責任感あり過ぎ?


 或る日の立海大附属中学の放課後…
 テニス部の活動が終了した後で、マネージャーの桜乃が先輩である柳生に声を掛けた。
「柳生先輩、少しいいですか?」
「はい? 何でしょう、竜崎さん」
 少し控えめに声を掛けてきた少女に、紳士と呼ばれる品行方正な若者は答えながら身体を向けた。
「今日習った数学の授業の問題で、一つだけまだ分からないところがあったんです。プリントの応用問題なんですけど…宜しければ、教えて頂けませんか?」
 後輩の願いに何ら躊躇う様子もなく、その男は笑みを浮かべながら頷いた。
「ええ、お安い御用ですよ」
 柳生比呂士は態度が紳士であると同時に教養もまた豊かで、苦手科目が存在しないことから、普段こういう指南を請われることがよくある。
 それは同学年のレギュラーの一部にも言える話なのだが、一番その機会が多いであろう参謀の柳は、今は幸村や真田との打ち合わせで忙しい様だ。
「ああ、良かった! 有難うございます。もう今日の午後からずーっともやもやしてて…」
 余程気になっていたのだろう、桜乃はすぐに鞄からその問題のプリントと自分のノートを取り出して相手に見せた。
「ここの最後の問いなんですけど…」
「ふむ…ああ、この手の問題ならコツを覚えたら大丈夫です」
 一瞥しただけですぐにその問題のパターンを理解したのか、柳生は手持ちのシャープペンシルを手に桜乃に解説を始めた。
「…で、ここでXを代入し…」
「え、と…あ、そうか」
 彼が懇切丁寧に少女に指導している脇から、今度は二年生の切原が顔を出してきた。
「おっ、竜崎何やってんの?」
「あ、切原先輩。今、柳生先輩に勉強教えてもらってるんです」
「へ〜…あ、そだ」
 相手の返事を聞いた若者は、何を思ったか、ロッカーの中の自分の鞄から一冊のノートを出して再び彼らの許へと戻って来た。
「柳生先輩、俺にも今日の宿題教えて下さい」
「……」
 桜乃が相手の時には即答で引き受けていた紳士が、何故か今度の切原の願いには渋い顔をして沈黙する。
「…柳生先輩?」
 どうしたのかと問い掛けた桜乃の疑問に答える形で、柳生は眼鏡の縁を押さえながら切原にぴしりと言った。
「宜しいですか、切原君。人に頼るだけでは自身の力など身につきませんよ。苦手であっても少しは努力をした後に、助力を請うものです」
「あ―――、もしかして贔屓ッスか? 男尊女卑」
 ぶーっと頬を膨らませて拗ねる後輩の台詞に、柳生は軽い眩暈を覚える。
「貴方が国語も苦手だということはよく分かりました」
『切原先輩っ、逆です、意味逆っ…』
「へっ?」
 ひそひそっと小声で教えてくれる桜乃に切原が顔を向けると、柳生は手にしていた桜乃のノートを後輩の二年男子に示した。
「こちらが竜崎さんのノート」
 そこには、解けなかった問題以外の問いの解法が、一つ一つ丁寧にぴっちりと、桜乃の手によって埋められていた。
 いかにも真面目な生徒が真面目に書き込んでいるという感じのノート。
「対し、こちらが君のノート」
 続いて、ぐいっと柳生が切原の持っていたノートの開かれていた面を指で押してその場の者達の目に晒す。
 見事に真っ白…洗剤の宣伝風に言えば、『眩しい白さ』というヤツだ。
「……」
「分かりましたか? 教えてほしいのなら、最低でも自分で解いた跡を残しなさい。考えた上で、それでも分からなかったという事であれば、教える事にやぶさかではありません」
 言い返すコトも出来ず沈黙した切原に、優しい桜乃がフォローを入れる。
「きっ、切原先輩、大丈夫ですよ。例題とか見ながら解いたら大体はそれで何とかなりますし!」
 だから頑張りましょうと励ます後輩に、若者はしみじみと頷きながら答えた。
「あー…竜崎の優しさが身に染みる。ホント、オメーが同級生だったら良かったのにな〜」
「もう…柳生先輩のお話聞いてました?」
「だぁってよー…このままじゃ俺、マジで留年して…ん?」
 ふと、何かを思いついたのか、切原は言葉を切った後に暫く考え込んだ。
「……俺が留年してもっかい二年生やれば、竜崎と同級生なんだな」
「え?」
 ぼそりと呟かれた非常に物騒な台詞に桜乃がきょとんとする背後で、柳生の眼鏡がギラッと光った。
「もう、駄目ですよ。そんな事考えたら」
「へへへ、ま、最悪の場合はな。けどもしそうなったら、もしかしたら同じ教室になるかも知んないし、そしたら色々とお世話になるかもな〜」
「またまたぁ」
 悪い冗談なんですから…と笑って桜乃が応じ、そこで切原は柳生からの教示は諦めたのか、ノートを抱えて背を向けた。
「ま、そう考えると何か、それでもいーや。帰って自分で適当にやろ…」
「待ちたまえ」
 むんず…
「へ…っ?」
 肩を掴まれ、振り返ると、眼鏡から怪しい光を放ちながら柳生が鬼気迫る勢いでこちらを睨んでいる…様に見える。
「な、何スか」
「そちらは良くてもこちらは全く宜しくありません。貴方の不手際でドツボに嵌るのは貴方だけで結構です、竜崎さんまで巻き込もうなど言語道断!」
「いや別に…巻き込むなんて…」
 後輩がじり、と身体を引きながら弁解したが、それで納得する相手でもなかった。
「貴方が竜崎さんと同級生になりでもしたら、彼女におんぶに抱っこになるのは目に見えていますっ! 私の意地にかけても留年させる訳にはいきませんっ!! 竜崎さんの平和の為にも是が非でも! ええ、死んでも進級して頂きます!!」
 有難いのか有難くないのかよく分からないお言葉。
「め、滅茶苦茶理論ズレまくってますけど…ど、どうやって…?」
 こういう時には嫌な予感がよく当たる切原だったが、今回もその例に漏れなかった。
「今後、部活動の後に、みっちり私の補習を受けて頂きましょう。必要とあれば参謀を始めとする皆さんの協力も仰ぎます」
「ぎゃあああああああっ!!」
 よりによって最低最悪な事態に進んでしまった現状に悲鳴を上げ、切原がその場から逃げようとするが、既に肩を掴まれている為にそれは不可能だった。
 その内に何事だと他のメンバーも寄って来たが、おそらく柳生の説明を聞けば、反論する者は皆無だろう…何しろ可愛いマネージャーであり妹分の為でもあるのだから。
 正に、二年生エースにとっては四面楚歌。
「わ〜〜〜〜!! 嫌ですってば! テニスの猛練習の後に頭まで痛めつけられたら、俺マジで倒れますって〜〜〜!!」
「貴方に限って言えば、身体の健康など後からどうにでもなりますっ!! 人生で一度ぐらい、倒れるまで勉強なさいっ!!」
「や、柳生先輩…?」
 紳士の滅多にない気迫に圧されつつ桜乃が相手を止めようとしたが、最早向こうは切原に対する補習をやる気満々の様だ。
 止まる可能性は…最早、ゼロに近いだろう。
「あーあ…見事に地雷を踏んだのう」
「あっ、仁王先輩! 柳生先輩を止めて下さい〜」
 傍に来て、一部始終を見ていたらしい詐欺師が笑っているのに気付いた桜乃が助けを求めたが、相手は動く様子がない。
「ま、放っときんしゃい。赤也の奴が留年するんは誰でも不本意じゃろうが。愛の鞭を受けさせるんもアイツの為じゃ」
「………本音は?」
「なかなか楽しい見世物じゃしの」
「やっぱり…」
 がっくりと項垂れてしまった桜乃は、最早、切原がこの試練を乗り越える事を願うしかなかった。


 しかし、彼らの愛情(?)を受けたお陰か、切原は無事に次の年、三年に進級することが出来たのであった……






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