参謀のこだわり
柳蓮二は中学三年生であるが、その日常にはかなりこだわりがある。
そう言うと何かと固く聞こえがちだが、そうでないとどうしても許せない、という程のものでもなく、多少は柔軟に譲歩する思考も持ち合わせてはいる。
しかし、元々きちりとした性格や生き方の所為もあって、こだわりを完全に捨て去る事も出来ない様だ。
例えば、身嗜みには愛用の櫛は欠かせず、日常的に普段着には和服を纏う。
メモを取る時にも一般的なメモ帳などは使用せず、これもまた愛用の懐紙を用いたり。
計算も極力、電卓という文明の利器は用いず暗算でこなしている。
まぁ、こだわる事が出来るのは、彼の能力がそれを可能にしているというところもあるだろう。
とにかく、男子テニス部の参謀であり、時に達人とも呼ばれる男は、彼なりのこだわりをもって日々を堅実に生きていた。
「竜崎! こっちに来い!」
「は…っ」
或る日のテニス部朝練でのこと…珍しく、本当に珍しく、柳がマネージャーである竜崎桜乃に対して叱責を飛ばしていた。
それを見ていたレギュラーの切原が、ぎょっとした顔で、柳の許に小走りに駆けて行く少女を見つめた。
「ど、どうしたんスか…竜崎」
「…ちょっと居眠りしとったようじゃのう」
ぽつりと呟いた仁王に、同じくぎょっとした様子でジャッカルが聞き返した。
「居眠り!? 赤也じゃなくて竜崎だぞ!?」
「なーんかワザとらしいッスね、ジャッカル先輩」
「本当ですよ」
ジャッカルのまさか、という疑念に、柳生が答える。
「本当に僅かな時間でしたけど、ね…今日は朝から何となく眠そうな様子でしたから」
「け、けど、あんなに大声で怒って呼びつけることもないじゃんか…可哀相だよい」
話に加わってきた丸井の台詞には、明らかに同情の色が滲んでいたが、それには柳生がぴしりと断言する。
「遊びの部であればそれでも許されたかもしれませんが…ここは立海テニス部ですよ丸井君。彼女に指南する立場である以上は、参謀も甘えは許しません」
「う…」
言い返せない相手の意見に丸井が口篭ると、まぁまぁと仁王が苦笑してフォローした。
「まぁ、心配はいらんじゃろ。ああ見えて、参謀も竜崎のことは誰よりも気に掛けとる…それに、やり過ぎた場合は、ちゃんと部長と副部長も止めるじゃろうしな…」
仁王の言う通り、桜乃を呼びつけた柳の声が響いた瞬間、あの二人は微かにそちらを気にする素振りは見せたものの、そのまま柳の思うままに任せている。
これでは、自分達が口を出すこと自体が立海テニス部の在り方を否定する事になる、と、仕方なく静観するに留めた部員達が見守る中、柳はコートから目立たない部室の陰に桜乃を呼びつけて相対していた。
「…呼ばれた理由は分かっているな」
「は、はい…すみません!」
うっかりほんの数秒とは言え意識を手放してしまった己の甘さに、桜乃は真っ赤になりながら頭を下げて詫びた。
何を言っても言い訳にしかならない以上、何を言うつもりもない。
どんな責めが来るかと、覚悟はしながらも緊張の極みにあった少女の身体が小刻みに震えているのを見て、柳は言葉を一度切った後、やれやれと顔を背けながらぼそりと言った。
「お前…最近、非レギュラーの一年の練習時間を補習で削らせまいと、あいつの勉強を見てやっているだろう」
「っ!!」
誰にも内緒にしていた事をはっきりと指摘され、思わず桜乃が顔を上げると、どうしたものかと困り顔の柳の視線とぶつかった。
「…お前なりに頑張っているから止める訳にもいかない、しかし、他の部員の手前でも厳しく叱れない…困ったものだ」
「〜〜〜〜」
言わなくても分かってくれていた、理解してくれていた相手に、思わず桜乃がぼろっと涙を零すと、柳が慌てて相手に近づいた。
「りゅ、竜崎、何も泣くことは…! 俺は、お前に無茶をしてほしくないだけで…」
「す、みません…何か、急に…」
必死に涙を止めようとする後輩に、柳はさわ、と頭を撫でて気遣い…仕方ないと呟いた。
「…昼休みに、司書室に来い」
「はい?」
「お前の努力は分かるが、居眠りをした事実は宜しくない。そこに来たらお前に改めて罰を与えるぞ」
「…はい」
そして昼休みになり、桜乃は彼に言われるままに司書室に赴いていた。
昼休みの時間帯には、ここは殆ど無人となる場所だ。
(何だろう…片付けとかの労働奉仕をするのかな…)
いかにもありそうだな…と考えながら桜乃がノックをして中に入ると、既に柳がそこに居た。
部屋に誂えられたソファーの隅で座り、何かの文庫本を呼んでいる格好で。
「来たか、竜崎…こっちへ」
「はい……あの、柳先輩…私、何を?」
「ああ…まぁ座れ」
自分の隣を示した相手に、更に疑問は深まったものの、取り敢えずは先輩の言う言葉に素直に従う。
座っても…何の罰にもならないと思うんだけど…?
「そのまま…」
そっと肩に手を置かれ…た瞬間、桜乃はそのまま相手の腕に引かれ、彼の膝上に頭を乗せる形に横倒しにさせられていた。
「え…っ!?」
驚いて顔を天井の方に向けると、こちらを見下ろしてくる柳の顔が間近にあった。
「ちょっ…や、柳先輩!? 何です…!?」
「午後の部活に支障が出ない様に、当分、お前には昼休みにここで昼寝をする事を義務付ける事にした…それが罰だ」
「ええっ!?」
「命令した以上、それが完遂されているか俺には見届ける義務がある…だから俺も同席する」
「〜〜〜〜!!」
真っ赤になって声もない相手に、柳は淡々と述べた。
「適度な昼寝は、寧ろ身体にはいい影響を与えるという説もある…疲れているお前には必要なことだと判断した。安心しろ、時間が来たら起こしてやろう」
「で、でも…あのう」
罰と言うならそれは甘んじて受け入れるしかないが、これだけは…と桜乃が断った。
「わ、私なんかが柳先輩に膝枕させるなんて、失礼過ぎます…ば、罰なら、私、床にだって寝られますから…その…」
「……竜崎」
さわ…
「っ…!」
前髪を優しくかきあげて、更に間近まで顔を覗きこんできた柳は、罰を与えようとしている先輩とは思えない程に優しい目をしていた。
「俺は確かに罰と言ったが……これはお前へのご褒美だとも思っている」
「…ご褒美?」
「…いつも頑張っているだろう? お前は…俺が期待しているより遥かにな」
ぽんぽん、と優しく頭を叩いて、柳は少女を労った。
「…有難う」
「!」
罰を与えられ、しかし優しいご褒美と感謝の気持ちまで述べられて…
緊張もした筈だったが、それ以上にその相手の台詞を聞いた瞬間、桜乃の心はかつてない程に安らいでしまった。
柔らかな笑みを浮かべる若者が…自分を守ってくれるとても大きな存在に見える…
「……――――――」
それから罰の施行までは、ほんの数分で良かった。
すぅ…とやがて寝入った少女の寝顔を覗き込むと、柳は満足げに微笑み…しかしそれはすぐに自嘲のそれへと変わっていった。
「…参謀の名が泣くな」
常勝不敗がモットーの立海のテニス部参謀の座を担いながら、こんな甘い判断を下してしまうとは…参謀失格かもな。
けれど、仕方ない…
(出会ったのが…この娘だったのだから)
愛しい女性は、誰より何より優先させて、大事にする…それは決して譲れない。
他のこだわりはどうとでもなる、しかし、この子の代わりは誰もいない、誰もなれない…
だから、この『こだわり』だけは…何があったとしても捨てられない。
(…いつか、お前に話せる時が来るだろうか?)
参謀としてではない…一人の男としてのこの想いを…伝えられる時は、来るのだろうか?
その時が訪れる事をせめて心で願いながら、柳はずっと、己に身を委ねてくれる少女を、愛おし気に見守っていた……
了
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