ご主人様の密かな苦悩
本来の設定は完全無視のパラレルですのであしからず!!
早朝、聞こえてくる歌声…
遠くから聞こえてくるその声は小さい、とても小さいものだったが、旋律は流れる小川のせせらぎの様に滑らかで耳に心地よい。
「――――ん…」
うっすらと瞳を開き…帝王がその眠りから目を覚ます。
数回瞬きをしてからその家の主である跡部景吾はゆっくりと上体をベッドから起こし、大きく身体を伸ばした。
「…朝か」
呟く若者の耳に再びあの歌声が聞こえてくると、彼はそれが聞こえてくるドアの向こうへ視線を向け、微かに口元を歪めた。
「……アイツもいつも通りか」
それ以上は何も言う事はなく、彼は未練もない様子でさっさとベッドから降りると手早く氷帝学園の制服を身につけ始める。
高貴な生まれの人間は衣類の着脱ですら召使い達にやらせるそうだが、この若者は他人に己の隙を見せる事を嫌っており、そんなだらけた行為は一切行わない。
ものの数分としない内にびしっと糊が効いた制服を纏った跡部は、学生鞄を持つとそのまま廊下へと出た。
「…あ」
廊下に出たところで、帝王の起床に気付いた一人の召使が、廊下を掃いていた箒を持つ手を止めた。
「景吾様、お早うございます」
「いつも精が出るな桜乃、感心だ」
「お、恐れ入ります」
おさげが長い、黒のメイド服に身を包んだ少女は、主人の褒め言葉に恐縮して頭を下げる。
先程までの廊下から聞こえてきた歌声の主は実はこの少女である。
朝の掃除の時に歌うのは彼女の癖であるらしいのだが、まさか自分の声が今や跡部の目覚まし代わりにもなっているなど、この召使いは知る由も無い。
「食堂に行く、鞄を持て」
「え…きゃっ」
ひょいっと投げられた鞄を慌てて受け止めた少女は、行き場を失い廊下に倒れた箒とそれとを交互に見比べながら跡部に訴える。
「あ、あの…私まだお掃除が…」
「何度も言うがここでは俺が法律だ、掃除は他の奴に任せろ」
「あう…」
雇い主に言われては仕方がない。
桜乃は急いで箒をその場の柱の陰に立てかけると、ぱたぱたと跡部の後をついて歩き出した。
「全く…お前は俺の傍に付いてさえいりゃいいんだよ。余計な仕事まで背負い込むな」
メイド本来の仕事をド外視した主人の発言に、相手の桜乃の方がぶんぶんと首を横に振る。
「そ、そんな訳には参りません。私はこのお屋敷のメイドですから、お仕事もちゃんとしないと!…氷帝の様な立派な学校にまで通わせて頂いているのに…」
尤もな、見上げた言葉を紡ぐ相手の唇を軽く振り返る形で眺め、跡部はその視線を前へ戻しながら答えた。
「ふぅん…つまらねぇなぁ」
「?」
その時前を見直した跡部の視界には、見慣れている廊下とはまた別に過去の光景が広がっていた。
広い部屋の中に並んだ二つの棺。
その前に座っている一人の幼い少女。
白と黒の二色しかない、そんな淋しい世界の中で、必死に悲しみと不安に押し潰されまいと耐える姿は、痛々しいの一言に尽きた。
『あの若さで、子供を残してとは…気の毒に』
『あの子はどうなる…?』
『遠くに親戚がいるという話もあるが、まぁ施設に入れられるんじゃ……』
小声で話しているつもりなのだろうが、子供の自分にも筒抜けだ、いや、子供だからと侮るが故に聞こえる声で話しているのか…
それから何があったのかはよく覚えていない。
気付いたら少女は振り返り、真っ赤な目でこちらを見ていた。
自分は少女の前に立ち、彼女の手を握っていた。
多分、あの時自分は…同席していた親に言ったのだ。
『この子、欲しい』
と……
それから大人の世界の話はよく分からなかったが…彼女は、桜乃はあれから自分の屋敷に来て、やがて住み込みのメイドとして働き出した。
決して無法に酷使している訳ではない、そもそも彼女はまだ義務教育課程にあるので、しっかりと然るべき教育も最高の環境で受けさせている。
(…養女に迎えるって話があった様な気もするが…はん、後のゴタゴタを考えると難しかったんだろうな。まぁ今はそれで良かったと思うが)
妹も悪くはないが…自分が求める彼女との絆とは違うものだ。
「…なぁ桜乃」
「はい?」
不意に呼びかけた帝王は、相手の返事を聞いた後でふっと振り返り、薄い笑みを浮かべた。
「お前は、俺の事を『景吾』と呼ばねぇのか…昔はそう呼んでただろう」
まだお前がここに来たばかりの時は…俺の名前を何度も呼びながら、後ろを必死について回ってたじゃねぇか…
「!」
そう指摘された桜乃は、真っ赤になってしどろもどろに弁解する。
「あっ…あの頃はっ、私子供で、自分の立場を分かってませんでしたからっ…! 景吾様は私のご主人様ですから…そんなの、いけません…!」
「…ふん」
そりゃ、他のメイド相手なら、そんな事は絶対に許さないがな…と、跡部は鼻を鳴らしつつ前を向くと、小さな声で囁いた。
『…俺は、お前をメイドだなんて思ったことは一度もねぇぞ』
メイドが欲しくて、あの時にお前の手を握った訳じゃない。
お前をここに残す為に、やむを得ず今の立場に置いた事も理解しているし、だからこそこうしてそう振舞っている。
それでも…たまにどうしようもなくイラついてしまう時がある。
一番傍にいる筈なのに、触れられないもどかしさに。
「…はっ、本当につまらねぇな」
吐き出すように囁かれた帝王の言葉は、誰にも理解されることなく聞かれることもなく、朝の空気に溶けて消えていった…
了
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