その兄、危険につき
午前六時…
「お兄ちゃん、朝〜」
「ん〜…」
ゆさゆさ…と心地良い肌触りの布団の上から身体を揺すられ、氷帝学園三年の忍足侑士は夢の世界から現実へと意識を引き戻されていた。
「んん…何や?」
「何や、じゃなくて朝ですよー。早く起きないと遅刻だよお兄ちゃん」
「…桜乃?」
寝惚けていた若者が、うっすらと開いた眼で起こしにきてくれた妹の姿を確認すると、彼はゆっくりと上体を起こしつつ枕元の目覚まし時計を見遣った。
確かに普段起きる時間だが…今日は少々眠気が強い気がする…よく見ると無意識で目覚ましのアラームも止めてしまっていたらしい。
「ほんまや…」
「昨日はずーっと跡部さんと長話していたでしょ。夜更かしは身体に良くないよー」
兄とは対照的にもうすっかり制服に着替えた妹は、自慢の黒髪もきっちりおさげにまとめ終わり、いつでも出かけられる状態だった。
忍足が今年三年生に進級すると同時に、の桜乃は兄と同じ氷帝学園に入学し、現在は兄妹で寮住まいである。
普通、寮生活は男女別になっているのが通例なのだが、彼らの場合は血の繋がった兄妹ということで、特例ということで同居しているのだ。
実はそこに至る過程の中で、忍足が学園内で一番の権力者である生徒会長に根回しして認めさせたという裏の噂もあるのだが、真偽の程は明らかではない。
とにかく、妹の桜乃が入学して以降、兄の侑士の生活管理は殆ど彼女に任されていると言っても過言ではないだろう。
「ほら、起きて。朝ごはんももう出来てるよ」
妹に促されてベッドから起きだした忍足は、ベッドサイドから取り上げた愛用の眼鏡をかけつつ、優しい声で相手を労った。
「ああ、おおきにな。桜乃はほんまにええ子や、よしよし」
ぎゅ〜っ
言葉と一緒にハグのおまけ付き。
学園内でも屈指のイケメンである忍足からこんなコトをされたら、普通の女子は鼻血モノの卒倒モノである…が、流石に妹である桜乃はそこまで激しいリアクションは見せない。
「んもう…早く着替えないと本当に遅刻だよ? 跡部さんに叱られても知らないからね」
「はいはい…手厳しいなぁ」
苦笑したものの、妹の台詞は確かに真実だったので、彼女がいなくなった自室で忍足は手早く着替えを済ませ、続けて洗面所で身嗜みも整えると、リビングに向かった。
二人で住むには十分すぎる程の広い間取りであり、施設そのものも新しく快適な寮は桜乃にとってもお気に入りであるらしく、普段からこまめに掃除もして清潔さを保っている。
朝の陽射しも清清しい、そんな心地良い空間で忍足はまったりと妹と一緒に朝食を食べると、彼女と一緒に学園へと向かった。
「おー、侑士、お早うっ!」
「岳人、おはようさん」
「あ、桜乃ちゃんもお早うっ」
「お早うございます、向日さん」
二人が学園の正門をくぐったところで、彼らは丁度同じく登校してきていた知り合い達と合流した。
部長である若者だけは通学形態が異なる為にその場にはいなかったが、忍足の所属している男子テニス部のレギュラー達だ。
中でも忍足とダブルスを組んでいる向日は、いつもの様に元気溌剌で二人に駆け寄って一番に声を掛けていた。
「相変わらず一緒に登校かぁ、ホント仲がいいなぁ」
「そうですか?」
向日の発言に桜乃が首を傾げている脇では、忍足がふんと鼻を鳴らし早速反論。
「アホ。今の物騒な世の中やから、桜乃みたいな女の子はちゃんと普段から気ぇつけなあかんのやろ。俺が傍におったら、不審者とか誘拐犯もおいそれとは手ぇ出せんからな」
「まぁそれもそっか」
確かに確かに…と向日が納得してうんうんと頷いている間に、皆が学園の校舎へと続く道が幾つかに分かれている箇所に差し掛かる。
「じゃあお兄ちゃん、ここで」
「ん、気ぃつけて行くんやで」
兄達はこれからコートに向かって朝練の為、桜乃はここで別れての移動になる。
ばいばい、と手を振った妹に忍足はうんと頷きながら…
「ほな、勉強頑張ってな」
ぎゅ〜っ
再び、激励とハグのおまけ付き。
「うん、お兄ちゃんもね」
けろっとした表情でそれを受け入れている桜乃とは逆に、彼らを見ていた他のレギュラー達は一様に微妙な表情を浮かべている。
「…どちらかと言えば、忍足先輩の方が危険と言うか…」
「言うな長太郎」
「ここは見ない振りをするのが上策ですよ」
宍戸が相棒の鳳から敢えて視線を逸らしつつ言い放ち、同級生の日吉も芥川を抱えながら忠告する。
しかしどんなに彼らがスルーしたところで、確かに第三者視点で言えば忍足が一番不審者に見えるというのが事実には違いなかった。
そして昼休み
忍足がいつもと同じく仲間達とテラスでのんびりと休み時間を過ごしているところに、丁度桜乃が通り過ぎようとしていた。
どうやら女子の同級生達と一緒にお弁当を食べた帰りらしい。
「お、桜乃」
「あ、侑士お兄ちゃんだぁ」
他の女子達は、きゃあきゃあと小さく騒ぎながらも彼らに寄る様な素振りは見せなかったが、兄の呼びかけに気付いた桜乃は何気なくとことこと彼らの許へと寄って行った。
知己の妹、ということもあるのだろうが、忍足以外のメンバーも特に桜乃が寄ってくるのには何ら嫌悪感や抵抗はないらしい。
「忍足の妹か」
「跡部さん、こんにちは」
朝には会えなかった、生徒会長である跡部が桜乃に声を掛け、彼女はペコンと相手に礼をする。
「寮住まいはどうだ?」
「はい、とても快適です。あんなに広い場所を借りられるとは思ってなくて…大事に使わせて頂きますね」
忍足の傍にいると跡部の人となりを見る機会も多い所為か、桜乃は相手の尊大な態度にも何ら動じる事無く朗らかに会話を交わしている。
そんな妹を見ていた忍足が、ふと彼女の手にしていたランチボックスを見て眉をひそめた。
「何や桜乃…たったそれだけしか食べてへんの?」
「うん、ちょっとダイエット中」
えへーと小さく舌を出した相手に、跡部が訥々と真面目に注意した。
「必要ないと思うがな…お前は今でも十分に痩せている部類に入るぞ」
「そうですよ、あまり食べないのは身体によくありませんよ」
「俺もそう思うなぁ〜〜〜…」
鳳や芥川も同調したところで、兄である忍足が桜乃にぴしりと言った。
「俺も同感やな…ちゃんと食べるものも食べんと、却って身体壊すで、桜乃」
「う〜〜、でもぉ…私がぶくぶく太った身体になっちゃって、お嫁の貰い手がなくなっちゃったら困るじゃない? 大丈夫、ちゃんと必要分のカロリーは摂るようにするから」
「……」
一つの妥協案を示して、桜乃は友人を待たせていることもあり、その場はそのまま立ち去ってしまった。
「……跡部」
「あん?」
妹を遠くに見詰めながら、忍足は何処か暗い感情が入り混じった声で相手に言った。
「めっちゃ美味くて、鬼の様にカロリーがバカ高いケーキを作ってくれんかな…」
「そういうのを猿の浅知恵ってんだよ」
何考えてんだ、と跡部は即座に相手の希望を却下する。
もしかしたら、こいつの妹との同居を許可したのは誤りだったかもしれない…と、帝王が珍しく思い悩む或る日の昼下がりだった。
了
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