それは好機か災難か
「はぁ〜…だるいの〜」
或る秋の日の放課後。
立海大附属中学男子テニス部の活動中、レギュラーの一人である仁王が、やけに気の抜けた声を出していた。
いや、声だけではなく、その表情も『疲れています』と強くアピールしている。
「仁王? 片付いたか?」
「お前さんみたいな人間離れした怪力は俺には無いんじゃ…あまりいじめんでくれ」
コートの脇をだらりと歩く銀髪の男に、副部長である真田が声を掛けたが、相手はそれに対してもつれない返事を返すのみだった。
「まぁ、確かに辛い仕事かもしれないけどね…すまないが頼むよ、仁王」
「はぁ…やれやれじゃ」
部長である幸村からも一言、激励を受けて、仁王は肩を落としながらもため息を一つ…
実は、仁王は今の時間、特に試合など部活動に準じた活動を行っている訳ではなく、部室がある海林館の一角に誂えられた倉庫の片づけを行っているのである。
そこは各部が共同で使用している場所だが、各月の交代制で部が管理を行っており、今月は男子テニス部がその役目を担っている。
別に大きな行事がなければ、開ける必要もないし弄る機会もないのだが、今月は残念ながら、倉庫内のダンボール箱の移動を生徒会から命じられてしまった。
そういう訳で、今まさにその作業中なのである。
そして何故仁王かと言うと、単に今の時間帯、練習試合に出ていないレギュラーだからである。
因みに、彼が作業を行う前には丸井が同じく倉庫で荷物の移動を行っていた。
非レギュラーにさせないのか、という話もあるが、実は立海ではレギュラー以上に非レギュラーに対しては細やかな指導を行っている。
上に上がった者は自律の精神も当然のものとして求められ、下にいる者は決して受ける指導が疎かにならないように、との気配りからだ。
だからこそ、こういう少人数で対処出来る問題の場合は、非レギュラーよりもレギュラーに役目が回ってくるのである。
「ま、もう少しで全部片付くんじゃが…やはり人手が欲しいのう」
面倒くさい作業に対し、やけに前向きな発言をする詐欺師に、部長の幸村が穏やかな笑みを浮かべつつ首を傾げた。
「ふふ…仁王にしては珍しいね。いつもなら自分のノルマ分をしっかり決めて、後はすぐに他に任せるのに」
「どう見ても時間内に片付かんのならそうするが…ギリギリで一箱やら二箱残るんは逆に気持ち悪いんよ」
「成る程ね…」
気分の問題か…と納得した幸村の後ろから、ぴょこんと顔を出した少女がいた。
「? 何のお話ですか?」
「ああ、竜崎さん」
竜崎桜乃…青学の女子でありながら、今や立海男子テニス部の公認部員とも呼べる存在である。
女子で他校の学生であるにも関わらず、既に同部のレギュラー達からはここにいる事を無条件で許されている、或る意味凄い偉業を成し遂げている少女なのだ。
その彼女は、今日も少し前からここの練習を真面目に見学していた。
「あ、こんにちは仁王さん…見かけませんでしたが、何処に行ってたんですか?」
「おう竜崎、来とったか…いや、単なる荷物整理じゃよ」
「荷物整理…?」
仁王達から大体の内容を聞かされた桜乃は、ふぅん…と何度か頷いた後、ぱっと彼へと顔を向けた。
「あのう…私じゃ駄目ですか?」
「ん?」
少女の申し出に仁王は首を傾げ、真田がすぐに否定的な意見を述べた。
「竜崎…お前は女子だし、そんな作業を敢えてする必要は…」
「でも、他の方々は練習で手が離せませんし…私はほら、自由が利きますよ? それに、滅多に見られない倉庫の中を見学したいって気持ちもありますし…駄目ですか?」
「む…しかし」
尚も止めようとした真田だったが、にこにこと微笑み、『やってみたいです』とやる気を前面に出されると、止める力も弱くなる。
「…むぅ」
普段なら決断の速さにも定評がある真田が、今回に限ってはやけにそれを渋っている。
結局、真田に代わって決断を下したのは、部長の幸村だった。
「…まぁ、良いんじゃないかな」
「精市?」
「別に見られて困る物がある訳じゃないし、箱を移動させるだけなら参加しても…仁王はどう?」
「そうじゃの…大きな箱は勿論俺が運ぶし、小さな物だったら竜崎でも十分に持てると思う。とにかく、人手があるのは有り難い…竜崎、頼めるか?」
「はい! 頑張ります」
ガッツポーズを取る桜乃に、幸村達が笑って『頑張ってね』とエールを送る傍らで、真田だけが何故か仏頂面だった。
「じゃ行くか、宜しくな」
「はい」
こくんと頷いて仁王の後をとことこと付いて歩いて行く桜乃の後姿を、真田がじっと見つめる様子を見て、幸村がふふっと笑った。
「…本当に可愛いよね、彼女」
部長のさりげない感想に、びくっと副部長の肩が不自然なまでに跳ね上がる。
「う…っ…ま、まぁ……そういう表現は誤ってはいない…と思う」
「やれやれ…心配しなくても、仁王は彼女を襲ったりはしないよ」
「お…襲う…!?」
どもってあちこちに視線を彷徨わせ、挙動不審になる親友に、幸村は苦笑しつつため息をついた。
「分かりやすいね、弦一郎…彼女が大切なのはよく分かるけど、遠くで見ているばかりじゃ駄目だよ。しっかりとチャンスは活かさないと」
「…な、何を言っている、精市! 俺は、別にそんな…」
「ところで、俺が彼女を恋人にしたいって言ったら、君は応援してくれる?」
「っ…」
親友のいきなりの爆弾発言に、真田は顔を強張らせ、息を呑む。
精市が彼女を…!?
確かに…彼女のことはこいつもよく可愛がっていたし…
しかしまさか…もしそうなら俺は……
「…それ、は…」
「…嘘だよ」
くす、と笑って真田の金縛りを解いてやると、幸村は深く笑って相手の肩をぽんと叩いた。
「竜崎さんは俺にとって可愛い妹みたいな存在だし、弦一郎は大の親友だ。だから俺は、二人が不幸になるのは嫌なんだ。二人とも、幸せでいてほしいんだよ」
「…精市」
結局、自分の気持ちを暴露させられてしまった副部長は、気まずい顔をしながらも、相手にせめてもの笑みを浮かべて見せた。
「…俺は、一生お前には敵わんかもしれんな」
「そうかな…一生を計るには、俺達はまだまだ若いと思うけど?」
倉庫に到着し、仁王は桜乃を簡単に案内していた。
倉庫と言っても、下手な一軒家にあるそれより規模はかなり大きいものだ。
何かのトレーニングで使用するような機器と共に、書類が入っていると思われる箱も多数存在し、それらの幾つかが、自分達の今回の目的だった。
「えーと…」
「こっちじゃよ、竜崎…この壁に寄っとる箱を、こっち側の壁に移すんじゃ」
仁王が示した最初の壁にはまだ高く積まれている箱が複数あったが、続いて示された隣の壁の箱の数程は多くない。
確かに、作業そのものはもう折り返し地点は随分と過ぎている様だ。
「箱、そんなに大きくないんですね?」
「甘く見ん方がええよ。小さくても、紙ってモンは結構な重さがあるんじゃ。取り敢えず、お前さんは一番小さな大きさの箱だけ運んでくれ」
「はい」
理屈は実に単純明快な作業だ。
別段、迷うことも引っかかることもなく、桜乃は仁王に指示された通りに箱の移動を行った。
(あ…確かに結構重い…仁王さんはもっと大きいのでも軽々運んでるけど…頑張らないと)
折角お手伝いしているんだから、多少は相手の負担を減らさないと…と思いつつ、桜乃はよいしょよいしょと一生懸命に働く。
「おい、大丈夫か? あまり無理をしたらいかんぜよ」
「だ、大丈夫ですよ〜」
「…お前さんは大丈夫かもしれんが、もし万が一のことがあったら、俺が真田に殺されるからの」
「はい?」
「…ああいや…真田はお前さんの事を随分と気に掛けとるからの。怪我でもさせたら大事じゃ」
「はぁ…それは当然ですよ、真田さんは凄く責任感が強い副部長さんですから」
「…それだけでもなさそうじゃが」
「はい…?」
どういう事ですか?と尋ねようとした時…
ぐらり…
「え…?」
「地震じゃな…」
無意識の内に天井を仰ぐと、確かに倉庫全体が小刻みに震え、耳に障る音を生んでいた。
「…震度は三ぐらいか…ま、大したことはなさそうじゃの」
「ですか…」
仁王の言う通り、それ程に強い揺れに転じることもなく、地震は徐々に収まっていったのだが…
「…・っ!! 竜崎、そこから離れろっ!!」
「え…?」
箱を抱えたまま、突然の仁王の叫び声に振り向いた桜乃の頭上で、積み上げられていた一番上の箱が、ぐらっと傾いでいた。
先程の地震で、位置が大きくずれてしまったのだ。
「竜崎!?」
助けようにも、今仁王がいる場所と桜乃のいる場所は、人間ではどうしても間に合わない距離があった。
「あ…」
上を見た桜乃が、落下してくる箱を見つめる。
こういう時、身体が硬直して動かないのに意識だけはやたらと冴える。
今の桜乃も同じ状態であり、彼女は固まる身体を自覚しながら落ちる箱をスローモーションの様に見つめていた。
箱はまっすぐに重力に従って落ちてきて…
どすっ!!
「りゅ…!」
叫びかけた仁王の前、竜崎の目と鼻の先の床に激突した。
かろうじて……本当にギリギリの距離で、桜乃は傷一つ負わずに済んだのだ。
「…びっくりしたのう…大丈夫か? 竜崎」
「……」
「…竜崎?」
ほっと胸を撫で下ろしながら桜乃に近づき、声を掛けた仁王だが、対する少女が彼に答えることは無かった。
ん?と思いつつ、彼が桜乃の背後に近づいた時…
ひよよよよよ…
「おっ?」
少女が自分へと倒れこんできた
彼女の小さな身体をぽすっと抱きとめ、仁王がはははと笑う。
「何じゃ〜、竜崎、甘えんぼじゃのー」
「気絶しとるんだ――――――――っ!!!!!」
怒鳴り込んできたのは…やはり副部長の真田だった。
「心配して様子を見に来てみれば、何をやっとるんだ貴様はーっ!!」
桜乃が彼の腕の中に抱かれているのを見て思わず声を荒げた男だったが、相手はまるで動じていない。
「いや、地震は俺の所為じゃないし…」
まだ気持ちは納まっていなかったが、取り敢えず真田は桜乃が傷を負っていないことを確認して安心すると、そのまま急いで踵を返した。
「とにかく、人を呼んでくるぞ」
「っ!? おい、待たんか真田っ!!」
「ん?」
珍しく、やけに気合の入った声で自分を呼び止めた仁王に、思わず振り向いた真田だったが…
「今なら竜崎を好きなだけ弄れるのに何処行くんじゃ!? 据え膳食わぬは男の恥じゃろうが!!」
「誰か――――っ!!! 警察を呼んでくれ―――――――――――っ!!!!!」
数秒後には、それ以上に気合の入った真田の声が響いた…当然の反応。
「冗談じゃ」
「貴様の冗談は心臓に悪いわ―――――――っ!! もういい、寄越せっ!!」
こいつと桜乃を一緒にさせるのは危険すぎる!!
怒りに任せ、真田はがばっと相手から桜乃の身体を奪い取ると、そのまま前に抱えて倉庫を飛び出した。
「気を失っているだけなら、部室で休ませれば良かろう! 連れて行く!!」
「…ああ、まぁそうじゃけど」
既に倉庫からかなり遠ざかっている副部長を、銀髪の若者はふーんと頭をかきながら見送った。
「…気付いとらんじゃろうなぁ……見事に姫だっこ」
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