お前にやるよ
立海大付属中学校の昼は賑やかだ。
辺りに生徒達の明るい笑い声や、日常の取りとめのない会話が溢れ、そして彼らの学生生活の中でも大きな楽しみでもある様々な食事の時間でもある。
弁当持参の者もいれば、学校内にある学食でそれを買い求める者もいるが、その学食にも幾つかの選択肢がある。
それは学食内で定食や一品物を注文してそれを食べる場合と、別の一画で準備された弁当やパンなどを買って、思い思いの場所でそれを食べる場合。
その品質はいずれも高く、故にここ学食は昼休みが始まると同時に、生徒達にとっては一種の戦場となるのだ。
そんな或る日の昼の学食に、珍しく見る顔があった。
「ふわぁ…相変わらず凄く混んでるなぁ…」
一年生の竜崎桜乃は、遠巻きにパン売り場に群がる人だかりを見つめ、既に腰が引けていた。
しかし、今日ばかりは引いてばかりもいられない。
何故なら、ここで買うパンが、今日の彼女の昼食になるからである。
(はぁ…昨日、炊飯器のスイッチ入れ忘れちゃってたなんて迂闊…私もまだまだね)
確かに昨日は疲れていたけど、こんな初歩的なミスをしてしまうなんて…と、改めて反省するものの、いつまでもここで遊んでばかりもいられない。
早く行かないと、今度はパンすら逃してしまう。
しかし…相変わらず向こうは押し合いへし合いの大渋滞。
どうにもあそこに飛び込むには、前もっての気合と覚悟が必要なのだ。
「……よーし!」
十分な気合と覚悟を決めて、桜乃はいよいよ渋滞の中へと飛び込んでいく。
(きゃあああ〜〜、流される〜〜…!)
入った途端、凄い力であっちへこっちへと流されてゆく。
それでも必死に自分の舵を取りながら、桜乃はうんうんと必死に前に前にと人波を掻き分けて進んでいった。
何とか他の人達に迷惑にならない程度に力を込めて進行し、へろへろになりながらも桜乃は遂に獲物が見える位置にまで辿り着いた。
(……あっ)
丁度自分の目の前に見えたのは、魅惑のこげ茶色の円盤。
(わぁ、ラッキー、ここのカレーパン、美味しいんだよね!)
しかも、どうやら目の前にあるのは最後の一つらしい。
すぐに手を伸ばしたら取れる…と思った時には、自然と桜乃の手はパンに向かって伸ばされていた。
「よいしょ…」
ぱふっ
「もーらいっ!!」
むぎゅっ
『……』
桜乃の手とほぼ同時に、カレーパンを包装するビニルを掴んでいた誰かの手が伸ばされ、互いのそれが重なる。
(あ、一緒に取っちゃった…)
それを確認した時点で、既に桜乃の頭の中にはパンを取られてしまうだろうな、という思考があった。
別に卑屈になっている訳ではないのだが、自分の押しの弱さはよく理解しているのでこういう状況になった場合、先ず勝てた例がない。
過去の経験を基に考えていると、早速向こうの生徒らしい大声が聞こえてきた。
「あーっ! 俺が先に取ったんだからなーカレーパン!」
その声が響いた時、桜乃があら?と小首を傾げると同時に、周囲の生徒がざわっとざわめいた。
『あ、丸井先輩だ』
『相変わらず凄い食欲だよな…あの子じゃ勝てないだろ?』
どうやらその先輩は、この学食でも人気者らしい…
そして、桜乃もその人物には非常に覚えがあった。
「…あ、やっぱり丸井先輩でした」
「っ!! おさげちゃん!?」
まさかもう一人のライバルが桜乃だったとは夢にも思わなかった様子で、彼は売り場最前列で会った少女を見つめた。
「な、何でココに? 弁当は?」
「えへへ、うっかりしちゃって今日はパンなんです」
「へ、へぇ…」
答えを聞いたところで、二人の手が重なっている事に気付いた丸井がはっと微かに頬を染める一方、桜乃はその事実を認識する前に相手にパンを譲ろうとした。
「あ、私は他のにしますからどうぞ…」
「いっ、いいっ! 俺はいいから!」
しかし直前で丸井が自分から手を離し、所有権を放棄した事で、辺りがざわざわとざわめいた。
『ウソ! あの先輩が食べ物譲った!』
『何だよ、今日は腹でも痛いのか!? アイツ』
周囲の喧騒には気付かず、桜乃はえ…と手にしたカレーパンと丸井を交互に見つめた。
「え? でも…」
「しょ、しょうがねぇじゃんか、お前はちっこいし、ちゃんと食わないとさ…いいから貰っとけって」
何となく慌てている様子の若者だったが、桜乃はそれよりも本当に貰っていいものかまだ悩んでいる。
「…いいんですか?」
「うん」
「…じゃあ、お言葉に甘えますね、有難うございます」
「う、うんうんうん…」
そして桜乃が代金を払って人混みの中から抜けると、向こうからは再び…
『おばちゃーんっ! そこの焼きそばパンとチョココロネちょうだーいっ!』
と、あの若者の声が響いてきた。
(…いい人だなぁ、丸井先輩…)
自分もお腹空いてて好きなものを食べたかったんだろうに、それを後輩の自分に譲ってくれるなんて…
後輩だから…という理由だけではなかったかもしれないが、桜乃は純粋にそう感謝しながら一度はそこを立ち去ろうとしたものの、ぴたっと足を止めてその人混みの方を見つめていた。
「……」
そして、それから少しして丸井が本日の収穫を両腕に抱えて人混みから抜けると、その視線の先に、手を振っている桜乃の姿があった。
「え…? おさげちゃん?」
てっきりもう一年の教室に戻ったと思ったのに、と思って彼女の傍に寄ると、相手がにこ、と笑いかけてきた。
「あの…良かったら一緒にお昼ご飯食べませんか? 丸井先輩」
「え!?」
「お互いのパンをわけっこしたら、先輩もカレーパン食べられるかなって思って…どうですか?」
「マジで!? うん、食べる食べるっ!!」
相手の申し出に、丸井は殆ど頭では何も考えずに頷いていた。
正直カレーパンはもう諦めていたが、それ以上に嬉しいシチュが目の前に!
「良かった…じゃあ、行きましょうか」
「ん!」
そして二人は互いの教室ではなく外の中庭の一画に移動して、美味しく昼食を食べ始めたのだった。
「じゃあ、はいどうぞ、丸井先輩」
「サンキュ! あ、おさげちゃんも俺のパン、何でも好きなものつまんでいいからよい」
「うふふ、有難うございます」
陽気も暖かで吹く風も優しく、空腹以上に相手の笑顔が何より最高の調味料になる事を、この日丸井は初めて学んだ。
その日の昼食は二人にとって、いつもよりとても楽しく、そして美味しいものだった…
了
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