風紀委員長の或る日の午後


 真田弦一郎
 言うまでもなく、天下の立海大附属中学 男子テニス部の副部長である。
 己にも他人にも厳しい彼は、学校でもう一つの顔を持っている。
 それは風紀委員長という立場であり、まさに彼という人間にはうってつけの役職である。
 厳しい言動で他の生徒達の気の緩みを正し、風紀を乱そうとする輩にはとにかく容赦がない。
 固いイメージ通りではあるが、それでも彼が入学して以降、その働きのお陰で校内の生徒を脅かすような一部の輩はことごとく姿を消し、煙草などの不良行為もすっかり影をひそめ、健全に学生生活を送りたいと願う一般の生徒達にとっては、まさに理想の学び舎になっている。
 だからこそ、彼の厳しい言葉にも反論は少なく、言われた人間も素直に聞き入れることが出来るのである…ごく一部の例外を除いては。
 そんな立海の守護神とも呼べる彼が、無論モテないわけがないのだが、やはり普段があまりにストイックな彼のこと、告白しようとまで思い至るような剛毅な女性はなかなかいない様だ。
 しかしそういう色恋沙汰に元々疎い真田は、全く周囲の女子の視線には気付いていない。
 ただ、そんな彼がやけに気になる女性が一人…最近、出来たようである。


 立海テニスコート
「もっと手先に神経を集中させろ! ただ振るだけでは何の練習にもならんぞ!」
 放課後、男子テニス部の活動が始まれば、真田は即座に副部長の顔になる。
 その日も、彼は非レギュラー達への熱心な指導を行っていた。
 レギュラー陣については、幸村や柳の綿密なスケジュールがあるので、任せておくのに大きな不安はない。
 しかし非レギュラー達は、まだこれから伸びる逸材が眠っているかもしれない。
 その隠れた才能を引き出すのも、上にいる者の勤めなのだ。
「今日も気合入ってるね、弦一郎」
「ああ、お陰で俺達はレギュラー達の指導に集中出来る」
「ふふ…却って暇なぐらいだけどね」
 部長の幸村と参謀の柳が、そんな副部長の姿を頼もしそうに眺めていたところで、そこに一人の部員が走ってきた。
「あの…すみません、部長」
「ん?」
 どうしたの?とベンチに座っていた幸村が、彼の方へと身体を向ける。
 部長という肩書きに少しも慢心することなく、部員の誰に対しても、しっかりと身体と視線を向け、耳を傾けてくれる。
 その真摯な姿が、テニス部の鋼鉄の結束をより強めており、それはレギュラーでも非レギュラーでも変わらない。
「部室の電話に、真田副部長へ至急取り次いでもらいたいという人が…」
「弦一郎に…? 誰だろう」
「立海の風紀委員と言ってました…でも、外線なんですよ。どうしましょう?」
「風紀委員…」
 何事だろうね…と柳に視線を向けると、相手は腕組みをして少し時間をおき、口を開いた。
「そう言えば、今日の午後は風紀委員を含めた各委員の会合があったな…しかし、今日の参加は別の生徒に任せていると聞いていた」
「そうだね…もし弦一郎が出る予定なら、ここにいる筈がないもの」
 予定をすっぽかすような事は絶対しない男だと、全幅の信頼を寄せている親友だからこそそう言い切った幸村は、取り敢えず取り次ぐことを許可してベンチから立ち上がった。
「弦一郎!! こっちに来てくれるかい?」
 大声で呼ぶと、真田はすぐにこちらに気付いて走ってくる。
「精市? どうした」
「部室に君へ電話が掛かってるみたいだ。風紀委員の誰かみたいだけど…」
「電話?」
「取り敢えず、行ってみてくれ。外線だそうだ」
「?」
 それ以上の情報は幸村たちも含めて誰も持ち合わせていない以上、真田は電話を受ける為に部室へと向かわざるをえなかった。
「…その会議って、何時から始まるって?」
「確か五時だ…あと二十分と四十秒後」
「よく考えたら、そういう会は委員長が参加するのが普通なんだけどね…」
 あの責任感の強い真田にしては珍しい行為だ、と首を傾げた幸村に、柳は至極冷静かつ正確に、会合についての情報を説明する。
「今日は非レギュラー達の勝ち抜き戦を予定していたから、どうしても、ということで他の委員に任せたらしい。聞くと、別に何か重要な議題がある訳でもないただの報告会で、準備していた書類さえあればサルでも出来ると弦一郎が…」
「シビアな言い方だなぁ」
 サルはあんまりだよ…と苦笑する幸村の傍に、す…と誰かの影が差した。
「む…」
「? やあ、よく来たね」
 そちらに振り向いた柳も、幸村も、その相手に向かって朗らかな笑顔を浮かべた。


「もしもし?」
 一方その頃、電話口に立った真田は…
『あっ!! 真田委員長! すみませんっ! 今日の報告会、代わりに出て下さいっ!!』
 出て早々、そんな懇願を大音量で耳元で聞かされていた。
「む、お前は…今日、会に出るはずだっただろう!?」
 真田の声が、いつもより更に大きくなる。
 当然だ。
 あと二十分足らずで開かれる会に出る筈の人物が、外線からここに掛けてきているということを考えると、誰しも冷静ではいられない。
「一体、何があった!?」
『それがっ…』
 もしかして、本人やその家族に何事かあったのか…と心配した委員長に返ってきた返事は…
『うっかりして、俺もう家に帰って来ちゃったんです!!』

ビキッ!!

 相応の理由があったのなら、真田は寧ろ気遣いの言葉を掛けていただろう。
 しかし、相応でない理由であった場合は…言わぬが吉だ。
「それは大変だなぁ…」
 派手な音と共に青筋をたて、ゆっくりと噛み締めるように呟いた真田の台詞には殺気すら宿っていたが、電話の回線のみでしか繋がっていない為、残念ながらというべきか、幸いというべきか、鉄拳制裁には至らなかった。
 そう言えば…自分がこいつに今回の役を任せたのは…
(サルでも出来る役だから、他の委員には別の仕事を任せることにしていたのだったな…)
 まさかそれすら出来ないことはなかろうと考えていたのだが…敵は自分の予想より上だった。
 何処かのくせっ毛の生意気小僧のように、生意気でもそれに伴う実力があり、発揮することが出来る相手なら、叩いて鍛え甲斐もあるというものだが…やはり世の中には匙を投げたくなる奴もいるものだ。
(次年からは、こいつは風紀委員には抜擢しないように進言しておくか…)
 そう心に決めながら、真田は仕方なく今日の会に代理で参加する事を決めた。
 勝ち抜き戦の件は、仕方ない、部長か参謀のどちらかに頼むしかないだろう。
「お前には、後日反省文五枚を提出してもらうぞ。で? 報告書は何処に保管してある?」
『あー、そう言えば、ウチの部室のPCの中に入ったままでした』

ビキビキッ!!

「このたわけ―――――っ!!」
 更に青筋がたち、見事に彼のこめかみに交差点マークが刻まれる。
 大体貴様、明日に必要な報告書を全く放置し、印刷すら行っていないとはどういう事だ!!
 そもそもそういう前準備は、やれるべきときにやっておくもので、当日に慌てて準備するなど言語道断!!
 今日のこの問題を引き起こしながら……
 と、真田の頭の中で、僅か一秒に満たない間に恐ろしく長い説教が渦巻いたが、それを言葉に乗せる間の時間も今は惜しい。
「反省文、十枚だ!!」
 それだけ言い切ると、真田はがしゃんっ!と受話器を叩きつけ、コートに飛び出した。
「精市、蓮二…すまんが…ん?」
 二人がいたベンチに近づくと、そこに約一名、新たな部活の参加者が立っている。
 詳しく言うと参加者というより、見学者というのが正しいのだが。
「り、竜崎…?」
「あ、こんにちは、真田さん。お電話でしたか」
 青学の一年生、竜崎桜乃が、ここに見学に来ていたのだ。
 いつもの様にほんわかとした雰囲気を漂わせたおさげの少女は、真田にも惜しみない笑顔と優しい言葉を掛けてきた。
「今日も見学に来ました、宜しくお願いします」
「あ、ああ……」
 笑顔を向けられただけで、鬼の副部長がしどろもどろになる様子を見つめながら、幸村は微笑んで親友に声を掛ける。
「折角来たから、彼女にもたまには指導をしてあげようかって話していたんだよ。勝ち抜き戦は俺達のどちらかが見ることにして、竜崎さんの指導は弦一郎にお願いしようと思ってるんだ、それで…」
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
 タイミング、最悪!
「…あれ?」
 さぞや張り切ってくれるだろうと思っていた相手が、明らかに落胆した様子でがくーっと肩を落とした姿に、幸村だけでなく柳も戸惑う。
「ど、どうした? 弦一郎…」
「俺達、何か悪いことを…」
「い、いや…申し出は…その、有り難いというか…何と言うか…」
 正直、嬉しい。
 久し振りに来てくれた少女と、共にテニスに打ち込む一時…さぞや至福の時間になったことだろう…
 今自分の肩に重くのしかかっている、風紀委員長という肩書きさえなければ!!
 しかし、やはり真田は、責任というものを捨てることは出来なかった。
「す、すまんが、緊急で会合には俺が出なければならん。竜崎には別の誰かがついてやってくれ。勝ち抜き戦は、二人のどちらかに頼みたいが…いいか?」
「…そう、か…さっきの電話はその件についてだったんだね」
「それではもう時間がないな…」
 気の毒そうに話す親友達の前で、真田は悔しさを必死に抑え、不出来な委員への怒りに震えながらも、竜崎にその内面を悟られることなく向き直った。
「わざわざ来てくれたが、構ってやれなくてすまんな…竜崎」
「い、いえ…私なんか、気に掛けて頂いているだけで嬉しいです」
 儀礼的な言葉でなく心底そう思っているだろう桜乃の微笑に、真田の心が癒されながらも苦悩に沈む。
 本当に、今日の会合さえなければっ…!!
(あやつ…反省文十枚では足りなかった…!)
 自分の心の痛みとの等価交換というのなら、あまりに罰が軽すぎたっ!!
「…おおう、よく燃えとるの〜〜〜」
「しばらく近づかないでおきましょう」
 仁王と柳生ペアの視点からは、副部長の背後に燃え盛る怒りの炎が見えているらしい。
 しかし肝心の桜乃には、まるでその炎が見えている様子はなく、無邪気に仕事に向かう相手を応援していた。
「真田さん、お仕事大変でしょうけど頑張って下さいね。早く戻れたら、テニス、教えて下さい」
「む?…う、うむ」
 不幸のどん底にいた真田が、かろうじてその一言で救われる。
 そうか、早く帰れたら、まだ時間はあるかもしれない…
「では、行ってくる」
 気持ちが切り替わったら彼の行動力は並ならぬものがあり、真田は速効で校舎へと走っていった。
「熱心ですねぇ…真田さん」
「いや…まぁ、色々とな」
「まぁ、そういう事にしといてやろうぜぃ」
 ジャッカルと丸井は、素直に感動している少女に、思うところはあるものの、結局それを話すことはなかった。

 それから会合に直行したと見られていた真田だったのだが、それから程なく、また物凄い勢いで部室へと戻って来た。
「あれ? 弦一郎?」
「すまん、部室のPC借りる! 向こうの部屋のヤツのプリンターが動かん!!」
「あ…そうなんだ…」
 会合の開始まで、あと八分…移動の時間を考えると、それでもかなりギリギリである。
 ついてない時にはそれが重なるものだ。



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