キスで我慢する


「おりょ、何だそれ?」
「はい?」
 或る日の立海テニスコート脇の通路にて、ジャッカルは素っ頓狂な声を一人の少女に掛けていた。
 相手は青学の一年、竜崎桜乃。
 彼にとっては学校は違えどテニスを愛する真面目な後輩…であると同時に、可愛くて愛しくて堪らない恋人なのだ。
 これまでの人生の中でのあらゆる不幸を、耐えに耐えつつ積み立てていき、ようやく手にした幸運の女神。
 苦労の連続で人生を呪ったことも一度や二度ではなかったのだが、今では桜乃を恋人に出来たのなら、それも安い代償だったと彼は心底思っている。
 運命は今までジャッカルを悪戯に翻弄してきたが、彼本人の性格は至って善良のまま育っており、恋人の事もとても大事にしているので、彼らの前途はそう暗いものではない。
 それに桜乃の素直で優しい心配りに触れて、ジャッカルの心労はかつてない程に大幅に軽減され、これもまた彼らに良いサイクルとして作用していた。
「何か白いのついてるぞ…?」
 その日も立海に足を運んでくれた恋人の制服に、ちらほらと見える白く細い繊維の様な物体を見つけたジャッカルが、指で指し示したついでにその内の一本を摘み上げた。
 部活動中は練習の邪魔をしてはいけないと桜乃も悪戯にメンバーに近づく事は控えているのだが、今は立海男子テニス部の活動は終了しており、その限りではない。
 ジャッカルも既にジャージから制服へと着替えを済ませており、後は桜乃と共に駅に向かうところだった。
「んん…動物の毛みたいだな」
 練習時には気付けなかった相手の異変だったが、ジャッカルはその視力の良さですぐに手にした物体の正体についてある程度の憶測を立てる。
 この柔らかさと形態から間違いない。
 何か思い当たる節はあるかと少女に視線を遣ったところで、相手はすぐに思い至ったのか、ぽん、と小さく両手を叩いた。
「あ! 多分、猫ちゃんの毛ですね」
「へぇ猫…あれ? お前、猫なんて飼ってたか?」
 そんな話は聞いたことがないが、と訝しんだ相手に、桜乃はにこにこと笑いながら説明する。
「いえ、飼い猫じゃなくて…今日ここに来る途中で、野良猫さんに会ったんですよ。意外と人に馴れてて寄ってきたから、つい少しだけ遊んじゃって…多分、その時に付いちゃったんですね」
「ああ成る程な」
 納得…と言いながら、ジャッカルは改めて相手の制服を眺めやる。
 この制服の地の色に白色の毛はよく見ると目立つ。
 それも、一本や二本という可愛い数ではないし…
「…結構、気合入れて遊んだか?」
「そ、そんなに付いてます?」
 どうしよう、とちょっと困り顔で自分の服を確認する少女に、ジャッカルが苦笑して軽く手を振った。
「んー、毛が白いからちょっと目立つんだろうな。まぁそれ程べたべた付いている訳じゃない。帰ってブラシをかけたらいいんじゃないか?」
「…はい、そうします」
 恋人の提案に素直に頷いて、桜乃はそれからも彼と一緒に並んで歩いた。
「猫か…可愛かったか?」
「はい! にゃんにゃーんって、可愛い声で鳴いてきて、抱っこしても逃げなかったんですよ」
「そりゃあ人馴れしてるな…本当に野良だったのか?」
「うーん…首輪とかしてませんでしたけどねぇ」
 流石に猫の言葉は分からないし、と首を傾げた桜乃に、ジャッカルが笑う。
 まぁ、この子なら飼い猫でも野良猫でも、危険が少ない人種という事ぐらいは分かるだろう。
 野性の勘というものはなかなか侮れないものがあるのだ。
 どんなに表面を取り繕ってみても、野性は本人の本当の姿を見抜いてしまう。
(桜乃相手なら、野良でも馴れるかもな……っとと)
 ふと、恋人を手放しで褒めている自分に気付いた男が慌てて自重する。
 別に悪い訳ではないのだが、ついつい贔屓目で相手を見てしまうのがやたらと恥ずかしいのだ。
 元々そういう傾向はあったのだが、今はそれを自覚する度に自分が桜乃の恋人である事も思い出してしまうので、更に恥ずかしさが増してしまうらしい。
 幸せに慣れていないというのは、厄介なことだ。
「…ジャッカルさんは、動物とか好きですか?」
「ん、ああ…嫌いじゃないぞ、別に」
「じゃあ猫ちゃんも?」
「んー、猫、ね…」
 問われ、少し考えた後に、ジャッカルは何故か哀愁の漂う背中を向けた。
「……嫌いじゃないぞ…俺の場合、黒いヤツばっか横切っていくけど」
「そ、そうなんですか…動物が好きなら、何か飼いたいって思ったりしません?」
 悪いコトを聞いたかと、桜乃は慌てて話の方向を修正する。
 あまり猫については深く語らない方が良さそうだ…
「ペットか」
「はい、ウチは両親がダメなんで、飼いたくても飼えないんですけど」
「そうだな、一緒にいたら癒されそうだが…」
 でも、無理だな、とジャッカルは残念そうにしながらも優しく笑う。
「両親は働いているから忙しいし、俺も今は学生で家にいない時間が多い…飼ったとしても、家で寂しい思いをさせるのは可哀相だろ」
「ああ…」
「それに、親父が今飲食店で働いているだろ? 働く場所が別としても、衛生面を考えるとやっぱりちょっと言い辛いさ」
「そうですか…ペットを飼うのも、色々と大変なんですね」
 しみじみと頷く桜乃に、ジャッカルは軽く肩を竦めた。
「そいつの一生を引き受けることになるんだからな、安易に考えるとどっちも不幸になっちまう……はは、飼いたくなったのか? 確かに犬でも猫でも、触れ合ったりしたらあったかくて癒されそうだ」
「ですねぇ…」
 そんな事を話している内に、二人は駅へと到着した。
 後は、桜乃が改札口を抜けるだけだ。
 今日は動物の話で終わってしまいそうだな、とジャッカルが思っていると、桜乃がくるんと相手へと振り返る。
「でも、飼えないのは仕方ないですから…ペットで癒されるのは今の処は諦めます」
「ふぅん…?」
「…その代わり、触れ合いは…」
 言いながら、桜乃の手がそっとジャッカルの頬に伸ばされ…
「?」
 触れられたかと思ったら、爪先立って伸び上がった少女の顔が近づいてきて…
 ちゅ…っ
「!!」
 え?と戸惑っている間に、若者は恋人から甘いキスを与えられていた。
 初めてではない。
 告白の時が初めてだったし、実はそれ以降も何度かは…
 それでも、こういう事をされてそのまま流せる程に、彼もまだ慣れている訳ではなかった。
「さっ…桜乃…!?」
 まだ動揺が抜けていない若者に、唇を離した悪戯な恋人がうふふと笑う。
「キスで我慢しますから…」
「〜〜〜〜!!!!」
 幸せに慣れていない性質なのに、男にとって極上の幸福をこれでもかと与えられてしまい、ジャッカルの心臓が悲鳴を上げる。
(神様っ! 幸せでも不幸せでも、俺の心臓はこれからもこんな状態なんでしょうかっ!!)
 もし本当に神様が答えてくれたら、『まぁそうだね』と言ったかもしれない。
 しかしそれを仮に聞いたとしても、ジャッカルは拒まなかっただろう。
 こういう幸せの中で死ねるなら本望…っ!
 いや、まだ死ぬ気はないけど…!!
「……そ、そか」
「はい…」
「お、俺も、お前が相手なら全然歓迎だぞ…って、はは、ナニ言ってんだろうな…」
 気の利いた台詞が思い浮かばないな…と照れ臭そうに笑うジャッカルを、桜乃も恥ずかしそうに笑いながら見上げていたが、いつまでも引き止める訳にもいかず、二人はそこで別れた。
「また、来ますね」
「おう…じゃあな」
 桜乃を見送った後、まだ顔が火照っているのを自覚しながらジャッカルも家路を急いだが、それから無事に帰宅するまで、彼の頭の中では将来の展望が次々と思い浮かんでいた。
(えーと…い、一緒に住むことになったら、飼うなら犬がいいのか…それともやっぱ猫…? となるとやっぱ家は庭付き…って、幾ら何でも気が早すぎるっつーの! ああでも妄想が止まんね〜〜〜!!)
 ジャッカルが慣れない幸せを持て余す日々は、これからも当分続きそうである。






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