懐に忍ばせるもの


「あ、いけない、切れちゃった」
 テニス部の活動の真っ最中に、マネージャーである桜乃はそう小さく呟きながら手持ちのメモ帳をぱらぱらと捲っていた。
 それはまだ買ったばかりのものだったが、中身は既に書き込みで一杯。
 それだけ、色々とやるべき事や学ぶことがあったという証だが、今はそんな事に思いを馳せている暇はない。
「うーん、新しいのは手許にないし…あ、柳先輩」
「竜崎? どうした?」
 丁度通りかかったテニス部の参謀である柳に、桜乃はこれ幸いと声を掛けた。
 柳は、指導は厳しい一面もあるが、それも自分を思ってくれての事であり、普段は非常に優しい先輩だ。
「あの、すみません…柳先輩、ちょっとメモ出来るもの、持っていませんか? 丁度切れてしまって…」
「ああ…」
 相手の言葉にすぐに納得した様子で、柳が手を伸ばしたのは自分のポケットではなく懐であり、そこから幾枚かの和紙を取り出して桜乃に手渡した。
「わ、有難うございます…これって?」
「懐紙だ。茶道などで使うものだが、一筆箋代わりにも使えるぞ」
 萌葱色の紙をしげしげと見つめていた桜乃が、それを日にかざしてみて楽しげに微笑む。
「ふわ、透かしまで入ってる…何だか使うのが勿体無いですね」
「俺はメモ帳を使うことはなくてな…癖でずっとこれを使っている。量は持っているから、要り様になったら言うといい」
「有難うございます、うわぁ…」
 きゃあきゃあと喜びながらそれを持っていった桜乃を、柳もまた、何処か嬉しそうに見送っていた。


 そんな事があってから、暫しの時が流れ…
 或る日、柳がいつもの様に何気なく校内の廊下を歩いている時だった。
『お前、ティッシュ持ってる?』
『ああ、ほれ……そういや、俺もこないだ持ち合わせがなかった時にさ、ウチのクラスの竜崎から、えーと、懐紙っての貰ったんだよ』
 ぴた…
 彼の敏感な耳が、通り過ぎた男子生徒二人の会話を拾い上げ、そこに自分の知己の名を聞き取った瞬間、柳は踵を返して彼らの背後を追いかけていた。
 しかし、声はかけず、あくまでも後ろにさり気なくついて会話を聞き取るだけ…
 どうやらその身体付きや容貌、会話の内容から、相手は一年生の様だ…
 しかも、あのマネージャーのクラスメート…か。
(またとない情報源だな…しかも聞かずとも向こうから喋ってくれるとは、ついている)
 向こうはまさか聞かれているとも知らず、相変わらず同じ話題で盛り上がっている。
『懐紙?』
『綺麗な和紙で茶道に使うものらしいんだ。あいつも誰かからの貰い物って言ってたけど…ああいうのさり気なく出す女性っていいよなぁ…何かこう、グッとくるってか』
『あー、確かに…それにアイツってよく見たら可愛いし。おさげも魅力の一つだし、素直で優しいし…結構狙っているヤツ、いるんだろ?』
『目立たないのになぁ、本人も気付いてないぜありゃ。懐紙を口実にアプローチしてみるか…ところで次の授業ってさ…』
「…………」
 別の話題に移ったところで最早聞く必要もないと、柳は追跡を止め、そこに佇む。
 しかし…得られた情報は予想以上に大きく、且つ、重要なものだった。
「…ふむ」
 これは…早目に手を打っておかなければ……


「わ、これ何ですか?」
 その翌日の放課後…桜乃は参謀から部活動を始める前に、一つの包みを受け取っていた。
 それ程に重いものではなく、彼女一人でも悠々持てるものだ。
 どうやら何かのアイテムが複数、まとめて入れられているものらしい…
 包んでいる包装紙にプリントされている文具の絵柄から察するに、それに因んだものだろうか?
「メモ帳、十冊」
 中身を覗く前に、しげしげと包みを眺めていた少女に、柳はさらりと正解を先に言った。
「これ全部くれるんですか!? 私に?」
「この間の様に、俺がいる時に限ってメモがなくなるとも限らん。いつでも補給出来る様に、これぐらいは持っておけ」
「すみません、気を遣わせてしまって…」
 恐縮するマネージャーに、しかし参謀は気にするなと優しく笑った。
「お前の部に対する熱意は褒められこそすれ、決して責められるべきものではない…俺はお前の教育、指導係として、それを応援したい。いつでも、頼ってくれて構わない」
「…はい」
 優しい言葉に、ほう、と幸せそうに微笑む桜乃は、確かにあの男子達が言っていた様に十分に可愛らしいものだった。
「…」
 その笑顔を間近で堪能した柳は、それから相手の頭を優しく撫でると、続けて彼女に一つの注意事項を述べた。
「それと、な、竜崎」
「はい?」
「もしお前に懐紙をねだる奴がいたら、俺の処に来る様に言っておけ…前にも言った様に、俺は手持ちがあるからな。そっちの方が手っ取り早いだろう」
 そのついでに、お前を狙っている不貞の輩の顔も確認出来るしな…というのは、勿論彼の心の中だけの言葉。
 触れさせるものか。
 自分が見ていない処で誰かが彼女と言葉を交わすことすら許せないのに、己が与えた物がその距離を縮めるなど…
 考えるだけで、震える程の憎悪に支配されそうだ。
「? はぁ、分かりました…でも、私も前回頂いた分、一枚を残して使ってしまいましたけど…」
「…一枚?」
 その言い方が気になって聞き返すと、桜乃は恥ずかしそうに俯いた。
「あ、あまり綺麗だったから、一枚だけ、家に大事にとってあるんです…その…柳先輩の心遣いが、篭っている気がして…」
 だから…何だか勿体無くて…
「!……」
 それは只の言葉であったのにも関わらず、柳の全身を耳を通じて一気に熱くした。
 その熱は脳髄にまで及び、彼の思考を激しくかき乱し、理性の箍を少しだけ外してしまう。
「…っ!?」
 気がついたら…桜乃は彼の腕の中にいた。
(え…)
 しかし…
 何…?と思っている間にその温もりはすぐに離れ、呆然とする桜乃を残し、参謀は無言で背を向け歩き去っていく。
(柳…先輩…?)
 背中を見つめる相手の視線を感じながらも、柳は振り返らない…振り返れなかった。
 今振り返ったら…きっとこの顔の火照りを視覚的にも見られてしまう。
(ああ、ダメだ…)
 抑えられると思っていたのに、出来なかった。
 あの子を求める気持ちが、誰にも触れさせたくないという願いが、止められなかった。
 隠したいのに…見られたくないのに…こんな浅ましい想いは…
(やはり、急がなければ…な…)
 醜い己を見られる前に、誰かがお前に近づく前に……
 その時、冷えた瞳の中に烈火の如き情熱を隠しながら、柳は心に決めていた。

(お前を、俺だけのものにしなければ…)






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