予約はお早目に
「こんにちは、赤也さん」
「お、桜乃じゃんか」
或る日、竜崎桜乃が立海を訪れた時、切原は丁度練習試合を終えて、火照った身体を冷ましつつ、缶ジュースを手にしていた。
それまでは、非レギュラー達の試合が行われているコートをぼーっと眺めていただけの若者だったが、彼女の姿を見かけた途端、その顔に笑みが浮かぶ。
それもその筈、彼女とは長いことテニスを通じた友人として付き合っていたが、最近ようやく想いを告げ、恋人同士になったばかりなのだ。
まさか、彼女と最初に会った時、ここまで夢中になるとは思っていなかった。
あの生意気一年ルーキーの傍にいた事もあって、最初の心証はそう良くもなく悪くもなく…しかし、何かとテニスの合宿や試合などで会って話している間に、彼女の素直で優しい人となりを見て、気付いたらいつも桜乃の姿を目で追っていた。
遠距離とも言えないがそう頻繁に会えるという距離でもなく、傍にあの生意気一年ルーキーがいることも常に切原をやきもきさせていた。
幸い向こうはテニスに夢中で、隣の少女のことなど気にも留めていなかったらしいが、それは切原にとってはラッキーだった。
正直、これについてだけは、向こうの朴念仁っぷりに感謝してやってもいいくらいだ。
最終的に桜乃を恋人にした若者は、今はそれを感じることが何より嬉しいのか、友人であった頃より格段に桜乃を可愛がり、自分もまた彼女に甘えまくっていた。
「何だよ、来てくれるならメールでもくれたら良かったのにさ」
「うふふ、ちょっとびっくりさせたくて…試合は終わったんですか?」
「ああ、今はちょっと小休止…ん?」
ふと、彼の目に留まったものがあった。
桜乃の左手の薬指に嵌められた…ビーズの指輪。
指輪そのものは別にいい、相手も年頃の女性だし、お洒落を楽しみたい気持ちも理解出来る。
しかし…それを左の薬指に嵌めるというのはどういうコトだ?
恋人の自分があげたものでもないのに…
「アンタ…それってさ…」
「え? ああ、これですか? 綺麗でしょ?」
相手に示されて指輪に目を向けた桜乃は、左手を掲げて相手に微笑みながら答えた。
「ここに来るまでの道でよく立ち寄る店があって、そこのお子さんが幼稚園で作ったものを『これあげるー、こんやくゆびわー』って、嵌めてくれたんですよ。今は男の子でもこういうの、流行っているんですって」
「………ふーん」
途端、むすっとした表情に変わった若者は、ぷしっとプルタブを開けてぐいっと中身を一気に呷る。
隠そうとしているのかそのつもりもないのかは分からないが…明らかに機嫌を損ねてしまった様子だ。
「…あれ? 赤也さん?」
「良かったじゃねーか、モテモテで。別に俺はどーでもいーけど」
つっけんどんに答える様子には、間違いなく拗ねた色が入っている。
これは間違いなく…ジェラシーというものだろう。
焼いてくれているのは正直嬉しかったが、その大人げのなさに、思わず桜乃は苦笑してしまった。
「相手、五歳の子ですよ?」
「あっそ」
「も〜う…」
お子様なんですから…と困った様に笑う桜乃を横目で見つつ、切原自身も己の幼さに呆れていた。
自分が彼女の恋人であるのは互いに認めていることなんだし、彼女が自分を慕ってくれているのも知っている。
ここは、『そうか、良かったじゃん、好かれて』と軽く余裕をもって答えるのが、より正しい返答の仕方だという事も知っている。
けれど、ダメなのだ。
桜乃のコトになると、どうしても感情の抑制が効かない。
相手が何歳であっても、誰であっても関係ない…戯れでも、彼女に婚約指輪を嵌めようだなんて行為は、認められなかった。
「……」
ちら、と再度見た桜乃の指には、まだあの指輪が嵌っている。
見ているだけでイライラは募り、その内切原は無言で自分が持っていた缶のプルタブをぱきっと折り取った。
「?」
そして、何をしているんだろうとこちらを見た桜乃の左手を無言で取り上げ、その薬指から問題の指輪を無理やり外してしまった。
「赤也さん…?」
「……」
それを自分のポケットにしまいこむと、代わりに彼は折り取ったばかりのプルタブを、彼女の細い薬指に嵌めた…まるで婚約指輪の様に。
「え…?」
「…お、オメーにはこれぐらいでいいんだよ。ったく…他の男に色目なんか使うなっての」
嵌め終わると、手を離してぷいっとそっぽを向いてしまった恋人に、桜乃は改めて断った。
「だから幼稚園児ですってば……でも…」
そして、嵌められたプルタブの指輪をじっと掲げて見ていた少女は、にこ、と心から嬉しそうな笑顔を浮かべてさわ、と、それに優しく触れる。
「…うふふ」
「な、何だよ、気持ち悪いな……たかがプルタブぐらいで…」
「赤也さんは、女心に関してはまーだまだですね」
「は?」
「…男性の方は分からないかもしれませんけど…女性っていうのは」
言いながら、桜乃はそのプルタブを心から愛おしそうに見つめていた。
「もしそれが好きな男の人から贈られたものであれば、例えそれがガラス玉だとしても、ダイヤもプラチナも敵わない、最高の宝石だと思うことが出来るんですよ…そういうものなんです」
「!……」
「だからこれは…私にとって一番の宝物」
臆面もなくそこまで言われ、却って切原が一気に赤面する。
「バッ…そ、そーゆー事を恥ずかしげもなく言うんじゃねーって」
「ヤキモチ焼きさんには、言わないと分からないでしょ?」
「……ちぇっ」
分かったよ、完敗だ。
ここまで惚れ込んだ相手なら、認めるしかないよな…確かにヤキモチだったって。
五歳にヤキモチ焼いてしまうぐらい…夢中だってこと。
(敵わねぇよな…ホント)
はぁ、と溜息をついて肩を竦め、お手上げだという相手に、桜乃はくすくすと笑って頷いた。
「…大事にしますね」
「好きにしなって、もう……ああ、けどさ」
投げやりな口調から、切原は少しだけ声を小さくして桜乃にだけ囁きかけるように言った。
「…いつか、もっとイイヤツやるからさ…アンタの指にぴったりの、キレーなヤツ」
「!!」
「だから、それまではソレで仮予約、な…」
俺以外の、誰の傍にも行くんじゃねーぞ
そんな若者の意志を汲み取り、桜乃は頬を薄く染めながら、こくんと頷いた。
「はい…」
そしてようやく機嫌を直してくれた気難しい恋人と、桜乃は幸せな逢瀬の時を過ごしていた…
了
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