兄妹の苦悩
「桜乃って、兄弟いるんだっけ?」
「え? うん。弦一郎お兄ちゃん」
或る日、立海大附属中学の一年生の教室で、そんな会話が女子生徒の間で交わされていた。
そのグループの中の一人、真田桜乃は、友人の言葉にこっくりと頷いた。
兄が通うこの学校に入学し、学級にも馴染み、友人も出来たこの時期になると、本人だけでなくその環境についての話題も上るようになってくる。
桜乃の返事を受けて、グループの一人が軽く右手を上げながらそれに返した。
「あ、知ってる、確か三年の真田先輩だよね? テニス部レギュラーで副部長さんの! 私、コートで見たことある〜」
「えー!? どんな感じ!?」
「黒の帽子を被ってて髪型ははっきりとは分からなかったけど、すっごく格好良かった!! 動作もきびきびしてるし、下級生への指示も早くて…でも、ちょっとスパルタっぽい感じもしたなぁ」
情報提供した友人に、桜乃は苦笑して頷いた。
聞いているだけでも、兄の様子が容易に想像出来てしまう。
「よく言われる。でも私は一緒に暮らしているから、それが普通だって思ってるけど」
「ふーん、でも二歳しか違わないってことは、結構兄妹喧嘩とかありそうだね。ウチも年が近い所為か、結構やるよ? 取っ組み合いじゃあやっぱり負けるけど」
「あ、ウチもー」
桜乃を除いた女生徒達は一時、そこで自分達の兄妹事情について話し始めた。
「おやつとか、余った時には結構取り合ったりするよねー」
「そうそう、年上なんだからとか言って、勝手に食べちゃうの!」
「あれ酷いよね〜〜。ウチはそういう時はじゃんけんとかで決めるけど、それでもたまに後出しとかやられて」
きゃいきゃいと騒ぐ彼女たちを見ながら、一時桜乃は話の輪から外れてしまった。
(ええ〜〜〜?)
おやつの奪い合いなんて、記憶にないなぁ・・・喧嘩も、覚えている限りではないし・・・
桜乃の兄である真田弦一郎は、非常に厳格で知られているが、悪戯に人を害する様な真似は決してしない人間だ。
それは身近で生活している自分もよく分かっているのだが・・・
(喧嘩かぁ・・・私じゃ絶対に勝てないよねぇ。って言うか、女性に暴力揮うお兄ちゃんなんて想像出来ないし・・・)
でも、普通の兄妹だったら、やっぱり一度くらいはそういう経験ってあるのかなぁ・・・?
その日の夜・・・
「お兄ちゃん、入るねー」
『桜乃か? どうした?』
襖越しに兄の部屋に声を掛けると、凛とした言葉が返ってきた。
『入るな』という禁止の言葉がないという事は『入っていい』ということだ。
その台詞を受けて、桜乃はすっと襖を開けると、盆を持って中へと入っていった。
部屋の主である真田は、風呂上りに渋染めの浴衣を纏い、今は将棋盤の前に座って教本を見ながら何やら考え込んでいる。
その盤の上には、彼が動かしたと思われる駒が幾つか不規則な位置で乗せられていた。
「また将棋?」
「うむ・・・今日も蓮二の奴と指したのだが、どうにも今一歩のところで勝てんのでな・・・詰めが甘かったのか。先読みが拙かったのか・・・いずれにしろ、負けた原因を探り、それを克服しなければ次の勝利には繋げられん」
「ふぅん・・・」
言っている間にもぱち、と駒を進めたところで考察が一段落ついたのか、そこで初めて真田は視線を妹へと移した。
「ところで、何の用だ?」
「あ、お母さんが、お兄ちゃんにも差し入れてあげてって。お茶とお饅頭」
桜乃はそう答えながら、盆ごと真田専用の湯飲みと饅頭を二個、彼の膝元に置いた。
普段は夕食後にはあまり間食の習慣はない家だが、今日はどうやら誰かの差し入れがあったらしい・・・
「そうか、有難う」
「それでねそれでね、お兄ちゃん!」
運んでくれた妹に礼を述べた真田の前で、彼女はいきなりテンションを上げながら相手に話し掛けて来た。
「お饅頭が一個余ってね、お母さんが私かお兄ちゃんで食べていいって! だから、どっちが食べるかじゃんけんで決めよっ!」
「ん?」
嘘である。
実は、もっと饅頭は余っていたのだが、桜乃が母親に頼み込んで、一個余分に譲ってもらったのである。
その理由は、まさに、今桜乃が真田に仕掛けているお菓子を賭けてのじゃんけん。
饅頭一個程度で取っ組み合いとか喧嘩は望めないだろうが、じゃんけんぐらいなら!
しかし、それすらも桜乃にとっては生まれて初めての経験であり、彼女はきゃ〜っとどきどきしながら気合を入れるべく、手をぶんぶんと振り回していた。
「勝った方が一個多く貰えるの! それじゃ、じゃ―――んけ――ん・・・」
「要らん」
「・・・」
即答され、ぴたっと静止してしまった桜乃の前で、真田は今は饅頭よりも将棋の詰めが気になるのか、再び本へと視線を移した。
「食事も摂ったことだし、然程腹も空いていないからな。お前は甘い物が好きだっただろう、構わず持っていくといい」
「・・・・・・」
余計な欲は見せず、相手の嗜好を理解した上でそれを譲る。
見方によっては有り難い・・・実に理想的な兄である。
しかし、その姿は今の桜乃が求めているものではなかったのだ。
兄の優しさは分かる、十分に理解出来る・・・だけど・・・・・・
「ん?」
全く動かなくなってしまった桜乃を訝しみ、真田が再びそちらへと目を向けたが・・・
「あ――――んっ!! 弦一郎お兄ちゃんってつまんな――――いっ!!」
「えええ!?」
謂れのない非難を浴び、硬直する兄が止める暇もなく、傷心の妹はぱたぱたと部屋を飛び出してしまっていた・・・・・・
翌日・・・・・・
「やぁ蓮二、今日の弦一郎との勝負はどうだった?」
「それが・・・・・・」
立海大附属中学の三年生の教室、休憩時間を利用して男子テニス部部長の幸村が参謀の柳の教室に遊びに行ってみると、困惑した相手が自分を迎えた。
「弦一郎の奴が、それどころではなくてな・・・」
「ん・・・?」
相手が親指でくいっと示した先には、珍しくぐったりと机に突っ伏している幼馴染の姿があった。
「昨日はあれ程再戦に意気込んでいたのだが・・・朝練でも多少落ち込んでいる様子だったし」
「確かにおかしいね」
何かあったのかと、幸村は相手の机に近づいて声を掛けた。
「弦一郎、どうしたの? 気分が悪いのかい?」
「・・・・・・思春期の女子は分からん」
「・・・・・・」
ぼそっと呟いた相手の返事は全く脈絡のないものだったが、、幸村ははーんと全てに納得した様に頷いた。
「・・・『また』妹さんと何かあったんだね」
「・・・・・・」
だんまりを決め込んでいるが、つまり当たりということだろう・・・全く、相変わらずシスコン精神は健在なんだから・・・
「弦一郎・・・?」
心配になったのか、戻ってきた幸村に視線を向けた後、柳は再び落ち込んでいる真田に目を遣ったが、幸村は完全に安心しきった様子でくすくすと小さな笑みすら零していた。
「大丈夫、喧嘩する程仲がいいって言うけど・・・弦一郎相手じゃあ喧嘩にすらならないよ、放っておこう」
「いいのか?」
「うん」
その部長の言葉が正しいと証明されたのは、兄妹が仲直りをした当日の夜だった・・・・・・
了
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