甘いオクスリ
「へくちっ!」
「まぁ、お風邪ですか? 丸井さん」
季節も移り陽気も暖かくなってきた春休みのある日、卒業後も特別に部活動に参加させてもらっていた丸井は、立海のテニスコートで派手なくしゃみをしていた。
「う〜〜、朝までは大したコトなかったのになぁ…」
ぐすぐすと鼻を鳴らして本調子ではなさそうな顔をする相手に、青学の学生である桜乃が心配そうに声を掛けている。
今日も休みを利用して、彼らの活動の見学に来ていたのだ。
「引き始めは、身体を大事にしないと…無茶はいけませんよ」
「そーだな…何か喉もイガイガしてきたし…やっぱ風邪かな」
むーと自分の体調について考えていた丸井の額に、そ、と相手の柔らかで小さな掌が触れてくる。
「熱は…ちょっとあるかな。でもさっきまで動いてらっしゃったし…」
「!」
触れられた丸井が、どき、と胸を密かにときめかせる。
ヤバイ…相手がこいつだと、尚更熱が上がりそうなんだけど、俺…
実は最近、自分でも結構イイ雰囲気なんじゃないの?と思える様になった二人の関係だが、まだ堂々とキスしたり恋人だとは言えない微妙なトコロ。
それでも、触れられるだけでこんなに緊張するという事は…やっぱり大好きなんだろう。
「だ、大丈夫だよい、休んだら治るって」
「それはそうかもしれませんけど……あ、そうだ」
桜乃は、手持ちのポーチからごそ、と錠剤のシートを取り出した。
白い球状の薬剤が個別に包装されている、よく見る形のものだったが、それを見せられた若者の表情がぴく、と微かに強張った。
「これ、よく効く風邪薬なんですよ。私も結構引きやすくて、持ち歩いてるんです。どうぞ」
「……」
「…丸井さん?」
即答を避けた丸井は、それから桜乃にじっと視線を向けつつ尋ねた。
「聞きたいんだけどさ、それって大人用?」
「当たり前ですよ」
私ももう中学生ですし、と当然の如く答えた桜乃だったが、それを聞いた途端、相手の男はぷいっと顔を背けてしまった。
「じゃあやだ」
「え…?」
「……大人用は苦いから嫌」
「またそんな子供みたいな事を…」
我侭言い放題の相手にやれやれと苦言を呈した桜乃だったが、『嫌』と言われたら意地でも飲ませたくなるのが人情…それに、飲まずに悪化するのは互いに本意でもない筈だ。
「たった三錠ですよ、水でごくんと飲めば…」
「やだ! 子供用のシロップだったら飲んでやる。あれなら甘いし幾らでも」
「んも〜〜」
薬だろうと何だろうと、彼を動かす基準はやはり『甘さ』なのか…
困ったなぁ…と思っていた少女は、そこでは、と何かを思いついた。
そうだ、確か今日は…
(うん…ちょっと丸井さんには悪いけど、彼の健康の為だもんね…)
決して死んだり身体が傷ついたりする訳でもないのだし、と自分で自分を納得させてから、桜乃は改めて相手に声を掛けた。
「大丈夫ですよ、これ、甘いお薬ですから。シロップじゃありませんけど」
「……ホント?」
「はい」
苦くない薬と言われて、ようやく彼も食指が動いた様だ。
確かに、このまま薬を飲まずに悪くなったら寝込む可能性もある。
自分の体力に自信はあるものの、やはりそこはスポーツマンとしての自覚はある様だ。
「うう〜〜…分かった」
そして彼は桜乃と一緒に一度部室に向かい、汲んで貰った水でその薬を飲んだ…のだが、途端、
「にっが〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!」
大声で訴えながら、丸井は口を手で押さえてじたばたと手足を動かした。
何とか苦味のピークを遣り過ごした後、彼はがぶがぶと水を一気に飲み干してから速効で桜乃を非難。
「ひっで〜〜〜!! おさげちゃん俺に嘘ついたなっ!? グレてやるーっ!!」
「の、飲めたからいいじゃないですかぁ…それにほら、今日はエイプリルフールだし、怒らない怒らない」
まぁまぁと両手を前に出して相手を諌めつつ、桜乃は少しだけ後ろめたさを覗かせながらもそう弁解した。
そう、嘘をつくことがあまり好ましい行為ではないことは分かっている。
しかし、今日という日であれば、少なくとも悪意のないこのぐらいの嘘は許されるだろう。
「うう〜〜〜〜、エイプリルフール〜?」
尚も恨みがましそうな視線で桜乃を見つめていた丸井だったが、やはりお気に入りの女性であるだけに強く責めることも出来ない。
しかし、好きな相手だからこそ、彼女に騙されてしまった事実は何となく面白いことでもなくて…
「む〜〜…」
「ごめんなさい〜、機嫌直して下さいよう〜〜」
そんなに怒るとは思わなかった、と桜乃は宥めていた手を胸の前で合わせて拝む形で謝罪した。
その姿を見たら、丸井も怒りは殆ど消え去ったが、やはり悶々とした気持ちは残っている。
ついでに、忌々しい薬の苦味もまだ口の中で活躍しているし…
仕方ない、ガムでも噛んで誤魔化そうか…とポケットに常備しているそれに手を伸ばしかけた丸井だったが、何故かそれを途中で止めた。
そして、代わりに傍にいた桜乃と、更に距離を縮めるように歩を進め、遂にはぴとりと密着する程の処まで近づいた。
「え…ま、丸井さん…?」
「……じゃ口直し」
「はい?」
「とびっきり苦かったから、とびっきり甘いヤツで」
ぎゅ…と抱き締められ、それを自覚した時には、桜乃は既に唇を塞がれてしまっていた。
「んん…っ!?」
力を込めて自分の腕を握り返してくる少女の手の感触を感じながら、丸井は塞いだ相手の柔らかな唇を楽しむ。
尤も、唇を奪った時点で彼自身もテンパった状態だったので、殆どの注意はそちらにのみ向けられている状態だったのだが。
「あ…っ…」
ほんの少し離れた唇から、熱く、艶かしい吐息が漏れるのを聞き、更に丸井の頭の中は真っ白になる。
「もっと…甘いの…」
甘い、アンタが欲しい…
もう、嘘とか何とかって、どうでもいいや…
頭の中に生クリームとかハチミツとか、そういうイメージがぐるぐると渦巻いたが、どれも今自分が味わっている甘味には遠く及ばない。
「ん…」
ようやく解放された少女は少しだけ相手に身体を預けたものの、それからすぐに身を離し、顔を片手で隠しながらなじる。
「こっ…こんなトコロで…誰か来たらどうするんですか…!」
「ん?……自慢する」
「じっ…!」
再び真っ赤になってしまった桜乃に対し、丸井は極上の甘味に満足したらしく、うまうま〜と舌を覗かせて唇の周りを舐めている。
「そゆことで、これからお薬飲むときは口直し必須ってコトで」
「…二度とこんなトコロではしないで下さい」
「さーて、どーしようかな〜」
視線を逸らしながら拗ねた声で忠告した少女に、丸井が頭の後ろで手を組んでもったいぶると、向こうはきっぱりと断ってきた。
「やったら、次からは真田さんに代理をお願いしますから」
「苺パフェに誓ってやりません」
自分の大好物を引き出してきてまで速効でそう誓った若者は、とほほ〜と一度は肩をかっくりと落としたものの…
「え?……つまり場所選んだら、キスはいいってコト?」
と、はた、と振り返る。
それに対して桜乃は、
「ダメです」
と無情にも一刀両断。
「ええーっ!?」
それもダメだなんてあんまりだっ!と悲痛に訴えた相手に、少女は目を合わせないまま頬を染め、ぽつりと付け加えた。
「…エイプリルフール」
「…!!」
つまり…『ダメ』というのはウソってことですか?
と言う事は…いいんですね?
「……じゃあ遠慮なく」
「〜〜〜〜」
今年のエイプリルフールは、タナボタ効果とどさくさに紛れて丸井の勝ち。
しかし一番の勝因は…やはり桜乃が丸井に『甘かった』ということだろう。
了
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