二つの顔を持つ兄貴


「は〜〜〜〜あぁぁぁ」
 その日も、無事に一日が過ぎていくにも関わらず、ジャッカル桑原は深い深い溜息を思い切りよくついていた。
 無事に過ぎたは過ぎたのだが、今日もまた彼は結構な精神力をごっそりと削られていたのだ。
 主に、二年生のテニス部の後輩と、同じくテニス部の同学年の相棒によって。
 向こうは日々自由に学生生活を謳歌しているのだが、どうかそれは人に迷惑を掛けないレベルでやってもらいたい…とこれまで何度も口を酸っぱくして言ってきたし、今もそれは現在進行形で進んでいるのだが、向こうは一向に改める素振りもない。
 この生活が続く限り、自分の神経は日々かつお節の如くしょりしょりと削られていくに違いない…
「ああ…入学した時にはとても良い学校だってことで楽しみにしていたってのに…いや、まぁ、概ねは満足してるが、あいつらはどうにも…」
 苦悩をつい口に出しながら、ジャッカルが到着した駅の改札口を抜けて、家へと向かう為の電車に乗ろうとした時だった。
「おーにいちゃんっ!」
「お…っ」
 乗り込むと同時に後ろから左腕に縋りつかれ、ジャッカルは多少身体を揺らしながら背後を振り返ると、それまで憂い顔だったそれを笑顔に買えた。
「おう、桜乃」
「えへへー、偶然だね! お兄ちゃんも今帰りだったの?」
「ああ、お前もか?」
「うん!」
 ジャッカルをお兄ちゃんと呼ぶ桜乃という少女は、その言葉とは裏腹に明らかに彼とは肌の色が異なる。
 明らかに純粋な日本人の容姿である少女は、それを全く気にする素振りも無くジャッカルを兄と呼び、相変わらず腕に縋りついていた。
「お兄ちゃんもお疲れ様、今日も部活大変だった?」
「いや…そんなコトはないが」
 そう言った兄の言葉に、桜乃はすぐに反応し、笑顔を微かに曇らせた。
「……またお兄ちゃん、いじめられたの?」
 兄としては不本意な表現に、ジャッカルは渋い顔をしながら相手の発言を否定する。
「桜乃…俺はいじめられているワケじゃなくてだな…」
「じゃあなぁに?」
「………ちょっと虐げられているだけで」
「同じだよね」
 と言うより、重大性は更に増している様な……
「ぐ…」
 言葉を詰まらせる相手に桜乃はふぅ、と軽く息をつき、ようやく彼の腕から離れて吊り革に掴まりながら提案をした。
「じゃあ…お兄ちゃん、帰りがけにちょっとだけゲームセンター寄らない?」
「は? ゲーセン? な、何で?」
 いきなりそういう事を言い出した妹に、兄は少し驚いた表情をした。
 普段の生活では、一番そういう場所には縁遠い筈の相手なのだが…?
「イライラ、もやもやしているならぱーっと発散するのが一番だよ? あそこにあるパンチングマシーンでスカッとしない?」
「…パンチングマシーンねぇ」
 繰り返してみて、ジャッカルは妹の提案に前向きな様子を見せる。
 人に当たる事が出来ないからこそストレスが溜まっているのであって、確かに機械相手でも殴ってすっきりさせられるのなら、それもいいのかもしれない。
「お兄ちゃんは人に人一倍気を遣うから気疲れも大きいんだよー、ここは一つ、鬱憤を晴らすつもりでどうでしょう?」
「そうだなぁ…そうするか…」
 うん、とジャッカルが頷いた…瞬間、
「ひ…っ!」
 いきなり桜乃がひきつった声を上げながら、びくんっと身体を逸らせて硬直した。
 その怯えた表情と様子から、兄は即座に事態を把握し…

「くおらぁっ!!! 俺の妹にナニさらしとんじゃワレェ!!!!」

 怒声を上げると同時に、振り返って桜乃の背後に密着していたサラリーマン風の男をしたたかに殴りつけていた。
 ぎゃっと声を上げる向こうに構わず、ジャッカルの正義の鉄拳は一向に止む様子はない。

「桜乃に痴漢たぁいい度胸だーっ!! 畳の上で死ねると思うなよテメェ――ッ!!」

「ぎゃああああ!!」
 それからはぼこぼこどかどかとひとしきりジャッカルの独壇場。
「お、お兄ちゃん、ちょっと落ち着いて…」
 それから次の駅に到着して、不届きながらもずたぼろになってしまった痴漢男を引き摺り下ろし、駅員に引き渡した時にはジャッカルは、今までの鬱々とした表情から一転、すっきりとした笑顔だった。
「ああ、桜乃」
「はい…?」
「今日はもういいやゲーセン。何かスッキリした」
「…うん、だろうね」
 あれだけ暴れたら、それはもうストレスなんか吹き飛ぶだろう。
 自分が痴漢に遭う度に、何度も兄には助けてもらっているが、もう少し穏便に出来ないのだろうか…
 学校で謳われている温和な性格とは程遠い所業を見る度にそう願うのだが、向こうは妹の自分が災厄に遭っているとなるとどうにもブレーキが利かなくなってしまうらしい。
 お陰で通学途中の各駅の駅員さん達ともすっかり顔なじみになってしまったし…陰では『ラテンのシスコン』と呼ばれているとかいないとか…
「普段の生活でも、今の少しでも厳しさを見せたら環境も変わるかもしれないのに…」
「うーむ…俺もそうは思うんだが、なかなかなぁ…知り合いに迷惑掛けられないっつーか」
 はっはっは、と呑気に笑う兄は、先程の彼とはもうまるで別人だった。
(殆ど二重人格よね…)
 一度兄の暴走姿を、彼のストレスの元凶の人達に見せたら、向こうの考え方も改まってくれるかもしれないが、兄自身はそれを望んでいないんだろう。
 何だかんだ言って、気に入っている『仲間』らしいから。
「もう…」
 仕方がないと、桜乃は乗り直した電車の中で、ジャッカルの腕にぎゅっと縋りついた。
「何があっても、私はずーっとお兄ちゃんの味方だからね」
「お、おう…」
 この時点で、ジャッカルの神経のかつお節が見事に復活。
(こいつがこんな良い子でいてくれるだけで、俺、あと十年は頑張れる…っ!)
 言い換えたら、当人の寿命があと十年ということになってしまうのだが、ジャッカルは気付いているのかいないのか…
 どっちにしろ、よく出来た妹を持った、不幸にとりつかれた男は、しみじみとささやかな幸せを噛み締めていた……






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