おさがり
「あ、あの色のシャツいいな」
「ん?」
その日、テニス部の活動を終えての帰宅途中、とあるカジュアル店の前を通り過ぎようとしたところで、部長である幸村が足を止めて中を見入った。
そこに立てられていたマネキンに着せられていたのは、蒼の色が鮮やかな一着のシャツとクリーム色のジャケット、下はデニムのジーパン。
コーディネートよりも、どうやら若者はシャツ単品に興味が向いているらしい。
「…あの服か?」
指さした真田に、相手はそう、と頷いて小さく笑った。
「最近、服買ってないんだよね…今月ちょっと苦しいから、親に頼んでみようかな」
「そう言えば、新しいラケット買っとったのう、幸村」
「うん、凄く手に馴染んでね…衝動買いしちゃったんだ」
結構な出費だった筈だが、そのラケットに十分満足しているのか、幸村には後悔の色は見られない。
「けど、服ってこだわりだしたらキリないッスからね。女性のこだわりには流石についてけませんけど、やっぱ多少はお洒落にも気を使わないと」
「だな」
後輩の切原の台詞にはジャッカルも同意を示す。
「男兄弟がいた場合は、そのおさがりを貰うという事もあるでしょうけど、やはり自分とセンスが異なることもあるでしょうからね。「お古」を着るという事を嫌がる気持ちもあるでしょうし…」
柳生の台詞に、そういえば、と幸村が真田に話を振った。
「弦一郎にはお兄さんがいたよね。お下がりとか貰ってた?」
「確かに貰った記憶はあるが、俺自身そう頓着しない方なのでな、別に何と思った事はない、それに…」
昔を思い出し、彼は少々困った顔をして付け加えた。
「お下がりを貰ったところで、俺もすぐに大きくなって入らなくなってしまったからな。長く着た事がない分、思い入れもないのだ」
(納得…)
この人物の場合は確かにそうだな、と全員が例外なく思ったところで、柳がいつになく静かな丸井へと声をかけた。
「丸井は確か二人の弟がいたな。服の事で弟達からやっかまれた事はないのか?」
「ぜんっぜん」
長男であり、ほぼ間違いなく服に関してはお下がりを貰った事はないであろう丸井は、それにも関わらずやけに不機嫌な顔でそう答えた。
そして更に、吐き捨てるように言った。
「てか、あいつら贅沢し過ぎだってのい! いっつもいっつも俺のお古でイイ思いしやがってさー」
『???』
どういう意味だろうと他のメンバーが顔を見合わせていると、更に彼のやさぐれっぷりは増していく。
「俺だって欲しいやい、お下がり…」
「殊勝と言うか…あまり聞かない要求だな」
これは面妖なことを…と柳が首を傾げた時、ふと道の先を見た仁王が、そこにいた一人の子供に目を留めた。
「…おう、ありゃあ、丸井の弟じゃなかったかのう?」
「え…?」
向こうから歩いてくる小さな子供は、メンバーの中に丸井の姿を見つけると、たたっと真っ直ぐに向かってきた。
「あ、確かに弟さんだね。俺も何回か見かけた事があるよ」
幸村が頷いてそう言った時には、その子はもう兄の前まで走り寄ってきていた。
「よ、お前、こんな所で何してんだよい」
兄の問いかけに、その少年は誇らしげに胸を張った。
「おつかい!」
「これは感心な」
柳生が感嘆して相手を誉めている脇では、先ほどまで質問していた丸井が、何かに気づいた様子で相手の服をじーっと見つめていた。
この柄、どっかで見たことある…
「…おめー、その服って」
「桜乃おねーちゃんが、お兄ちゃんの昔の服から作り直してくれた! 今日出来たから、着てみなさいって!」
それもお下がりであることには違いないのだが、弟の方はまるで不満などない様に、にこにこと嬉しそうに笑っている。
対してそのお古の本来の持ち主だった丸井は、実に微妙な表情になっていった。
「あ、そ…桜乃が」
桜乃というのは丸井の妹であり、二人の弟達の姉でもある。
中学一年生でまだまだ子供っぽさは抜けていないが、家事は得意中の得意で、丸井家の大きな戦力になっているのだ。
円満な家庭環境の中でも、特に丸井はこの妹である桜乃を非常に可愛がっていた。
「ほう、仕立て直したのか、なかなか見事な腕前だな」
「本当に新品みたいだな。ちょっとゆとりがある様に見えるが、まぁすぐに大きくなるからそう作ったんだろうな」
真田やジャッカルも、誂えた様に見えるその服の出来映えを誉めた。
服と姉を褒められたことが嬉しかったのか、丸井の弟は照れくさそうにしながらも上機嫌で笑うと、ぺこんと一礼してまたどこかへと走っていった。
「…そのまま着せられるんじゃなくて、ちゃんとサイズを合わせたりデザインを変えてもらったら、そりゃあ嬉しいじゃろうな」
「新しいのを買うよりずっと安上がりですもんね。洋服代も馬鹿にならないし、親御さんもかなり助かってるんじゃないスか? 丸井先輩…」
切原がそう言ったものの、相手はそれに答える事もなく…
「うわ―――――んっ!! ちび達のばっか手作りして桜乃のバッキャロ―――――ッ!!」
凄まじい言いがかりをつけて、嘆きながらその場から走り去っていってしまった。
「…無茶を言うな」
「多分聞こえてないッスよ、柳先輩」
冷静に突っ込む柳以外のメンバーは、一様に「あーあ」という顔で哀れな丸井家長男を見送っていた。
「そういう事か…」
新品より、妹の手が入っているお古の方が羨ましかったという訳か…
「相変わらず、妹にベッタリなんだからなー」
まぁ、知ってはいたけど、とジャッカルが溜息をつく。
明日まであの不機嫌が続かないといいのだが、妹の事が絡んできたら、あいつは異常に執念深くなるからなぁ。
「ブン太の悔しさも尤もだけど…丸井家に買われた衣類は幸せだね」
その部長の言葉には、誰も否定の意は唱えなかった。
「ただいまぁ…」
「おかえりなさーい」
あれから傷心のまま街の中をぶらついた後に帰宅した丸井を、朗らかな女性の声が迎えた。
程なくして、一人のおさげの少女が玄関まで彼を出迎えた。
「遅かったね、ブン太お兄ちゃん」
「あー…まぁ男には色々と付き合いがあるんだよい」
「何だか浮気している人みたい」
「ほっとけい」
妹に罪はないのだが、どうしても弟たちへの「お下がり」の一件があるので態度が拗ねたものになってしまう。
「? あ、そうだ、お兄ちゃん。お夕食の前にちょっとだけ付き合ってくれるかな」
「ん?」
「うん、ちょっと」
桜乃に言われて、彼は特に支障もないので言われるままにリビングへと連れて行かれた。
「何かあんの?」
「これ、ちょっと着てみてくれる?」
「おう?」
差し出されたのは、これからの季節に重宝しそうな七分袖のシャツだった。
幾つかの種類の青系の生地を組み合わせ、縫い合わせて作成されており、見た目にも涼し気だ。
「おお、開襟シャツ…って、どっかで見た様な柄だけど…」
「バレましたか…ウチにあった服で作ってみたの。お兄ちゃんの寸法のものって今まで作ったことなかったから心配だったんだけど…どうかな?」
「!?」
え!?と一瞬信じられない様な顔をした丸井は、もしやと相手に尋ねた。
「え…じゃ、じゃあさ、これってもしかしてお前の手作り!?」
「手作りって言えば聞こえはいいけど…お古を手直ししたものよ。ちびちゃん達の分を作っていたら勢いに乗っちゃって、お兄ちゃんの分まで作っちゃった。新品じゃないけど、使ってもらえる?」
作ってみたはいいが、自分の兄ぐらいの年の若者は一番お洒落に気を使う年齢でもある。
もしかしたら、「そんなダセえの着れるか」と断られるかもしれないと、桜乃は内心はらはらしていたのだが…
「うん!!」
不満など微塵もなく、寧ろ大喜びの表情で丸井がこっくりと頷いた。
可愛い妹が縫ってくれたシャツともなれば、どんな高価なシャツも及ばない宝物である。
「うわ、すっげー嬉しいっ! 俺、お下がりって憧れてたんだー!」
意外な若者の反応に、桜乃は別の意味で驚いていた。
「お下がりに憧れるって…お兄ちゃんが欲しかったの? ブン太お兄ちゃん」
「野郎はもういらねぇ、弟たちで十分」
「???」
よく分かっていない妹を余所に、丸井は着てみた妹お手製のシャツの出来映えと肌触りに歓喜していた。
これ、今度遊びに行くときにでも着ていって、皆に自慢してやろう!
「サンキューな! 桜乃。またこういうの俺にも作ってくれよい! お前の手作りだったら、大歓迎だからさ!」
「? うん…いいよ?」
よく分からないけど、どうやら手作りのシャツは兄の気に入ったらしい…
(着心地が良かったのかな…綿百パーセントで揃えてはみたけど…)
どうしてそこまで喜んでくれたのかは、妹は今一つ理解出来なかったらしいが、それでも、とにかく丸井家はその日もすこぶる平和だった……
了
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