに移る…
「では精市…」
柳が部長に促す形で、幸村が部員の前に立ってみんなをくるりと見回した。
「うん…みんな、取り敢えず前半はお疲れ様。昨日の試合はみんなそれぞれ得るものも多かったと思うから、忘れない内に…」
「のわぎゃああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!!」
「………」
凄惨な悲鳴が部室の方から響き渡った。
騒音レベルで言うと、交差点が八十デシベルぐらいだというが、今の声は裕に百デシベルは越えているだろう。
部員達が声に驚いて肩を竦ませたり、耳を塞いだり、辺りを見回したり、少なからず動揺している中、幸村と真田と柳の三人だけは無反応だった。
幸村についてはただあるがままに騒音を受け入れたのか、それからゆっくりと部室の方へと振り向いて、何事だろうとこれまたゆっくりと首を傾げた。
「…どうしたんだろうね」
慌てて然るべきなのに、口調は普段のおっとりした感じとまるで変わらない。
大物である。
その泰然とした部長の隣では、副部長の肩がわなわなと震えている。
突然の騒音に恐怖している訳ではない…怒りを必死に抑えているのだ。
「…今度は何をしでかしとるんだアイツは〜〜〜っ!」
「俺に聞くな」
柳は目線を前から動かさず、完全に無視に徹している。
部長の言葉を気持ち良いほどに邪魔してくれたのは、間違いなくあの二年生エースだ。
「…騒々しいのう」
「けど何か…今の悲鳴じゃなかったか?」
仁王がのんびりと言う一方で、唯一切原の心配をしているジャッカルが先程の声について同意を求めたが、誰かがそれに答える前に、既に真田達が部室へと物凄い勢いで向かってしまった。
「あれはもう、掃除じゃ済みませんよ」
柳生が眉をひそめて言うのと同時に、彼らも一斉に部室へと向かう。
みんながほぼ同時に部室の前に着くと、その中から物凄い獣の唸り声と、人の声が重なって聞こえてきていた。
『てめ―――っ!! よくもやりやっがたな!? 血で紅く染められてーかっ!?』
『フシャ――――――ッ!!』
どう聞いてもただ事ではない気配に、丸井が無意識に身体を構える。
「おいおい、何の怪獣大戦争だよい」
「取り敢えず、止めた方が良さそうだな」
柳の言葉に頷き、真田が部室のドアを開いて一歩を踏み込んだ。
「赤也!! 何を騒いでいる」
怒鳴る真田の視界を、何かが物凄い速さで駆けてこちらへと向かってくる。
「むっ!?」
流石は武道をたしなんでいるだけあり、真田は間一髪でその物体をかわすと、それが窓の側に着地するのを確認した。
「…狸?」
「ええっ!?」
丸井が真田の言葉に声を上げたが、窓の側で威嚇の姿勢をとっている四足の動物を見ると…
「…確かにタヌキだ」
と納得する。
尻尾が胴体並みに太く、毛が長く、そのシルエットは球体にかなり近い…所々に入っている褐色のポイントもいかにもタヌキを彷彿とさせる。
「本当か? こんな場所にタヌキィ?」
ジャッカルが疑って眉をひそめる側で、部長の幸村は口元に手を当てて注意深くその動物の様子を観察していた。
「いや…違うみたいだけど…」
「へ?」
彼等がその動物の正体について考えている間にも、切原と動物の戦いは続いていた。
よく見ると、興奮状態も頂点に達したのか、切原の瞳が真っ赤に染まっている。
「このヤロウ――――――ッ!!」
「プリッ」
どかっ!!
タヌキと看做された動物に切原が飛びかかろうとした瞬間、彼の顔面に仁王のテニスシューズの靴底が激突した。
「どあっ!!」
衝撃で、切原の身体が床に倒れる。
「アホかお前は…動物相手に赤目になるな、はた迷惑じゃ」
うんざりといった様子で後輩を止めた彼の隣で、柳が何か思い当たる節があるのか必死に考え込んでいる。
「あの動物……何処かで見た気がするのだが…」
「……猫、ではないですか?」
くい、と眼鏡の縁を軽く持ち上げながら、柳生が自身でも半信半疑という口調で言った。
「猫? あれがかぃ?」
「ペルシャ猫の様にも見えます…狸という割にはどうも……」
「しかし、どちらにしろかなり興奮してるぞ。何とか止めないと…」
ジャッカルが建設的な意見を述べると、部長の幸村が彼に答えた。
「……うん、分かった」
「え?」
「あれが猫なら、何とかなるかもしれない」
微笑んでそう言った彼は、ふい…と顔を自分の親友である真田に向けた。
「弦一郎、悪いけどあの子をしばらく引き止めておけるかい?」
「捕まえるということか?」
「いや、捕まえる必要はない。その場に留めておけたら、俺が何とかするよ」
「ふむ……その程度なら造作もないことだ」
「頼むよ」
真田にその場を任せると、幸村は例の動物を刺激しないように注意しながら、部室の或る場所へと向かう。
「いつつ…っ」
仁王の一蹴で我に返り、赤目が消えた切原が顔を押さえながら起き上がると、柳生が彼の隣に膝をついてハンカチを差し出した。
「いけませんよ、切原君。動物をいじめては可哀想でしょう…使って下さい」
「…俺もヒト科の動物なんスけど、可哀想じゃないんスか…? あつ…すんません」
「切原君は打たれ強いですからね」
「…そりゃどーも」
褒められているのだろうか?と思いながら、切原はハンカチを受け取ると自分の顔に当て、汚れを拭き取る。
強打に見えても仁王が加減してくれていたのだろう、幸い目立った傷や鼻血はなかったが、あの動物に引っかかれた跡が幾つも残り、血が滲んでいる。
その傍らで、真田は幸村に言われた通り切原に代わって動物と対峙していた。
「フ――――――ッ!!」
前足を突っ張らせつつ全身の毛と尻尾を逆立て、真っ赤な口を開いた相手は、今度は真田に向けて威嚇をする。
「……」
じっとその生き物の目を睨んでいた真田は、野生の一瞬の隙を突いて、びしっと人差し指を相手の目前に突きつけた。
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