兄の特権
「お前も少しは日本に戻っての生活に慣れた様だな」
「はい、景吾お兄様」
跡部景吾の妹である跡部桜乃が、外国の修道院からこの国に戻って来て一ヶ月近くが経過していた。
今日も、朝の跡部邸では、跡部と桜乃が同じ食卓について優雅な朝食の一時を過ごしている。
桜乃が、本来は世界の『お嬢様』が通う世界有数の豪華な教育施設に入る筈が、ちょっとした『手違い』で、やたらと庶民的な場所に間違って入れられてしまい早十年近く。
躾や教育に関しては問題ないレベルだったのだが、残念ながらその生き方はセレブとは最も縁遠いものになってしまっていた。
最近ようやく跡部の事を「お兄ちゃん」ではなく「お兄様」と呼ぶ様にはなってきたのだが、まだまだ贅沢には慣れない様子ではある。
そんな不憫な妹を、跡部は幼少時の頃からそうであった様に溺愛というレベルで可愛がり、世話を焼いていた。
普通なら邸にわんさといるメイドや執事に任せるべきところでも、桜乃に関する事だけは自分が極力執り行えるように務めているのだ。
誤った場所に行き、セレブとしての教育を受けられなかったのなら、この兄が責任を持ってこれから教育をやり直さなくては…というのが彼なりの言い訳なのだが、真偽の程は不明である。
そして桜乃の方はと言うと、彼女もまた幼い時からかなりのお兄ちゃんっ子だったので、日々の躾は厳しくても跡部の事を純粋に尊敬し、慕っていた。
「食事は済んだか? お前は昔から身体が弱かったんだから、しっかり食えよ」
「はぁい…でも大丈夫、もうお腹一杯」
けぷ、と満足げに答える桜乃の言葉を受けて、跡部はかたんと席を立った。
「そうか、じゃあ学校に向かうか」
「はい」
今、桜乃は跡部と同じ学校、氷帝学園に通っている。
その為彼らはいつも二人揃って通学しているのであるが、流石に富豪の子供達であり、通学、下校方法は高級外車による送迎によって行われていた。
但し、下校については自分で歩いて帰る方法も選択は可能である。
「学園内で困った事はないか? あったら俺が何とかしてやるからすぐに言え」
「うーん…」
車内での一時は、学校に着いたら別れなければいけない妹と共に語り合える貴重な時間でもある。
現在、氷帝学園の生徒会長でもある跡部は、妹に助力出来る事はないかと彼女に尋ねたが、生来が無欲で遠慮深い少女は少し考えた後で首を横に振った。
「大丈夫です。私ももう氷帝学園の生徒なんだし、他の皆さんと同じ様に学園生活を送らないと」
「そうか…」
「…………」
「? 何だ?」
さっきからじーっとやたらとこちらを見つめてくる妹の視線に跡部が問うと、向こうは遂に我慢出来なくなったとばかりに、徐にその手を伸ばしてきた。
「!?」
同時に、かなり近くまで接近してきた妹に、どきっと心を衝かれた跡部の動揺には気付かず、桜乃が触れてきたのは彼のネクタイだった。
「ん、もう…景吾お兄様ったらまたネクタイを緩ませて…」
「あん? 別に構わねぇだろうが、このぐらい」
「ダメ、景吾お兄様は凄く格好良いんだから、だらしなくしてたら勿体無いもの」
「フン…この程度で俺の価値が下がる訳がねぇだろう」
「も〜う…」
憎まれ口を叩いたものの、妹からの手放しの評価は悪いものではない…と言うか実はかなり嬉しいものだった。
きゅきゅっとネクタイを締めなおしてくれる妹の顔を間近で楽しみ、学園に到着すると跡部は上機嫌でテニス部の朝練へと向かって行ったのだった。
昼休み
「あ、景吾お兄様。皆さんもご一緒なんですね」
「あっ、跡部妹だ」
「桜乃さんですよ、跡部さん」
廊下を歩いていた桜乃は、その日は偶然にも兄と彼と同じテニス部レギュラー達とばったりと出くわしていた。
「何だその跡部妹ってのは」
「じゃあ桜乃ちゃんでいい? なら喜んで呼ぶけど、俺」
「……」
向日の妹に対する呼称について本気で悩んでいる跡部を他所に、早速忍足が桜乃へ声を掛けた。
「こんにちは、お嬢ちゃん。お散歩か?」
「はい、今日は天気もいいので…あら?」
にこにこと朗らかに話していた少女が、ふと跡部を見て、たたっと傍へと走り寄ると、再び彼女の手が相手の首元へと伸びた。
朝に閉めなおしていたネクタイがまたも緩んでいたのだ。
ここまで派手に崩れているなら、自然とそうなったのではなく、跡部本人が手を掛けて緩めてしまったというのが真相だろう。
「んもう…また!」
「ちっ…」
舌打ちはするものの、行為そのものは止める様子もなく、跡部は妹から再びネクタイを締めなおしてもらっており、彼らの甘い光景を他のメンバーは微妙な表情で見守っていた。
兄妹という事を分かっているから傍観出来るが、それでもかなりのアツアツぶりで見ているこちらが恥ずかしい…
「はい、これでよし、と。今度はちゃんと締めててね?」
「ああ……あまりお前もフラフラするなよ」
「はぁい」
そして、桜乃は兄と彼の仲間達に丁寧に会釈をして、その場を後にしたのである。
ところが、それ以降も跡部のネクタイを緩める癖は一向に改善の兆しすら見せることはなく、学内でも邸内でも、彼女に見つかっては締め直されるという事を繰り返す様になった。
「…流石にラブラブ過ぎるんちゃうか、跡部」
「何の話だ」
あれから数日後、陽射しが地良く降り注ぐテラスで、跡部は忍足と共にコーヒーを楽しんでいた。
跡部の首元は…やはりネクタイが緩められたまま。
今日の朝だって、あの少女に締めなおされているところを忍足はしっかりと目撃していた。
「そら、ネクタイ緩めとったら、その都度可愛え妹さんからやさし〜く直してもらえるもんなぁ…大事な妹から世話されんのが嬉しい気持ちは分かるで」
「別に今から始めた事じゃねぇだろうが…ただの癖だ」
忍足の指摘に、跡部はつーんとつれない態度。
誰が直すか、という声まで聞こえてきそうである。
しかし、それは予定の範疇だったのか、親友は特に相手の対応を非難することもなく…ただ、はぁ、と一つ大きな溜息をついた。
「お二人さんが仲良うするんは勝手やねんけどなぁ…それ、あんまり慣れすぎたら、後で自分が辛くなるんやで? 跡部」
「あん?」
「自分、どうやら重要な事実を忘れとるみたいやからなぁ」
「…何だそれは」
コーヒーカップをかちゃりとソーサーに置いて、帝王が相手に尋ねると、彼は肘をつきながらその重要な事実をびしっと指摘した。
「いつかはお嬢ちゃんは嫁に行って、そうなるとお前やのうてダンナ様のネクタイを毎朝締める事になるんやさかいな…」
ばしっ!!
五分後、同じくテラスに来た向日は、そこに一人座っていた相棒の姿を見つけて近づいていった。
「…うっわ! 侑士、どうしたんだ!? その派手な手形っ!」
向日が示したのは、忍足の片頬に見事にくっきり残った赤い手形。
誰かが派手なビンタをかましたのは疑いようがなく、忍足はうーむと深刻な表情をしている。
一体何があったというのか…
「…ち、痴話喧嘩?」
「……予想以上に辛い現実を教えてもうたらしいわ…」
「は?」
「拳で殴らんかったのは、せめてもの友情なんやろうな…やっぱり」
「???」
忍足を引っ叩いた後、帝王はさっさと無言でその場を離れてしまったが、彼の背中に凄まじい哀愁が漂っていたのは気のせいではないだろう……
多分、これから暫くは部活も荒れるな…と思いつつ、忍足はひりひりと痛む頬に手をやって溜息をついていた……
了
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