ナイショの楽園
「今日は凄く暖かいですね…昨日の寒さが嘘みたいです」
「そうだね、もう春もすぐそこなんだね」
その日、朝練が終了した後、校舎に向かう途中で竜崎桜乃は部長である幸村精市と肩を並べて歩いていた。
肩を並べると言っても身長差はかなりのものなので、実際は段差があるのだが、二人の心に関しては段差など無い。
もう恋人と呼んでいいのではないかという睦まじさだが、今の処は先輩、後輩止まりらしい。
「こういう天気がいい日には、お洗濯を思い切りしたいです。後はお昼寝!」
「ふふ、どっちも気持ちいいだろうね」
少女の素朴な言葉に幸村は笑いながら、相手の朗らかな笑顔に密かに見蕩れる。
華奢ながらテニスに関しては妥協しない厳しさを持ち合わせている男も、桜乃の前でだけは年齢相応の若者だった。
「でも、お昼寝はいつも自分の机でなんですよね。うつ伏せて寝るからちょっと身体がきつくなったり…」
「ああ、成る程…」
桜乃の言葉を聞いて何度か納得の頷きを返していた幸村は、ふと何かを思い出した様に押し黙り、じっと考え込んでいたが、やがて桜乃にこっそりと囁きかけた。
「…ねぇ竜崎さん、いいこと教えてあげようか?」
「えっ?」
「ウチの学校の庭園の隅に、小さな温室があるのは知っているよね? 実はあそこの奥にはベンチが一つ置かれていて、丁度いい隠れ場所になるんだよ」
「えっ!?」
思わず声を大きくしてしまった桜乃に、幸村がしーっと人差し指を立てて沈黙を促す。
「ダメだよ、これは内緒の話なんだから」
「は、はい…すみません」
「…温室だから過ごし易いし、こんな天気の良い日にはお日様がぽかぽかと暖かく照らしてくれてね……何より、殆ど誰も来ない退屈な場所だから、こっそり昼寝するには絶好の場所なんだよ」
「はう〜〜〜…」
聞いているだけで極上の寝床が思い浮かび、桜乃はほう、と感動の溜息をついてしまう。
本当にそんな場所があるなら、今日みたいな日には最高の昼寝が経験出来ることだろう。
「…はっ」
我に返ると、恍惚の表情を浮かべていた自分を面白そうに覗き込んでいた幸村と視線が合った。
「あ、あう…」
「ふふ…どう? 良い話だろう? 竜崎さんだけに教えてあげる…誰にも内緒だよ」
「は、はい…っ…その、誰にも言いません」
「それでいいよ…じゃあね」
丁度校舎の前に着いたところで、幸村は軽く手を振りながら自分の靴箱がある門へと歩いて行ってしまった……
昼休み…
「…き、来ちゃった…お邪魔しま〜す…」
結局桜乃は誘惑には勝てず、早速朝に幸村に教えてもらった温室へと足を運び、こそっと中へ足を踏み入れていた。
ふわんと様々な花々の香りが混じりあい、鼻腔へと流れ込んでくる。
温室の保たれた温度に加え燦燦と差し込んでくる日光が、身体をすぐにでも弛緩させるような、抗い難い心地良さへと誘ってくる。
(うわー、本当にぽかぽかであったか〜い…奥にベンチがあるんだよね?)
こそこそこそ…と進んでいくと、確かに優しい先輩が教えてくれた通り、白いベンチが置かれていた。
温室の中には自分以外誰もいない。
(いいかな…ちょ、ちょっとだけ…誰も来ないって話だったし…)
そう思いながら、桜乃はベンチの端にちょこんと腰を落とし、ゆっくりとそのまま身体を横へ倒し、上体を横たえた。
ベンチは固いが、身体を横に出来る分机に突っ伏すよりかなり楽だ。
何より心地良い陽射しと気温が、瞬く間に少女の抵抗を封じ込め、眠りへと誘う。
「ふわぁ……きもちい…」
すぅ…っ
極上のベッドに横になった様に、桜乃はすぐに瞳を閉じ、心地良い夢の世界へと堕ちていった…
少女が眠りに堕ちて、暫しの静かな時間が流れた後…またその場所に新たな訪問者が訪れていた。
「…ふふ」
幸村精市だった。
桜乃に温室の秘密を教えた若者は、ベンチを先に取られた事実にも構わず、嬉しそうに微笑みながら彼女へとゆっくりと歩み寄り、上からそっと間近へと顔を寄せた。
「……可愛いね、本当に疑う事を知らないんだから」
あの秘密を教えられた時…俺が何を狙ってそんな事を言うのか、君は考えもしなかったんだろう…
その寝顔を間近で見て、それを俺だけのものに独り占めしたい…
君と二人きりの時間を過ごしたい…ささやかだけど、俺にとってはとても大きな望みなんだ。
君が純粋だったお陰で、すぐに叶いはしたけれど…却って不安になっちゃったよ、他の性質の悪い狼達に襲われるんじゃないかって。
勿論、そんな事はさせるつもりはないけど…俺が、ね…
「…ね? 桜乃…」
あくまで起こさないようにささやかな声で話しかけた幸村だったのだが…
「…!」
「ん…」
その彼の目の前で桜乃がぱちっと目を開いた。
しかし大きく見開かれたのは僅かな時間で、それはすぐにとろん…と心持ち瞼が下がり気味になる…まだ身体が夢と現の狭間にあるのだ。
「…せんぱ、い…?」
寝起きの少女が上体を起こしながらこちらを見上げてくる姿は、幸村の心を激しく揺らし、それを縛っていた理性の鎖をあっけなく引き千切った。
ちゅ…
「…え…」
悪戯っぽく、鼻の頭にキスを落とされ、桜乃が今度こそぱちくりと瞳を大きく見開く。
「…おはよう」
驚く小さな眠り姫に、楽園の秘密の扉を教えた王子は、くすりと楽しそうに笑った。
そして、いらっしゃい…俺達だけのナイショの楽園に…
了
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