切り詰め貢がれヴァレンタイン
「んー…」
或る日の昼休み、立海大第附属中学三年生の丸井ブン太は自分の机でノートを開き、持って来た新聞に目を通しながら、ペンをくるくると器用に回しつつ真剣に何かを考え込んでいた。
まるで、事情を知らない人間が一見すると、最近流行っているトレードに勤しむ若き実業家の様だ。
そんな彼を廊下から見かけて、教室へと入って来た一団がある。
丸井と同じく、男子テニス部レギュラーである若者達だった。
「ブン太、君がこんな時間にまで新聞を読んでいるなんて珍しいじゃないか」
「株でもやっているのか? 素人がブームに流され過ぎると危険だ、個人の自由ではあるが、よく考えた方がいい」
部長や参謀が興味深そうに相手の様子を見つめながら声を掛けたが、向こうは思考が集中しているのか、視線を彼らへと向けずにノートに留めたまま答えた。
「や、株よりずっと重要なものなんだけどさ……んー、今は何処を見ても不況のあおり受けてんのなー。これじゃあ、今年はちょっと前年割れしそうかも…」
そして、かりかりとノートに何事か書き込んで締め括る。
「ヴァレンタインのチョコ」
「経済面見ながら言う台詞か?」
どういう事だ、と副部長が理解しようと柳へと視線を向けて疑問を呈したが、向こうも眉をひそめるだけで回答に苦慮している様子。
何というものではないように見えるが、この若者が答えに詰まるという姿は実は非常に珍しいものなのだ。
その一方では、丸井の発言に呆れた様子で苦笑する詐欺師達がいた。
「何じゃ、心配して損したのう」
「或る意味、あまりにも丸井君らしいと言えばそうですが…」
「新聞見たって、ヴァレンタインのチョコの数が分かるワケないっしょ?」
最後の、後輩である切原の台詞に初めて丸井はペンを止め、視線を上へと向けた。
「なーに言ってんだよい、結構役に立つんだぜい? 例えばさ、ここには製造業の低迷が続くって書いているけど、ウチの学校の女子生徒の親の二割以上はそれ関連の会社に勤めてるから、そこの家計に与える影響ってのは大きいだろい? ってコトはさ、少なからずそいつらの小遣いもかなりの確率でダウンしているだろうし、そこから考えると、今年のヴァレンタインのチョコの数と質に与える影響は…」
「わかったわかった、もういい」
相棒であるジャッカルがこめかみに手を当てながら相手を止めるのは、本当に分かったからではなく、それ以上聞きたくなかったからだ。
確かに今週土曜日はその運命のXデーだが、そんなリサーチをしてチョコの数が増えるワケでもない……
「新聞社も、そんな事を言いたいが為に記事を編集している訳ではなかろうに…」
「私が編集者だったら、首を括りたくなっているでしょうね…」
哀れだ…と新聞社を哀れんでいる副部長と紳士の心は、余計なお世話かもしれないが。
「と言うよりも、君、女子の親の職業まで調べてるの…?」
「トーゼンじゃん」
「通報していいか、精市。いつか罪を犯しそうな気がする」
冗談とも本気ともとれる発言をしながら、柳がすちゃっと己の携帯を取り出したが、それは部長ではなく、相棒のジャッカルによって止められた。
「いやいやいやいや!! 取り敢えずコイツには悪意はないから! 信じられないだろうし俺も信じられないけどそれは間違いないから!!」
「ジャッカル…ちょっと保健室で休んできたら?」
相棒を庇いたい気持ちは尊重出来るが、明らかに言っている事が支離滅裂である。
普段から丸井に相当苦労させられているのだろう男の苦悩を思い、幸村がぽん、と相手の肩に手を置いた。
『相変わらずあそこの部には一般人がいないよなー』というビミョーな周囲の視線の中で、仁王が元凶とも言える赤毛の若者に聞いた。
「お前さんのう…去年も一昨年も、俺らが貰ったチョコまで搾取しといてまだ足りんのか? ベタベタ甘いものばかり食べてよく飽きんもんじゃな」
「好きなんだもん、いーじゃねぇかよい。それにお前らだって、以前は食べきれないからって俺にくれてたじゃんか…最近は何か知らねーけどケチになったけどさ」
「お前の健康の為だ」
何を言うか、と真田が憮然として相手に言い返した。
詭弁と思われるかもしれないが、実は真実である。
彼らは中学一年の頃からテニス部において親友、戦友の関係にあり、揺ぎ無い友情を育んでいた。
元々甘い物が大好きだった丸井の嗜好は、入学早々に既にメンバーには周知の事実となり、一年生で迎えたヴァレンタインでもうかなりのチョコを貰っていた彼らは、別に深く考えるでもなく彼にそれを譲ってやっていたのだ。
友人がそんなにチョコが好きなら…という友達思いの男達の好意で。
ところが。
与えても与えても、底なし沼の様にそれらを片っ端から呑み込んでいく相手の食欲に、流石の親友たちも徐々に不安と恐怖を覚えるようになり、最終的に、彼らのリーダーシップを取っていた幸村の一言で、自動給餌器システムは稼動を停止する運びとなったのだった。
正直、今でも丸井の首に『エサを与えないでください』というプラカードをぶら下げたい気持ちはあるのだが、それをしないのもまた友情である。
「昔のコトは知らないッスけど……そう言えば、最近は昔とは違って義理チョコ以外にも色んなチョコがありますよね。友チョコとか…」
「ともチョコ? 共食いでも始めるつもりか?」
「殺伐すぎるッス、副部長…」
色恋に疎いコトは知っていたが、もしかしたらこの人は人生、根本的なところで大きく間違っているのかもしれない…と思いつつ、切原は簡単に説明した。
「その『とも』じゃなくて、友達の友チョコ。女の子達が、友人と贈りあうってものらしいッスね。結構ソレ用の可愛いチョコもあるってコトで、人気があるって姉貴が言ってたッス」
「女性は、可愛いものが好きですからね」
「贈り合ったチョコを肴に、きゃぴきゃぴ騒ぐのが楽しいのかもしれんの」
柳生と仁王が、想像に難くないところを言ったところで、それに聞き耳を立てていた丸井が乗ってきた。
「…それって男でも有効?」
既に考えている事の半分は読めてしまったと思いつつ、柳は正直に答える。
「…男同士でのやり取りはあまり聞かない」
「……今からでも愛想振りまいとけば少しは効果あるかな」
「逆に友達減ると思うよ」
やめといた方が…と幸村が忠告しながらふと廊下に視線を遣ったところで、彼の表情が急に柔らかなそれに変わった。
「あ……竜崎さんだ」
『えっ、どこ?』
チョコの話は何処へやら、途端、ぐりんっと一気に回る男達の首。
示し合わせずともここまでシンクロするというのは天晴れであるが、それをなし得たのは偏に幸村が口にした名に速効で反応出来た彼らの反射神経の良さに他ならない。
では何故それが可能だったかと言うと、理由は一つ、彼ら全員がその竜崎という人物に対し並ならぬ友愛の情を抱いているからに他ならなかった。
本名を竜崎桜乃という中学一年生…彼らにとっては後輩に当たる、が、数ヶ月前までは、彼女は後輩という立場ですらなかった。
彼女は中学入学当初は青学の生徒だったのだが、その後、立海メンバーと知り合い、交流を深める内に彼らに非常に懐いてしまった。
その心の勢いに乗り、他校への留学話を蹴った反動を使ってそのまま立海へと転校を果たしただけでなく、テニス部マネージャーにも就いた意外と行動力に溢れた女性である。
しかし、専ら普段は大人しく素直な性格で、目立つような行動を好んで取る事もない慎ましい少女であり、そんな彼女を彼らは最早妹にも等しい扱いで慈しんでいるのだった。
まぁ、全員が全員、こっそりと兄貴分以上の感情を抱いている可能性も否定は出来ないのだが、今の処は八人の兄貴分としての立場で、彼女をあれこれとサポートしている。
そんな学年が違う可愛い妹分の桜乃と昼休みに会えるだけでも、彼らにとっては嬉しいハプニングなのである。
「あっ、ホントだ、おさげちゃんだー」
「珍しいなこんな所で会うなんて」
ダブルスペアの二人がそう言っていると、誰かを探している様子だった桜乃が彼らの姿に気付き、にこりと笑って室内へと入って来た。
相変わらず長いおさげを揺らしてとことこと歩いて来ると、小さな首をぴょこ、と下げて挨拶をする。
「こんにちは。皆さん、こちらにいらっしゃったんですね」
「どうしたの? 竜崎さん」
「あ、はい。柳先輩に借りていた本をお返ししたくて…有難うございました」
差し出された本を受け取り、柳は頷きながら微笑んだ。
「ああ…喜んでもらえたなら何よりだ」
「何の本?」
尋ねた切原に、桜乃が微笑みながら答える。
「歴史小説ですよ。描写が凄くリアルで面白かったです。一気に読んでしまいました」
「続きはどうする?」
まだ続編があるらしい柳の台詞だったが、それに対しては少女は残念そうに首を横に振った。
「あ、今はいいです。もうすぐ期末試験も控えていますから勉強しないと…手許にあったら読みたい誘惑が辛くって…」
「ああ、分かる分かる…ん?」
頷いて同意していたジャッカルが、桜乃が持っていた小さな紙袋に目を遣った。
この表面のプリントは見覚えがある。
「…何だ? いつもは弁当派なのに今日は学食だったのか?」
「はい…混んでいるところに行くのは疲れるので、今買って来たんです。ちょっと家のお米切らしちゃってて…」
「何じゃ、買い忘れか?」
「いいえ、今は買えないんです」
相手の告白に、全員がぎょ、とした視線を向ける。
まさか、明日の米にも困るような厳しい経済状況なのか!?
「へっ…? ど、どういうコト?」
新聞の経済面で書かれていた不況の現実が目の前に突きつけられた様な錯覚を起こし、丸井が恐々尋ねると、向こうはむ〜っと腕を組みながら極めて真面目に答えた。
「今度の木曜が、お米が特価四割引なんです。だからそれまでは節約して我慢」
「竜崎…っ!」
ごめんなさい、もう俺ワガママ言いません、と謝る勢いで、くぅっとジャッカルが陰で涙を拭いた。
「そ、そこまで切り詰めているのか? 身体に悪いぞ」
「しっかり栄養は摂らないといけませんよ?」
真田と柳生も心底心配している様子で少女を気遣ったが、意外に彼女はけろっとした顔で手をひらひらと振った。
「いえいえ、流石にいつもこうじゃないですよ。食事はしっかり摂っているし今回はたまたまです……ところで、皆さんは何をお話に…?」
「ああ、今年のヴァ…」
ぎゅむっ…!!
「!!!!????」
言いかけた口が塞がれたのは、仁王が陰でこっそりと丸井の足を踏みつけたからだった。
しかし桜乃以外のメンバーは全員、その事実を知りながら非難する事もなく、寧ろ心でぐっと親指を突き出す。
(ナイス、口止めっ!!)
「いや、何でもないよ、ただの世間話…それにしても今気付いたけど、ちょっと顔色も悪いな、竜崎さん。勉強もいいけど、身体を壊したら元も子もないんだから大事にしなきゃ」
「はい…でも全然元気ですよ」
それからも桜乃はレギュラーの面々と雑談を交わしていたが、結局彼女が教室を後にするまで、ヴァレンタインの話題が口の端に登る事はなかったのだった。
一言、物申したいのは無論、したたかに足先を踏まれた丸井である。
「何すんだよい!! 仁王〜〜〜っ!!」
「やかましい! あの状態でヴァレンタインの話なんぞ振ったら、アイツは自分の食事も削って準備するに決まっとるじゃろうが!」
「世間の不況はどうでもいいが、竜崎の家計は守ってやるべきだろう」
柳がかなり強引で無茶な理論を述べたが、誰も突っ込まないところが凄い。
そして、部長である幸村も、参謀に賛同する形で頷いた。
「別に欲しくないって言ったワケじゃないし、今年も同じ様に貰えるかもしれない。でも、貰えなくても絶対に催促する様な真似はしないこと……元々俺達、チョコの数だけ言うなら十二分に貰えているんだから贅沢だよ」
尤もな事を言った部長だが、納得しつつも少し残念そうな様子で切原が呟いた。
「竜崎に関しては別ッスけどね。確かに彼女の手作り料理は美味いけど、それより竜崎本人から『気持ち』が貰えるってコトが嬉しいじゃないッスか」
「……」
それを聞いた幸村は、無言を守っていたのだが……
「……俺だって貰いたいよ」
みし…っ
彼が握っていた机の端から軋む音が聞こえ、他のレギュラー達が震え上がる。
本気で残念がってる!!
「すんません、我慢します」
これ以上こちらがダダをこねるような発言をしたら、彼の忍耐の糸は間違いなく切れる!と、切原は速効で冷や汗を浮かべながら謝罪していた。
二月十三日金曜日…
土曜が休みとなる学校では、今日が実質的なヴァレンタインデーとなるのだが、やはりその日は朝から校内がささやかな賑わいに包まれていた。
下駄箱から机の引き出しからぼろぼろと、まるで打ち出の小槌を振った様に湧いてくるのは一つ残らずチョコレート…と他、お菓子類。
勿論、立海内の男子全員がそういう有り難い恩恵に預かれる訳ではなく、あくまでもテニス部レギュラーと、他一部の男子学生に限った話。
「…今年も平和じゃのう……本来なら、マスク被った異常者が連続殺人を起こす日なんじゃが…」
「現実だったら、とっくに国民全員が篭城していますよ」
仁王と柳生が窓の外をぼーっと眺めつつそんな言葉を呟いている昼休み…彼らの机の脇のフックに掛けられていた大きな紙袋には、既に盛り上るほどのチョコの山が見えていた。
他のレギュラー達も、きっと同じ光景が少なからず見えている筈だ。
過剰で重いものでない限りは、声援や励ましの言葉は素直に嬉しいと思うし、真摯に受け止めたいとも思う…が、残念ながら、過剰で重いものも少なからずこの中に入っているんだろうと思うと、少しばかり気が重い。
それに、何より今年は…
「……ま、好かれとるのは間違いないからの」
「いけませんね、一度その歓びを知ってしまったら、欲張りになってしまって」
或る一つの事実を踏まえた上で、そう語り合った二人は困った様に笑った。
その一方…
「…む?」
一階の廊下をすたすたと背筋を伸ばして歩いていた真田が、向こうから歩いて来る人物で見知った者を見つけ、歩みを止めた。
「竜崎?」
「あっ、真田先輩…」
向こうもこちらに気付いて立ち止まってはくれたのだが、何故かいつもより沈んだ表情だ。
「どうした? 気分が優れない様だが…?」
「いえ…私は大丈夫なんですけど、何となく今日は丸井先輩が元気がないみたいで…」
「………ああ」
暫しの沈黙の後で、その理由に気付いた若者は、少し居心地悪そうに視線を逸らしつつはぐらかす。
「まぁ、たまには調子が悪い時もあるだろう。そう大事でなければ、普段通りに接してくれて構わん」
「はい…あ、そうでした。真田先輩、部活のことなんですけど…」
「うん?」
話は変わり、桜乃は部の活動に関連する事柄を真田へと切り出した。
相手も副部長という役を負い、他の役に就いている二人とも親しいので、ここで伝えておいたら彼らにも伝わるだろうと思ってのことらしい。
「今日の放課後に、体育館に新たに搬入されていた備品を部室に移動したいんです。重い物はないので部の合間に私が入れますから、その間の不在を許可して下さいますか?」
「ああ…それは無論、構わないが…本当に大丈夫か?」
元々が真面目な娘なのでサボる事はないだろうと真田は相手を信頼し、気遣いまで見せる。
もし相手が二年生の某後輩だったら、ここまでスムーズに許可されはしなかっただろう。
「はい、ストップウォッチとか、ごく軽い備品ばかりですし、皆さんの活動を妨げる様な事でもありません。今日のスケジュール的にも私の時間は比較的空いていますから、一番効率的だと思います」
「そういう事なら任せよう。何かあったらすぐに声を掛けてくれ」
「はい」
そこで話は終わり、二人は別れてそれぞれの教室へと向かった。
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