無言実行
「あつぅい〜〜」
夏の暑さもいよいよ厳しくなってきた某日、桜乃はいつもと同じく部活を終えて、帰路につこうとしていた。
太陽が天頂から傾いているとは言え、まだまだ太陽の熱は大地に蓄えられており、この国特有の湿気と相まって強い熱気となって足元からにじり寄る。
更に、かんかんと照りつける太陽から身を隠す様な日陰も、自分が歩いている道にはない。
見通しの良い道だからと言って、歩行者に百パーセント優しい訳ではないのだ。
「雨が降ってもじめじめするし、晴れたら晴れたで暑さが厳しいし…うわ、道の先、陽炎が揺れてる」
立海の門を抜けて、寮へと続く一本道の先を見ると、灼熱の世界に誘うように視界がゆらめいていた。
ゆらゆらとゆらめく陽炎を見ていると、それだけで暑さを更に強く意識してしまう。
(こんな暑い中で、あれだけ激しい特訓しているなんて…立海のテニス部の皆さんって本当に凄い…見た目もけろっとした感じだったし…)
桜乃は、放課後の部活動の時の若者達の姿を思い出し、改めて彼らの身体能力の高さに感嘆していた。
自分も同部のマネージャーである以上遊んだりしている訳ではない…が、彼らと同様の特訓を身に課している訳でもない。
その自分が部活動後にこんなに暑さで疲労しているというのに、彼らは暑さに愚痴こそこぼしていたものの普段と変わらず笑って淡々と行動していた。
(…弦一郎さんなんか、愚痴も零してなかったもんね…まぁ、らしいと言えばらしいと言うか…愚痴を零す方が想像出来ない…)
不意に頭の中に浮かんだのは、黒の帽子がトレードマークである立海男子テニス部副部長である一人の男…真田弦一郎。
部内で最も厳格で甘えを許さず、多くの部員達からは畏怖の目で見られる中学三年生であるが、桜乃にとっては副部長という肩書きの他にもう一つ隠された『立場』の存在だった。
(…私なんかの何処が、良かったんだろうな…)
あれは…唐突だった。
彼の中では幾度も繰り返されてきた予行の集大成だったかもしれないが、少なくとも自分にとっては青天の霹靂だった。
その日部活が終わって片づけをしている時、故意か偶然か、彼と部室に二人きりになり…何を話していただろう、多分、思い出せない程度の何気ない世間話だった。
その会話が途切れた時、微妙な沈黙が二人を包むと共に、彼の挙動が忙しなく視線も一点に定まらずに泳ぎ出した。
それが再び自分へと向けられると、若者は先程までの態度から一転、実に潔く桜乃に告白したのだった。
自分の…自分だけの女性になってほしいと。
『俺は口下手な人間だ、女が喜ぶような気の利いた言葉はかけてやれないかもしれない…だが、お前を守りたい気持ちは、誰にも負けてはいないつもりだ。もしお前が信じてくれるなら、これから、それを俺に証明させてくれないだろうか?』
口下手と言いながらも、嘘偽りなど微塵も感じない、彼らしい心を打つ言葉だった。
だから頷けた、迷いなどなく。
ずっと自分も憧れていた、慕っていた、だから、嬉しかった。
そして今自分たちは…互いを名で呼び合う、恋人という立場になっている。
(弦一郎さんは本当に心が強い人だし、信用出来るけど…私の取り柄って考えてみたらあまり無いんだよね…恋人になれたのは嬉しいけど、ちょっと不安になるなぁ)
私みたいな平々凡々な子と一緒にいても、つまらないんじゃないかな…?
そんな事を考えながらてくてくと道を歩いていると、ふっと辺りが暗くなった。
自分の周囲…そのごく一部のみが影に覆われたのだ。
「え…」
辺りが暗くなり、影になると同時に少しだけ涼しくなった事を感じて思わず辺りを見回すと、すぐにその理由は分かった。
「あ、弦一郎さん?」
隣に、丁度考えていた恋人が立っていた。
影になったのは、彼が日光を遮る形で傍に立ったからなのか…
「桜乃…その…」
恋人同士になってまだ日が浅いとは言え、相変わらずぎこちない口調で話しかけてくる不器用な若者は、少しどもりながら桜乃を見下ろす。
「俺も途中まで一緒に帰ってもいいだろうか…本屋に行く用事があるのでな」
「…」
きょとん…と見上げてくる桜乃の反応に、真田は内心不安になった。
もしかして、断られてしまうのだろうか…と思っていたが、幸いにも少女はすぐに笑顔を浮かべてこっくりと頷いてくれた。
「はい! 弦一郎さん、是非! 嬉しいです」
「そ、そう、か…?」
「勿論です、行きましょう」
男の不安を払拭して、桜乃は彼と一緒に並んで再び歩き出した。
歩き出して一分としない内に、不意に桜乃がふふっと笑った。
「? どうした?」
「いいえ…ちょっと嬉しくなっちゃって。弦一郎さんと二人でこうして歩いて、苗字じゃなくて名前で呼んでもらえると、恋人なんだなって実感しちゃうと言うか…」
「う…」
『恋人』とはっきり言われたのが恥ずかしかったのか、真田は少し難しい表情で視線を逸らしたが、嫌悪からでない事は分かっている。
「じ、事実だからな…いずれ慣れるだろう」
「うーん…確かに慣れるかもしれませんけど、でも、きっと『嬉しい』ことには変わりありませんよ?」
「〜〜〜〜〜」
にこにこっと笑いながら桜乃がかなり大胆な発言をして、真田はいつもと異なり防戦一方。
少なくとも恋愛に関しては、桜乃の方が真田よりも上手の様だ。
それからも二人の会話は同じ調子で続いていった。
そして二人は特に何事も無く、桜乃の住む寮の前に到着した。
無論、女子限定の寮なので、真田が同行出来るのはここまで。
「では、また明日、学校でな」
「はい、弦一郎さん…あ」
「?」
不意に声を上げ、自分を呼び止めた恋人に何事かと真田が振り返ると、彼女はととっと自分の直前まで駆け寄って来ていた。
「えへ…弦一郎さん、日陰、どうも有難うございました! 涼しかったです」
「!」
「その為に、一緒にここまで来てくれたんですよね?」
「それは…」
本当だ。
別に本屋に行く用事などなかった。
帰り際、いつにも増して暑さで辛そうな桜乃の様子を見て、ついあんな申し出をする形で同行を申し出たのだ。
恋人なのだからもっと言い様はあったかもしれないが、残念ながら自分はまだそこまで器用にはなれない…忌々しい話だ。
何故ばれたのか分からないまま、真田は少なからずうろたえたが、視線を合わせないままに何とか応じた。
「お、お前は…俺だけの女だからな…俺が守るのが当然だ」
「…はい、弦一郎さん」
ようやく認めた恋人に、桜乃は嬉しそうに微笑んだ。
真田が否定したとしてもきっと彼女は自信をもって真実を見抜いていただろう。
「…………ふぅ」
どう取り繕おうと無駄なのだという事を悟り、真田は軽く溜息をつきながら帽子を外した。
「お前は…いつも俺の全てを見抜くのだな」
「そんな事は……あ、もしかして不快でしたか?」
「いや…」
不安げな表情を浮かべた桜乃に苦笑し、真田はその頬にそっと手を伸ばしながら否定する。
「逆だ…心地よくて仕方が無い」
「え…」
ちゅ…っ
「!」
徐に、唇を軽く奪われて桜乃が驚く。
初めてではないが、元々ストイックな相手が積極的に、断り無くキスをしてくるというのは珍しいことだったので、単純に驚いたのだ。
「弦一郎、さん…?」
既に唇を離されてはいたが、桜乃はまだ真田の腕の中に捕われていた。
「…だから、離れられない」
言葉が足らなくても…上手く表現が出来なくても…
お前が分かってくれていると思うだけで…こんなに心が安らげる…
自分には常に厳しくあれと戒めてきたが…お前という心の安寧だけは手放せそうにない。
真田は上から恋人を見下ろし、照れ臭そうに笑った。
「好きだ…桜乃」
「弦一郎さん…」
改めての告白に、桜乃は夢見心地の中考えた。
私の取り柄とか…まだ分からないことはあるけど…今はこのままでいいのかな?
ちょっとぼうっとしているのは夏の暑さの所為…それとも、彼の腕の中にいる所為?
分からない、けど…暑いのに何だか心地良い…このまま熱に浮かされたことにして…
(も、もうちょっと、もうちょっとだけ…)
「!?」
図らずも自身の希望を先に果たす様に腕を回され抱き締められた真田は、またも彼女にしてやられた形で硬直し、暫く動けなかった。
夏の迷惑なまでの熱気も、たまには恋人達にささやかな恩恵をもたらす様である。
了
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