偽りの休日
「柳さん、こんにちは」
「竜崎…今日も見学か?」
「はい、立海の練習は見ていても凄くためになりますから…今日のメニューは何ですか?」
春休みのある日、青学の二年に進級が決まっている竜崎桜乃は、休日を利用して、その日も元気に立海の男子テニス部の見学に訪れていた。
元レギュラーだった三年生…今はもう卒業している若者達だったが、この休みは彼らにとってもひたすらに暇なものであるらしく、今までと変わりなく活動に参加している。
但し、あくまでも後輩達の補佐や指導という役目に退いてはいるが。
それはこの参謀と呼ばれた若者も例外ではなく、彼はいつもの様に愛用のノートを片手に持ちながら、部員全員の状態をくまなくチェックしていた。
「今日は昨日に引き続いて、筋力トレーニングを重点に置いたメニューだ。新年度にもなるし、身体という資本を見直すには良い機会だからな」
「なるほど〜」
やや細字の整った文字が羅列されたノートを、桜乃がひょこ、と覗き込んでふむふむと頷き、覗き込まれた若者は、近づいた相手の素顔を間近で見つめながら微かに笑う。
卒業する前から、レギュラーの中でも特にこの男は桜乃に目をかけており、彼女の疑問にも懇切丁寧に答えていた。
その為か、桜乃も自分の意見や答えが正しいのか、誤った方向へ向いてはいないか、柳に相談を持ちかける事もしばしばだった。
そんな二人の姿は傍目から見ても非常に睦まじく、今日の練習中も結局桜乃はずっと柳の傍に付き添い、相手もまたそれを許していた。
「……ああ、そうだ竜崎。明日はここに来る予定があるか?」
もうすぐ練習が終わろうかという時、徐に柳がこう切り出し、桜乃はきょと、と目を見開いた。
「明日ですか? え? でも、明日は活動そのものがお休みだって切原さんが…」
それを聞いていたから、当然来るつもりはなかった少女に、柳が実は、と小さな声で言った。
「明日はいつもより特殊なメニューを組んでいるのだ…お前さえ良ければ、一緒にどうだ?」
「えっ?」
初耳の情報だったが、桜乃はそんな相手の台詞にぴくんと反応を示した。
特殊メニュー…??
何だろう、何だろう…どんな事をするんだろう?
凄く気になる…見ていいなら見せてもらいたいし、参加も出来るなら……
「い、いいんですか? 部外者ですけど…」
「お前なら問題ない…都合は本当に大丈夫か?」
「あ、大丈夫です。多分ウチにいても家事を手伝うだけで終わりそうですし…宿題も済ませてしまいましたし」
「いい返事だ。では明日いつもの時間にここに来るといい。ああ、テニスに関する道具は持ってこなくていい。服も私服で問題ない」
「? 分かりました」
随分とラフな特訓なんだな…と思いつつも、そこは相手の思惑もあるのだろうと特に疑問を抱くこともなく、桜乃はその日はそのまま帰路についたのだった。
そして翌日…
「…………あれぇ?」
さぞや今日は部員の皆さんが張り切ってコートに集まっているのだろうと思いきや…
桜乃が訪れたその場所は、待ち合わせ時間の五分前ではあるものの、がらーんと実に閑散とした雰囲気に包まれていた。
誰もいない…人っ子一人、見受けられない…
「あ、あれ? あれ? おかしいな……昨日、確かに〜…」
あの人が、言い間違いなんてする訳がないんだけど…と首を傾げて考え込んだ時、背後から聞きなれた声が聞こえてきた。
「ふむ、予定通り…人を待たせない心掛けは感心だ」
「あ…」
振り返ると、見慣れた顔…『参謀』と呼ばれた男がこれまた私服の出で立ちで佇み、こちらを見ていた。
彼がここにいるという事は、やはり言い間違いなどではなかったのだ…しかし、どういう事なのかは相変わらずさっぱり分からない。
柳にもこのコートの閑散振りは見えているのだろうに、相手は全く慌てている様子もない。
「こ、こんにちは、柳さん…あのう、部員の皆さんの姿が見えないんですけど…」
「…ああ、今日は部活は休みだからな」
「はい!?」
更に混乱を招く相手の爆弾発言に、限界まで桜乃の瞳が見開かれた。
部活が休み!?
「ええ!? だ、だって今日はテニスの特殊メニューがあるって…!」
「…俺がいつ、『テニスの』と言った?」
「……………」
問われ、桜乃は脳をフル活動させて過去の記憶を反芻してみて…相手の質問に対して首をぐに〜っとゆっくり傾げた。
「……そ〜言えばそんな事は言われてなかったよーな…」
しかし、そこで引っ込む訳にもいかず、でも!と少女は珍しく相手に食い下がった。
「でで、でも! あんな言い方されたら誰でもテニスの話だって思っちゃいますよう」
「だろうな」
「だろうなって…じゃあ柳さんは最初から騙すつもりだったんですか?」
「昨日の日付は?」
「え…四月一日ですけど」
「世間では何と言われている?」
「…………」
思いついた名称がそのまま相手の答えになっているのだと知り、桜乃は引っ掛かってしまった自身の単純さを呪いつつ、肩を震わせて答えた。
「…エイプリルフール…ッ」
「そういう訳だ」
「ううう〜〜っ」
や〜ら〜れ〜た〜〜〜…!
日を越えて騙されてしまうなんて…とがっくりと落ち込んでしまった少女に、柳が少しやりすぎたか、と声を掛ける。
「すまない…ショックが大きかったか。お前の都合が悪ければその時点で誘う事はなかったのだが、暇と聞いていたのでな」
「いいえ〜……ん?」
まだ浮上するには時間が掛かりそうな桜乃だったが、ここに来て小さな疑問が湧きあがった。
でも、どうして彼までここにいるんだろう?
騙した自分がここに来る事をわざわざ確かめに来たのだとしても、あまりにも酔狂で、意地悪過ぎないだろうか?
そもそもそんな無意味な事を、この若者がやる筈がないのに…敢えて何故?
「…柳さんは、何故ここにいるんですか?」
「テニスのメニューという事に関しては嘘を言ったが、特殊メニューという事については真実だ。今日一日を有意義に過ごせる内容を考えてきた」
「…え?」
何の事だろうと疑問を顔に表す娘に、柳はこほ…と小さな咳払いをする。
「お前が好みそうな場所…カフェ、映画、レストラン、ショッピングモール…全て網羅してきた……その、お前さえ良ければ…」
「!」
それって…と思い至る桜乃の前で、何となく落ち着かなくなってきた若者が、上手く言葉を繋ごうと努力していた。
「…俺で良ければ…」
しかし、肝心の言葉がなかなか継げないらしい相手に、今度は全てを察した桜乃がにこっと笑って反撃開始。
「デートですか?」
「っ!…そ、うとも言う」
曖昧な返事を返す柳に、少女はぷいっとそっぽを向いた。
「真剣じゃないお付き合いは出来ませんから、遊びのつもりなら失礼します」
「そ、そういうつもりではない!……分かった、俺の負けだな」
もっと動揺してくれるかと思ったが、流石『参謀』の呼び名は伊達ではないのか、自分の置かれた状況を把握すると、相手はあっさりと桜乃の要望を受け入れた。
「竜崎、その…今日はこれから、俺とデートしてくれないか」
はっきりとそう言ってくれた事で、桜乃もようやく機嫌を直して相手と真っ直ぐに向き合って微笑む。
「…はい、喜んで」
受諾を受けて、ほ…と安堵した様子の若者は、では、と静かに手を差し出す。
一拍置いて、照れながら桜乃が同じく手を伸ばすと、温かで大きな相手のそれが優しく包んでくれた。
昨日の嘘から始まって、今日は嘘ではない『真実』の心のままに…
参謀の嘘から実を結んだ恋の花は、それからもずっと二人の心に咲き続けていた…
了
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