食べられちゃった?
「ZZZZZ…」
「あらら…丸井先輩、ぐっすりですねぇ」
「ああ、ここまで寝てるのは確かになぁ。赤也ならともかく…」
「ちょっと桑原先輩、人を引き合いに出さないで下さいよ」
或る日の放課後、桜乃がテニス部の部室を訪れると、三年の丸井が机に突っ伏して爆睡している現場に居合わせてしまっていた。
丸井は、辺りが自分に注目している事も知らず、すやすやと安らかな寝顔の一部を晒している。
今はまだ部活が始まっている訳でもないので咎められる事はないのだが、程なくレギュラーの三強も来るだろう。
そうなると彼らから…特にあの厳格な副部長から「たるんどる!」と一喝されることは必至。
ここに先に来ていたジャッカルや、仁王、柳生、切原達も部活を始める準備を着々と始めているし、そろそろ起こしてあげた方が彼への優しさかもしれない。
「最近また、新しい創作菓子のレシピを考えていたからなぁ…単に寝不足なんだろ」
「クリエイティブな趣味も大変ですよね…でも、気持ちはよく分かります」
先輩の可愛い寝顔を覗き込み、くすくすと笑っていた桜乃だったが、いつまでもそのままにしておく訳にはいかないと、丸井を起こしにかかった。
「丸井先輩、そろそろ起きて下さい。部活、始まっちゃいます」
「ん?…うう〜〜〜〜ん…」
軽く肩に手を置いて揺らされても、丸井はなかなか起きる気配を見せない。
「丸井先輩ってば、真田先輩に叱られちゃいますよ?」
「んにゃ〜〜〜…そこは粗熱とってから、ZZZZZ…」
「夢の中でもお菓子作ってる…」
仕方ないですね、と仁王達と顔を見合わせて苦笑していた桜乃が、改めてゆさ、と彼の肩を揺すると、いきなり丸井がむんずとその腕を掴んできた。
「え…?」
目が覚めたのかな?と見遣っても、相手の瞳は依然閉じられている。
そう、彼は目覚めた訳ではなく、まだ夢の狭間にいた。
夢の中で、丸井は自分で創り上げたお菓子を前にして狂喜乱舞していた。
現実の時間ではほんの十数分であっても、夢の中ではそれより遥かに長い時間彼は努力していたのだ、尤も、製作過程は現実より遥かに手際よく、ハイレベルに進行しているのだが。
そこは流石に夢の都合よさといったところ。
しかし、当人の丸井は一切それには気付いていない、まぁ目覚めていないのだから当然の話。
目覚めない彼が夢想のお菓子たちを前に、これだけ努力して創り上げたのだから、それらの味はまた格別だろう、と正に味見をしようとしていた時に、彼の鼻腔に甘い香りが漂ってきた。
運が悪かったのは、丸井が覚醒しないまま、僅かに嗅覚だけが戻ってしまった事だった。
微かに甘い香りを漂わせているのが、お菓子などではなく、桜乃の腕だったなどとは知る由もなく、丸井はいよいよ味見に取り掛かる。
「うにゃ…いただきま…」
「はい?」
はぷ……っ
「……」
他の部員が見守る中で、桜乃は、見事に丸井から右腕に噛みつかれてしまった。
あまりに予想外の出来事に、桜乃だけでなく他の部員達も硬直すること数秒間…
『きゃあああああああああああああああっ!!!!!』
少女の悲鳴が響き渡ると同時に、男達の慌てふためいた怒声と物音が部室の外まで響き渡った。
『わ〜〜〜〜〜〜〜っ! 丸井〜〜〜〜〜〜〜っ!!』
『殴れっ! いーから殴れっ!! とにかく竜崎から引き離すんじゃっ!!』
『切原君っ!! そっちの腕を押さえて下さいっ!』
『り、了解っす!!』
どったんばったんと賑やかな物音が聞こえた後…そこには不気味な程に静かな沈黙が戻る。
何が何やら分からないまま、頭に数発の拳骨を受けてしまった丸井が突っ伏してダウンしている向こうでは、ショックの真っ只中にいる桜乃を部員達が取り囲んでいた。
「…あうう…歯型ついちゃった…」
「ま、まさか俺以外でコイツの噛み付き攻撃を受ける奴が出るとは…」
ぐすん、と鼻を鳴らしつつ、自分の腕にくっきり残ってしまった歯形の跡を桜乃が眺め、ジャッカルが呆然としている向こうでは、仁王や柳生達が非常に珍しくぜーはーと息を切らし、肩を大きく上下させていた。
「お、おっどろいたのう〜〜〜〜…マジで竜崎が食い殺されるかと思ったぜよ」
「わっ、私としたことが、激しく取り乱してしまいました…失敬」
「そりゃそーでしょ…」
切原もげんなりしてそう返していたところに、遅れて来た幸村達が怪訝な顔をしながら部室へと入って来た。
「やぁみんな…どうしたの? さっき、凄い声と物音が聞こえてきたけど…」
「通行人が飛び上がっていたぞ。あまり変な騒動は起こすな、テニス部の沽券に関わる」
流石にあれは外にまで筒抜けだったか、と思いつつ、ジャッカルはぴらぴらと片手を振った。
「いやぁ…ちょっとな。竜崎のヤツが丸井に食われそうになったんだ。ま、未遂だったが」
『…………』
(あれ…?)
何だこの沈黙…と思ったジャッカルが、はっ!とその言葉の別の意味に気付いた時には、まだ硬直して動けないでいる副部長や参謀を他所に、幸村が丸井に歩み寄ってぐい、とその肩を掴んでいた。
「短い付き合いだったね、ブン太…最後ついでにちょっとこっちにおいで」
柔らかな物言いだったが、背筋も凍るほどの迫力…
激怒しているのは間違いない!
「うわあ〜〜〜〜んっ!! 何かよく分からないけど行きたくない〜〜〜〜〜っ!!」
ぞわっと身の危険を感じて鳥肌を立てている丸井が叫ぶのと同時に、部員達が慌てて弁解に走る。
このままだと、今度は丸井の命が危なくなるかもっ!! いや、冗談でなくっ!!
「うわあああ、そのっ! 食べるというのはそういう意味じゃなくてっ!!」
「そういう意味なんじゃが、そうではないんじゃよな…」
「何をどう説明したらいいものか…」
ようやく金縛りから自由になった真田達が、周囲の説明にそれでも理由が分からんと一様に渋い顔をする。
「…何を言っとるんだお前ら…」
「本人の為には自首させた方がいいのではないか?」
どうやらまだ何かを誤解しているらしい副部長と参謀に、切原は疲れ切った表情で首を横に振った。
「えーと…そうじゃなくてですね…」
正直、桜乃が丸井に噛み付かれているのを見た時点で心臓がでんぐりがえってしまい、既にかなりの疲労感を催していたのだ。
何で部活を始める前からここまで疲れなければいけないのか…もう今日はこのまま帰りたい気分だ。
「…どういう事?」
いまだに怒りを完全には抑えきれていない様子の幸村が尋ね返してきたところで、ジャッカルは仕方がないと、桜乃の問題の腕を取り、ひょいっとそれを掲げてみせた。
「…………」
そこに残っていたのは、くっきりとした歯型の跡…
暫く沈黙した部長は、そこでようやく真実を悟ったのか、がっくりと脱力した様子で項垂れた。
「何でウチっていつもいつも……」
こういう下らない騒動には事欠かないんだろう…
「うん…まぁ何だ…スマン」
自分には非がないが、つい相棒の行動を詫びてしまう、何処までも苦労症のジャッカルだった……
その後、当然ながら部室内は居眠り禁止となり、もし寝ている者がいたとしても、桜乃に限っては自衛の意味も含め、仁王が何処かから持ってきたハリセンで文字通り叩き起こすという鉄則が出来たのであった……
了
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