心のリップクリーム


「寒くなったね…そろそろ準備がいるかな」
 そんな言葉を幸村が呟いたのは、ある一つのドラッグストアでのことだった。
 そこには同じ立海テニス部レギュラーメンバーも来ており、彼らはある一画で興味のある品物に目を通していた。
 見ているのは、スキンケア関係のアイテム…ハンドクリームとリップクリームである。
 日本の冬は乾燥する季節でもあり、外で部活動を続ける以上、それによる多少の弊害は若者達も受けている。
「手が荒れたりしたらそれだけで気になるよな」
「ああ、ラケット握る感覚にも関わるし、かなり気分が滅入るのう…」
 ジャッカルや仁王が熱心にハンドクリームの見本を取っては眺めている一方で、幸村が眺めているのはリップクリームの方だった。
「買うのか? 精市」
「うん、寒風に晒されているとどうしても唇が切れたりしてね…そうなる前に予防はしておきたいから」
 真田の質問に答えながら、彼は各種あるリップスティックを眺めて、その種類の多さにはぁと溜息をついた。
「でも、適当に選べばいいと思っていたけど、ここまで種類があるなんて…全然知らなかったよ」
「男性用などで括られていたら数も少ないが、ここはどうやら男女のものを一緒に並べている様だな…女性のものは実用性と同等にお洒落の面でも重要視されるらしい」
「ああ…確かに、落ち着かない色合いのモノも多いよね」
 勿論自分はピンクだのグロスだのやたらと洒落っ気の強いものではなく、無色でシンプルな物を買い求めるつもりだが…
 そう思っていたところで、彼は或るコーナーを見て視線を留めた。
「へぇ…香りつきのものがある。アロマテラピー効果を狙っているのかな…チョコの香り?」
「チョコ!?」
 自分にとってのラッキーワードを聞きつけた丸井がひょこっと顔を覗かせてきたが、そんな相手に幸村は苦笑して首を振った。
「味は違うよ」
「ちぇー、香りだけかよい。味もしないのに何が楽しいんだろうな、生殺しじゃんかそれって」
「君とは違う楽しみ方をする人間もいるってことだね」
 リップを置いた部長はそれからも暫くコーナーを見ていたが、その内再び手を伸ばして別のを手に取った。
 本体がピンク色のリップ…そこにプリントされている絵柄は、日本人に馴染み深い花だ。
「桜の香りのリップですね」
「そうみたいだね」
 柳生の指摘に頷くと、幸村は薄く、優しい笑みを口元に浮かべて呟いた。
「そう言えば、あの子も桜の文字を持っているね。同じ様にこういうのを買ったりしているのかな」
「まぁ、好きそうではありますよね」
 切原がうんうんと頷き、それから少し考えていた幸村は、一度そのリップスティックを置いて…代わりに、同じシリーズの小さな丸ケース型のそれを手に取った。
 指で掬って、唇に塗りつけるタイプだ。
 敢えてそれを選んだ幸村に、あれ?と丸井がきょとんと大きな瞳を向けた。
「え? そっち買うの? 何か、面倒臭ぇじゃんか」
 スティックの方が簡単なのに、とそちらを勧める丸井に、幸村は首を横に振った。
「いいんだよ、こっちで……と言うより、多分みんなにとってもこっちの方がいいと思うんだけどな」
「???」
 結局、その時には相手の意図する事は分からず、メンバー達は部長の決断をただ見つめていた。



 それから数日後に、彼らが可愛がっている青学の生徒、竜崎桜乃が訪ねて来た時だった。
「あ、竜崎さん、丁度良かった。はいこれ」
「え?」
 幸村が相手に差し出したのは、あのケースに入った桜のリップクリーム。
 例のものか、と気付いたメンバー達もそれとなくそちらへと視線を向けた。
「わぁ! 可愛い! リップクリームですか?」
「冬は唇が乾燥するだろう? もし良かったら使ってよ。部室に置いていたら、ここに来た時にでも使えるし」
 若者に促されてそれを受け取ると、桜乃は心から嬉しそうな笑顔を浮かべながらそれを見つめる。
「綺麗なケースですね…あの、早速使ってみてもいいですか?」
「うん、いいよ」
 桜乃がケースの蓋を開けると、下ケースにピンク色のクリーム、上蓋の裏側には小さな円形ミラーが付けられていた。
「あ、いい香り〜…じゃあ早速…」
 わくわくしながら、桜乃は右手をクリーム上面に持っていくと、す、と少量を小指の先で掬い取った。
 そして他の指を曲げる形で、小指の先のクリームをゆっくりと唇に沿って塗ってゆく。
 その姿は、丁度浮世絵の美人が、鏡の前で朱を付けている様な姿で、妙に男心をくすぐる色香を漂わせていた。

(うっわ〜〜〜〜〜〜〜!!)

 男達は、その艶の漂う相手の仕草を見て胸を高鳴らせる。
(小指っ! 小指使ってる!)
(何であれだけの仕草がここまでそそるんだ!?)
(女っぽいっつか、超色っぺ〜〜〜!!)
 確かに…ただのスティックだったらここまで視線を奪われることはなかっただろう。
 切原達が心ではしゃぎまくりながら見ている中、唇にクリームを塗り終わった少女は改めて彼らへ目を向ける。

『…………』

 勿論その時には既に彼らはさりげなーい態度をとり、動揺をカモフラージュしていた。
「伸びもいいし、何より香りで癒されます。有難うございます、幸村さん」
「気に入ってくれて良かった。使ってね」
「はい!」
 幸村に感謝していたのは桜乃のみにあらず…
『グッジョブっす、幸村部長!』
『萌えさせて頂きました』
『目の付け所が違うのう…』
 そんな囁きに、幸村はこっそりと返す。
『じゃあ、良い思いをしたなら、その分、部活で返してよね』
『やるやる、そらもう喜んで!!』
 メンバー達が次々と部長に惜しみない賞賛を送る中、真田は微妙な表情で彼らを見守っていた。
「…」
「…思うぐらいは自由だし、気にするな」
「う…」
 内心、自身も少女の艶にやられてしまい、自己嫌悪に陥っていた副部長を、あっさり彼の心を読んだ参謀が慰める。
「まぁ、あれで暫くはみんなの心も潤うだろうね…」
 そして全てを企んだやり手の部長は、リップクリーム一つで部員のモチベーションを上げる事に成功し、こっそりと笑っていた……






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