実はスゴイ人
「お? 竜崎じゃないか」
「あ、お早うございます、桑原先輩」
ある朝、立海男子テニス部マネージャーである竜崎桜乃と、レギュラーであるジャッカル桑原が出会ったのは、校内のテニスコートでも部室内でもなく、某所へ向かうバスの中だった。
「今日は宜しくお願いします」
「お前もこのバスだったのか、まぁ、今日の試合会場に行くにはこれが一番便利だからなぁ」
そう、今日は休日であり、彼らにとっては他校との練習試合当日でもあったのだ。
そして二人は、目的地に最寄の場所に運んでくれるこのバスを利用していた、という訳だ。
「他の皆さんは別の交通手段なんでしょうか?」
「かもな、家の場所によっては地下鉄使ったりした方が近いとかあるし…」
そんな何気ない話をしていた二人の耳に、か細い声が聞こえてきた。
「あ…赤ちゃんですねぇ」
「ん」
見ると、傍の席に座っていた若い女性が抱いていた赤子が、ぐずって泣き出していた。
抱いている母親らしきその若い女性は、周囲の乗客に気を遣いながら、その子をあやして泣き止ませようとしている。
「…赤ちゃんは泣くのが仕事ですから」
「そうだな」
二人だけでなく他の乗客たちも、彼らと同じような反応だった…のだが、
『うるせえな』
「!」
「?」
狭く閉ざされた空間で、明らかに敵意の篭った声が響き、思わず彼らはそちらへと視線を向けてしまった。
男だ…中年の男性…この朝早い時間だというのに顔は赤く、手には潰されたアルコール類の缶が握られている。
様相だけからも、あまり尊敬は出来ない人生の先輩だというのは目に見えて分かる。
その常識から逸脱した男の行為に唖然としていた二人と他の乗客の目前で、更に彼は母親に威圧的な態度で迫っている。
やれ『降りろ』だの『迷惑』だの、聞いているだけでこちらまで萎縮してしまいそうだ。
他人の自分たちですらそうなのだ、やはりあの母親は小さな身体を更に小さくして何度も頭を下げている…見ていて気の毒になる程に。
「あの…相手は赤ちゃんですから、そこまで責めなくても」
だから、桜乃はつい間に入ってしまったのだろう。
宥めるように両者の間に入った桜乃に対し、男は態度を改めるどころか、今度は彼女へと攻撃の的を変えてしまった。
元々、こういう人間は相手が誰でもいい…ただ、鬱憤を晴らす相手が欲しいだけなのだ。
「あ? ガキが口出ししてんじゃねーよ、それが目上の人間に対する態度か?」
桜乃に絡みだした男に、彼女の背後に立つ形になっていたジャッカルがむかっと不機嫌な表情を露にする。
普段は温厚で知られる若者だが、相手があまりに無体な真似をしたら、やはり人として怒ることもあるのだ。
「目上とか、それは関係ないと思います」
何とか穏便に済ませたい桜乃は少し及び腰になっても何とか食い下がったが、言われたままの男でもなかった。
「生意気なガキだな! おめーみてーなブスに言われても何とも思わねぇよ!!」
「え…」
ぶちっ×100
嫌な音がジャッカルのこめかみ辺りから聞こえてきた様な錯覚を、桜乃が覚えたのとほぼ同時に、彼は傍の降車ボタンをブーッと勢い良く押していた。
タイミング良くすぐに次の停留所に到着し、扉が音をたてて開く。
本来、彼ら二人が降りるべき停留所ではない場所だ。
(桑原先輩…?)
何でそんな事をするのかと桜乃が疑問の瞳を向けている間に、ジャッカルはずんずんと問題の男に歩み寄ると、むんずと相手の胸倉を掴み上げた。
「!?」
「ちぃっとツラ貸せや、ああ? おっさん」
普段では決して聞かれることのない、ジャッカルの乱暴な言葉…いや、口調そのものは怖いほどに優しく、ゆっくりとしたものだったが。
元々長身、ハーフで皮膚の色が浅黒く、更に鋭い瞳…極めつけは気合を入れて剃り上げられた頭部。
そんな男が喧嘩腰に上から睨みつけてきたら、如何な酔っ払いであっても酔いも醒めるというものだ。
「な、なん…なんっ…!」
「て・め・え・が・お・り・ろっ!!」
突然のジャッカルの乱入にうろたえた男は、その手から逃れようとしたのだが、努力空しくあっという間にバスから引き摺り下ろされてしまった。
ジャッカルが一緒に男と降りたところで、バスの扉が閉められてしまう。
「桑原先輩っ!?」
桜乃も追おうとしたのだが、彼女の意思に反してバスはゆっくりと走り出してしまい、ジャッカルとほんの僅かに視線を合わせる事しか出来なかった。
向こうは、最初からそういうつもりだったので慌てる様子もなく、いつもの笑顔に戻ってこちらに向かって手を振っていた。
(ど、どうしよう、ここからじゃ、試合に間に合わないかも…)
一人残った桜乃は、取り敢えず、試合会場に到着したらすぐに事の顛末を部長である幸村に伝えなければ!と思った。
彼は確か今日も丸井先輩と組んでダブルス1に参加する筈。
メンバーを変更するか、それとも…ううん、棄権はやっぱり考えられないけど…
試合会場到着後…
「幸村先輩! あの…っ」
「あ、お早う竜崎さん。朝早くから大変だったね」
見つけた部長に慌てて走り寄って報告を行おうとした桜乃に、しかし何故か幸村は既に全てを把握しているという様子で振り返った。
「え…?」
そんな幸村の影からにょっと現れて手を上げ、挨拶した人物は…
「よっ」
「ええええええええっ!?」
バスから確かに降りた筈のジャッカルが桜乃より先に到着し、既にウェアーに着替えていた。
「くっ…桑原先輩っ!? い、一体どうやってここに…」
「いや、あのおっさんはちょっとだけシメて解放して、ダッシュで走って来たんだ。まぁ、丁度いいアップになった、すぐにでも戦えるぜ」
「あの残りの距離をですか!?」
「四つの肺を舐めてもらったら困るなぁ…あ、勿論例えだぞ、今の」
「いえ、それは知ってますけど」
「ふふ…別に暴力沙汰になった訳でもないし、試合にも間に合ったから責めるつもりはないけど…部長としてはもう少し慎重に行動してほしいな、ジャッカル」
注意する幸村に、ジャッカルは片手の掌を立てて拝む形で謝った。
「悪い悪い、けど女子にブスなんて暴言吐く奴を、言わせたままにする道理もないだろ」
「まぁね…さ、そろそろ試合前のミーティングを始めるよ。二人とも準備して」
「おう」
「は、はい」
けろりと平気な顔をしてラケットを持ち、丸井の許に向かうジャッカルを見送りながら、桜乃はただただ感心していた。
(もしかしたら…他の人の評価以上に、実際は凄い人なのかも…)
それでも…あの人の良さの所為で、人生損しちゃってるんだろうな……
その時桜乃は、せめてこれからも、自分は彼の味方であろうと心に決めたのであった…
了
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