ウサギのお目々
「うう〜〜〜、つい読み耽っっちゃったよう〜〜」
その日の朝、桜乃は珍しく赤い目をして登校していた。
昨夜、先輩である柳生に借りた推理小説を読んでいてついつい夜更かししてしまったのだ。
何とか遅刻はしないで済みそうだが、いつもよりはやや遅めの登校になってしまった。
遅めとは言うが、彼女は今は立海男子テニス部のマネージャーであり、朝錬にも参加する立場なので、それでも結構早い時間での登校となるのだが。
「後でまた目薬点そうっと…あれ?」
ぱたぱたと朝練に間に合うように急いでいた桜乃の視界の先に、一人の同校の男子学生の後姿が見えてきた。
「あの人は…」
無論、他にもちらほらと生徒達の姿は目についていたのだが、特にその人の姿が見覚えのあるものであり、目立つものだったので、桜乃は思わず注目してしまった。
(…切原…先輩、だよねぇ?)
あのくせっ毛は間違いないと思うけど…と思いつつ、桜乃は暫く彼の後姿を見ているに留まった。
正しくは、彼とその周囲の一種異様な光景を。
向こうは別に普段と変わりなく歩いているのだが、彼に近づいたり横に来た他の生徒達が、悉く相手を避けていくのだ。
露骨な生徒は、切原の顔を覗いた瞬間、びくっと怯えた様に肩を竦ませて、すささ〜っと離れていく…だから非常に目立つ。
(切原先輩、どうしたんだろ…もしかして怒っているから近寄りづらいとか…?)
そう言えば、切原先輩はテニスは凄く上手いけど、朝は弱くてよく遅刻もしているし…寝起きで機嫌が悪くなっているのかも…?
考えても正しい答えが出る筈もなく、結局桜乃は直接切原に会った方が早いと、早足で彼に近づいていった。
「お早うございます、切原先輩」
「んあ?」
声を掛け、ふいっと相手が振り向くと…やはり二年生の先輩である切原だった…が、
「あら?」
真っ赤だった…切原の瞳も。
猫の様にきょろっとした大きな瞳が見事に充血している…が、有能なマネージャーはすぐに、それが暴走によるものではないと見抜いて、普段と変わりなく話しかける。
「どうしたんですか? 目、赤いですよ?」
尋ねる少女に、切原はん?と首を傾げた。
「どーしたのって…アンタこそどうしたんだよ」
言われて、自分も今日は充血していたのだと思い出し、少女は照れ臭そうに笑った。
「恥ずかしながら、夜更かししちゃって…」
「へー、珍しいな」
取り敢えずの朝の挨拶を済ませたところで、桜乃はそのまま彼の横に立って歩き出し、相手もそれを許した。
「後ろからちょっと見てたんですけど、他の皆さんがやけに先輩を避けてましたから気になって…」
「ああ…まぁ、俺の目が赤いと大体の奴はビビッて避けてくんだよ。ったく、別に何もしねーっての」
寄って来た生徒全てに悉く逃げられてしまった現実が、思春期の心に多少なりとも傷を残したのか、切原はむっと不機嫌な表情を顔に刻む。
「うーん…暴走した時の切原先輩の恐さは学内でも有名ですからねぇ…障らぬ神に何とやら、じゃないんですか?」
「傷つくなー」
「で、その充血の理由は?」
改めて問われた質問に、切原は何とはなしに居心地悪そうに視線を横に逸らした。
「あ〜〜〜〜…まぁ…昨日楽しみにしていたゲームの新作が…」
つまり、彼も自分と同じく夜更かし組だったという事か。
結果は同じでも、何となく一緒に並んでいるとは思いたくない気もする……
「それ、自業自得って言うんですよ」
「ちぇっ」
びしっと厳しく指摘した後輩に何も言い返せず、若者は拗ねたように舌打ちし、相手の少女は仕方がないという様に優しく笑った。
「でも、早く治すに越した事はないですね…あ、これ試してみます?」
「へ?」
桜乃が差し出したのは、彼女が愛用していた目薬だった。
「最近出たばかりで、凄くよく効きますよ? ひや〜ってして気持ちいいし、宜しかったら」
「お、マジ? 助かる〜」
早速受け取って、若者は器用に歩きながら自分の目にそれを点してみた。
「くお〜〜〜っ! すっげ効きそうだな〜! あーでも、何か爽快感あって気持ちいいかも」
目薬によってもたらされる冷感が眼球を直撃しているのか、僅かに身体を震わせながらぎゅーっと瞳を閉じた若者は、それでもその感覚を楽しんで笑っている。
どうやら新作の目薬は、お気に召した様だ。
「でしょ? 刺激は強いですけど、それがクセになっちゃうんですよ。眠気覚ましにもいいし」
「あー確かにそうだな。どっから出てるんだコレ? 俺も買おうかな〜」
そんなこんなで、二人はそれからも目薬の話に花を咲かせつつ、仲良く登校した。
朝錬があるので、彼らは学校に到着してそのまま部室へと向かったのだが、そこには先輩達が既に到着していた。
「おう、お早うさん竜崎…どうしたんじゃ、目がウサギさんじゃよ? 泣いたんか?」
最初に桜乃の目の異常に気付いた仁王が心配そうに彼女を覗き込むと、彼の発言を聞いた他の男達も何事かと集まってきた。
「へ、どれどれ?」
「わ、本当だ、どうしたの!? おさげちゃん」
「えへ、昨日夜更かししてしまいまして…ちょっと充血してるだけですよ」
ジャッカルや丸井が興味津々といった様子で尋ね、それに桜乃は笑って答える。
どうやら泣いた訳ではないらしいと一度は安堵したものの、それからも先輩達は彼女を気遣った。
「もしかして、私の貸した本で…?」
「あ、はい、凄く面白かったからつい…もう少しだけ貸して頂けますか? 柳生先輩」
「勿論です。そんなに焦らなくても宜しいですよ。楽しんで頂けているならこちらも嬉しいですけれどね」
ほんの少しだけ申し訳なさの滲んだ笑顔で柳生が答える脇では、部長である幸村が桜乃の赤い目を覗き込みながら声を掛けた。
「本当に大丈夫かい? ビタミン剤ぐらいなら持ってるけど、飲む?」
「あは、平気です。身体は全然元気なんですよ」
そんな感じで、桜乃が身体を労わられている一方で、同じく目が充血している二年生の切原は、完全に無視状態。
「……」
ぽつねん…と取り残された二年生エースは、納得いかないといった表情で物申す。
「竜崎にはそんだけ甘いくせに、俺の赤目はまるっと無視ですかい」
「お前は昨日、新作のゲームが出るとはしゃいでいただろう。俺でなくとも今日の赤目は十分に予想範囲内だ。はっきり言って気に掛ける価値もない」
ノートを片手に、参謀である柳は相手の苦言を一刀両断。
一分の隙もない突っ込みに、切原はぐっと言葉に詰まり…はぁ〜っと溜息をつきながら窓越しに青空を見上げた。
「…俺、赤目封印しようかな……」
「その前に人生を改めた方が、世間は優しくなってくれるかもしれんぞ」
優しくなるつもりは毛頭ないのだろう副部長の真田が、さっくりと止めを刺す。
「う〜〜」
自業自得…なんだろうけどここまであからさまだと…と落ち込んでいた切原のところに、たたーっと桜乃が寄って来た。
「切原先輩?」
「ん?」
ひょい、と桜乃は相手の目を覗き込み、ちょっと心配そうに首を傾げる。
「あー、やっぱり先輩の方が酷いですよ? 充血」
そう言うと、桜乃は一度は返してもらった目薬を再び切原へと手渡した。
「ん…」
「これ、使って下さいね。大事なお身体ですから、ちゃんとケアしないとです」
返すのはいつでもいいですからね、と断り、少女はマネージャーの仕事をやるべく離れていく。
その姿を見ながら、切原は掌に少女の心遣いを乗せたまま、暫く無言だったが…
(…ま、いっか)
こいつに気にかけてもらえたなら、と機嫌を直し、目薬をぎゅっと握り締めた。
了
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