心と瞳に潤いを


「もうすぐ春…とは言え、まだ冷える日は辛いなー」
「結構空気も乾燥してるしな。湿度が低いと、寒さが厳しくなるってことだから」
その日は非常によく晴れた一日だったが、テニスコートに立つ丸井とジャッカルは吹き付ける乾いた風に肌を晒され、軽く身を震わせていた。
 部活動では身体をよく動かしている練習中は身体は温まるのだが、次の練習を待つ休憩時間が厄介だ。
 休みたくはあるのだが、その間に汗が身体の熱を奪い、身体を容赦なく冷やしてくる。
 勿論、すぐにタオルで身体を拭くなどの処置もとってはいるが、襲ってくる風の前では寒さを完全に防御出来る術はない。
「軽い運動なら汗もかかないけど、やっぱ柳のメニューは俺らでもキツイよな〜」
「今更だろ…はぁ、早く次のメニューやりてー」
 いつもなら少しサボる事も考える丸井だったが、今は身体を暖める方が先決とばかりに、軽くその場でスクワットを始めていたが、その時二人に誰かから挨拶の声が掛けられた。
「こんにちは、丸井さん、桑原さん」
「ん…あっ! おさげちゃんだ!」
「おう、竜崎、久し振り」
 振り返った二人の視線の先には、違う学校の制服を纏った、おさげの少女。
 彼女…竜崎桜乃は立海と同じくテニス強豪校の青学の一年生女子だが、彼女はごく普通の初心者テニスプレーヤーである。
 無論、強豪校のレギュラーを張る彼らとは比べるべくもない少女だが、そういうものは全て抜きにして、若者らは彼女の人となりを非常に気に入っており、見学に来てくれるのを楽しみに待っているのだ。
「久し振り! 元気だったかい!? おさげちゃん」
「はい、皆さんもお元気そうで何よりです」
 以前会ったのは然程昔でもないのだが、それでも丸井は寒さも忘れた様子で桜乃との再会を喜び、ジャッカルもまた彼女に向ける瞳は優しげだ。
「今年は特にインフルエンザとかが酷くて…皆さんは大丈夫だったみたいですね」
「ああ、一応、そういう予防はウチの参謀にもしっかり言われているからな…部室は部室で常にうがい、手洗いは励行、室内にも加湿器を置いて、ウィルスへの暴露は極力防ぐようにはしているんだ」
「流石ですね」
 ジャッカルの説明ににこりと微笑んだ桜乃に、丸井がにっと意味深な笑みを見せる。
「…どうせ青学の奴らも同じコトしてるだろい?」
「あはは、バレましたか…でも、思ってるだけじゃなくてしっかり実践しているところは青学も立海も凄いと思いますよ」
 いつも素直に自分の気持ちを伝えてくれる少女の言葉に、くすぐったそうに二人が笑いながら身体を揺らしていると、コートの向こうから、あの厳格な副部長の声が聞こえてきた。
『レギュラーは集合! 別メニューについて説明を行う!!』
「っととと…何だよい、いいトコロだったのにさ」
「愚痴るな愚痴るな、遅れると今度は雷だぞ」
 相棒を軽くたしなめて、行こうと促した後に、ジャッカルは桜乃に断った。
「ああ、アンタはここでゆっくり見学していてくれ。ボールには気をつけるんだぞ」
「はい、お二人とも、行ってらっしゃい」
 微笑んで彼らを送り出した後、桜乃はいつもの様にコート脇で邪魔にならないように気をつけながら、立海の練習を見学していた。


 レギュラーの集合後はまた新たなメニューの説明のみであり、それが終わるとまた彼らは解散したのだが、丸井達から桜乃の来訪を聞きつけた切原が、先ず真っ先に彼女に会いに行った。
「あ、いたいた…りゅうざ…」
 走りよりながら声を掛けようとした彼の口が、途中で止まり、その表情もぎょっとした驚きのそれへと変わっていく。
(え…?)
 あいつ…泣いてる…
 やや伏目がちになった桜乃の瞳から透明の雫が一筋、ぽろりと零れ落ちたのを、切原の目は見逃さなかった。
 それに、彼女自身が既にポケットからハンカチを取り出しているので、見間違いでも勘違いでもないだろう。
 相手が何かを悲しむのは心苦しい…が、その涙を流した瞬間の桜乃の姿に、切原はどき、と胸を衝かれてしまった。
 しかし何とかその動悸を抑え、相手にも気取られないようにしながら遠慮がちに改めて呼びかけた。
「あ、あのさ…どうしたの、竜崎? 何かあった?」
 その時初めて切原に気付いたらしい桜乃は、ハンカチを持ったまま相手に振り向き、潤んだ瞳のままに明るく笑った。
「あ、切原さん。大丈夫、違うんです、ちょっと目が乾いちゃって目薬点したんですよ」
「あ、ああ…」
 ほら、と少女が見せてくれたのは、確かに乾き目などに使用する市販の点眼薬だった。
 どうやら誤魔化しという訳でもなく、本当に目薬を点したらしい。
「な、何だ、そっか…なら良いんだ。ちょっとビックリしてさ」
「ゴメンなさい…まだ空気が乾燥してるから、よく点すんですよ」
 心配させた事を謝られた切原は、それから少し話した後で練習へと向かって行ったのだが、内心は良いモノを見られたと大はしゃぎ。
「――――ってコトがあったんスよ〜」
「あーっ! いいなーいいなー! 俺もそれ見たかったーっ!! ずりーぞ赤也、俺にもその記憶よこせいっ!」
 ちょっとしたタイミングのずれで見損ねてしまった丸井は、自慢する後輩に悔しそうに騒いでいたのだが、その向こうでは他のレギュラー達が一斉に聞き耳を立てて、全員が不気味なまでの沈黙を守っていた…


 そしてその日の部活終了…
「お疲れ様でした、皆さん。今日も有難うございました」
「うん、君もお疲れ様、竜崎さん」
 結局、見学だけではなく、レギュラー達から打ち方の指導も受けた桜乃は、彼らが着替えた後の部室で改めて感謝の言葉を述べ、それからは和気藹々と歓談の時間を過ごしていた。
「……あれ?」
 不意に、桜乃が部屋の中で異変に気付く。
 いつも…この時期にここに来ていた時に見かけていたものが、消えている…
「…ここにあった加湿器、どうしたんですか?」
 ん?と首を傾げて尋ねた桜乃に、まるで前もって言い訳を準備していたかの様に部長の幸村が応えた。
「ちょっと調子悪くて、今は片付けてるんだ」
「そうなんですか」
 何気ないやり取りだったのだが…他の部員全員、二人から視線を逸らしている…切原を除いて。
(まさか……先輩方)
 今日の部活始まる前には、調子悪いどころか、がんがん元気にスチーム吐き出していたのに…
 一つ余りにも大きな思い当たる節があり、切原はこそっと部長に尋ねた。
「……仮病ッスか?」
「嫌だな、そんな事して俺達に何の利益があるって言うんだい?」
 応じる幸村の表情はあくまでもにこやかだ。

『竜崎のうるるんお目々が間近で見られるデショ』

(…なーんて言ったら、速攻でイップス掛けられるだろうなー)
 まぁ、別に実害はないだろうしいいか、と日和見な後輩が保身を選択している背後では、桜乃がいつ目薬を取り出すかと虎視眈々とその瞬間を狙っているレギュラー達がいた…






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