タヌキの策略


「あれー? 切原さん?」
 その日、春休みであるにも関わらず、青学の竜崎桜乃は立海の男子テニスコートにいた。
 そこでは、休みでもテニス部の活動が行われており、部員達の掛け声が響いている。
 彼らの練習を見学に来ていた少女は、そこにいなければいけない筈の一人の若者を目で探していたが、どうにも見つける事が出来ない。
「切原さん、何処に行ったのかしら…? 真田さん達に知られたらまた怒られちゃう」
 以前ならまだ拳骨で許されることかもしれないが、今はあの若者はテニス部部長という立場であり、部員を牽引する重要な立場なのだ。
 それなのに、下手にサボっているなどという事がばれたら…血を見るコトになるかもしれない。
「もう…切原さんったら…」
 昔から、ちょっとサボリぐせがある切原赤也という若者は、レギュラーの中で唯一の二年生である…いや、二年生だった。
 現在は無事に三年へと進級が決まっており、そして次期立海男子テニス部の部長でもある。
 テニスの実力はかなりのものだが、普段の姿は正直言ってちょっと子供っぽい。
 よく言えば無邪気でやんちゃ、悪く言えばお調子者なのだ。
 そんな彼だが…実は竜崎桜乃にとっては恋人という肩書も持っていた。
(ホント、手が掛かる人を好きになっちゃったなぁ…)
「竜崎?」
「っ!!」
 いきなり背後から呼ばれて振り向くと、先ほどまで考えていた人物の一人…真田がそこに立っていた。
「さ、真田さん…?」
「赤也を探しているのか?」
「は…はぁ」
 どう答えたら一番あの人に被害が向かないだろうかと考えている間に、真田は向こうから情報を提供してくれた。
「あいつなら、何か忘れ物があると言って一度部室に戻ったぞ。つい今しがたのことだ」
「あ…そうでしたか」
 聞いてほっとする。
 取り敢えずサボリではないし、この人がそれを把握しているのなら問題はなさそうだ…
 しかし、何を仕出かすか分からない後輩の人となりを既に熟知していた真田は、念を入れるつもりで桜乃に願っていた。
「すぐに戻るとは思うが、様子を見てきてくれるか? 部長になった以上、流石に脱走は仕出かさんだろうが…どうにも気になってな」
「あ、はい、いいですよ」
 その程度なら自分でも出来ることだと、桜乃は二つ返事で引き受け、部室へと向かって行った。
「切原さん? あの…あれ?」
 中に入って、桜乃はすぐに目的の人物を見つける事が出来た。
 しかし……
「…寝てるし」
 しかもその場所は、部室内に置いてあった腰ぐらいの高さのある棚の上。
 壁に密接していたそれに腰掛け、背を壁にもたれる形で、切原赤也はぐうぐうと寝顔を堂々と晒している。
「何処でもいつでも寝られるのは凄い特技だけど、何でこんな場所で…」
 これを見ていたのが真田ではなく自分で良かった…と内心ほっとしながら、桜乃は早速彼を起こしにかかった。
「切原さん、忘れ物は見つかりましたか? 起きて下さい」
「ぐぅぐぅ…」
 返って来たのは堂々とした寝息のみ。
「…そーですか、ぐっすりお休みですか」
 声を掛けるだけではやはり難しいか…と桜乃は場所を移動して、切原の両足を割る形で前に立つと、そっと肩に手を置いて揺らした。
 真田だったなら拳骨が容赦なく飛んでいるだろう…その方が寝覚めはばっちりだろうが、切原にとってはこちらの方が億倍いいに決まっている。
「ほら、切原さん、真田さんに怒られますよ?」
「ぐーぐー…」
 相変わらず、豪快な寝息が返ってくるばかり。
「ん、もう…困った人」
 こうなったら最後の手段…真田さんの声真似で『たるんどる』と怒鳴ってみようかしら。
 そんな事を頭の中で考えていた時、
 がっし!
「…え?」
 腰の部分に何かが触れたかと思ってそちらを見ると、相手のテニスウェアから覗いた素足が、がっちりと自分の腰を拘束していた。
 動けない、離れられない。
「え…ち、ちょっと、切原さん!?」
 声を掛けて相手の顔へと視線を戻すも、向こうはうっすらと笑みを浮かべていながらも瞳は閉じられたままだ。
「寝惚けてるんですか!? ちょ…ああん、解けない〜」
 流石に普段鍛えているだけあって、こっちがもがいたところで相手の足枷はびくともしない。
 そうしている内に、今度は切原の上体が傾ぎ、桜乃へと覆い被さってきた。
「きゃ…っ!」
 動くことも出来ずただ相手を受け止めた桜乃は、切原と密着した状態になって真っ赤になる。
「うわぁん、切原さん、起きてぇ〜〜!」
 お願いー!と必死に願う桜乃の耳に、近くにあった彼の唇が何事かを言った。
「…?」
『…―――ない』
「え…?」
 尋ねると、また相手が囁き、今度ははっきりと聞き取れた。
『…キスしてくれなきゃ起きない』
「んなっ…!」
 更に赤くなってしまった桜乃は、ようやくこれが相手の策略だったことに気付いた。
「んも〜〜! タヌキ寝入りですね!? 冗談は止めて早く起きて…!」
「んぐー…」
「〜〜〜〜〜〜!!」
 キスしないとこのままタヌキ寝入りを続けるということか…自分を巻き込んだこんな姿で。
 相変わらず悪知恵は働くんだから…でも、このままこっちが意地を張ってても状況は改善する筈もないし…この人のしぶとさは自分もよく分かっているし…!
「…も、もうっ…ずるい人…」
 ここはもう、諦めて彼の手に乗るしかない。
 桜乃は仕方なく彼の両頬を手で優しく挟み込み、そっと顔を近づけ、目を閉じる。
 ちゅ…
 優しく唇を重ね合わせ、その熱と感触を互いに共有し…ゆっくりと離すと、ばっちりと目を開けていた彼と視線が合った。
「へへ…おはよ」
「もう…知りません!」
 ぷいっと顔を背け、相手の解放した足から逃れた桜乃が拗ねた声で言ったが、対する切原はまぁまぁといつもの無邪気な笑顔で彼女を宥めた。
「いーじゃんか、今日はエイプリルフールなんだぜ? 固いこと言いっこナシナシ!」
 言われて、桜乃は少し考え込み、確かに今日がその日である事を思い出した。
 もしかして、自分がここに来る事を窓越しに見て最初からこうする事を企んでいたの?
 でももう見事に引っ掛かってしまったし、エイプリルフールを持ち出されると強くも言い辛い。
 仕方なく、桜乃は棚から降りた相手を再びコートに連れて行く事だけに集中した。
「…忘れ物は良いんですか?」
「ん、タオル持った。んじゃ行くか」
 まだつーんと頑なな態度を崩さない相手に、しかし向こうからキスをしてもらった切原は上機嫌だった。
「へっへー……でもさ…本気でしたくなかったら、逃げる方法だってあったよな」
「…!」
「嫌なら、それこそ叫んだり、俺を引っ叩いたりしても良かったのに…結構すぐにしてくれたよな」
 そういう指摘は本当にずるい…と思いながら、隠し切れずに頬を染める桜乃に、切原はくるっと顔を向けた。
「……俺って愛されてる?」
「………ばか」
 ぽそっと言われたせめてもの仕返しに、若者はおう、と速効で頷いた。
「アンタに関しちゃ大バカの自信アリだぜ、俺」
「〜〜〜」
 ああもう、また…
 冗談抜きでどんどん切原のペースに嵌っていってしまう、と、少女は複雑な心境だったが…
(…でも好き)
 それだけは真実であるのだと、こっそりと白状していた。






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