不純な動機


「ただいま帰りました」
『はーい!』
 その日は立海大附属中学の新たな学期を迎える日…そして新たな新入生を迎え入れる栄えある日でもあった。
 恙無く三年生に進級した柳生比呂士は、当日もいつもと変わりなく品行方正に振る舞い、放課後は在籍しているテニス部にも参加し、帰宅の途に着いた。
 放課後と言っても入学式、始業式がそもそも早い時間に終わったので、現在はまだ四時にもなっていない昼下がり。
 自宅に到着し、玄関の扉を開きながら声を掛けると、ぱたぱたと廊下の向こうから忙しない足音と声が響いてくる。
 そしてそれらの主である一人の少女が、玄関先で元気に彼を迎えた。
「お帰りなさい、比呂士お兄ちゃん!」
「ええ、ただいま、桜乃」
 屈託のない妹の笑顔を見て、兄も眼鏡に軽く手をやりながら優しく笑う。
 二歳年下の妹…桜乃は、柳生にとって最も大切な家族と言っても過言ではない。
 世の中ではシスコンと呼ばれている部類にさえ入るかもしれない溺愛振りで、小さい頃から彼女と共に暮らして来たのだ。
 尤も、溺愛と言っても見境なく甘やかしていたという訳でもなく、そこは普段から『紳士』と呼ばれているこの男のこと。
「迎えに出てくれるのは嬉しいのですが、もう少し静かに落ち着いて行動しましょう。レディーらしく、ね」
「あ、ごめんなさい」
 人差し指を軽く振りながら、指導すべきところはきっちりと行った兄に、妹は照れ臭そうに笑いながら謝った。
 生来の素質もあるのだろうが、桜乃は兄の柳生の贔屓目を抜きにしても非常に素直な性格なので、指摘された事も素直に認め、謝ることが出来る子だ。
 そんな妹だからこそ、流石の紳士・柳生も、指導をしながらもついつい彼女には必要以上に甘くなってしまうのだった。
「まぁ、はしゃぎたくなる気持ちは分かります。今日は桜乃の入学式でもありましたからね、どうでしたか、新しい教室とクラスメート達は。仲良く出来そうですか?」
 靴を脱いで家に上がりながら柳生が尋ねると、彼の鞄を持ってやりつつ桜乃は元気に首を縦に振った。
「うん、先生もクラスの皆さんも優しそうな人達ばかりだったから。明日からが楽しみ!」
「それは良かった。勉強も頑張らないといけませんよ、学生の本分です」
「分からない処があったら、お兄ちゃんに聞いていい?」
「ちゃんと自分で考えて、それでも分からなければいいですよ」
 そんな仲睦まじい会話をしながら二人はリビングへと移動する。
 現在の時間、両親は仕事の為に家には不在であり、彼らが留守番をしているという形だ。
「おやつ準備するね。今日はシンプルにワッフルなんだけど」
「有難うございます、頂きましょう」
 料理…殊にお菓子作りが好きな妹は、よく兄達の為にそれらを作っては振舞う事が多い。
 味も見た目の出来栄えもなかなかのものなので、その慣習は兄の柳生にとっても願ったりだった。
「…ところで、お兄ちゃんもクラス替えだったんでしょ? 気になる子とかいた? なーんて…」
 紳士然とした兄の性分をよく知っている桜乃だからこそ、当然、最後の台詞はちょっとした冗談のつもりだったのだが…
「ええ、いましたよ」
「!!」
 意外な兄の肯定の言葉に、少女はまぁ、と瞳を見開いた。
 そんな恋愛事など、これまで気配一つ見せなかった兄が…!
「本当!? わぁ、どんな人なの?」
 立海一の紳士が認めた相手なら、妹の自分でなくても興味が沸くところ。
 桜乃は興味津々といった様子で、一度はキッチンに立ったものの、再び詳しい話を聞こうと兄のいるリビングに戻って来た。
「ん? 興味があるんですか? では、丁度皆で撮影した写真がありますから…」
 照れるでもなく、いつもの様に至極真面目な表情で、柳生は懐から携帯を取り出した。
(わ、もう写真まで撮ったなんて、結構行動力あるんだ!…あ、でも…)
 感心したところで、桜乃はふとある事実に気がついた。
(気になる子…って、もしかしたら同じ男子かも。別に女性って言い方してないし、テニス部に勧誘したいとかそういう意味合いなのかな…?)
 それなら彼の今の態度も納得出来る…と思っている間に、柳生は携帯を開いて、問題の写真をデータから呼び出していた。
「…ああ、これですね」
「どれどれ?」
 取り敢えずは見てみよう、と覗き込んだ写真を見て、桜乃が再び目を見開く。
 てっきり男子だった、というオチを考えていたが、そこに写っていたのは数人の女生徒だった。
 こちらを見て、教室と思しき場所で思い思いのポーズで笑顔を見せている。
「わ…美人さんばっかり…え、と、お兄ちゃんが気になるのって…?」
 そう尋ねた桜乃に柳生が指し示したのは…
「…この人とこの人とこの人ですね」
「!!」
 またも驚き…まさか、一人だけでなかったとは…!
(え、え、え…って事は、二股…じゃなくて三人だから三股…って、まだ付き合っている訳じゃないけど…)
 確かに気になる気持ちは自由には違いない…しかし、複数の女性をターゲットにするというのは、少々浮気が過ぎないだろうか?
 しかも、この紳士で通っている自慢の兄が!!
(う〜〜〜…もしかして比呂士お兄ちゃんって、女性関係には甘いのかなぁ)
 大好きなお兄ちゃんだから、ちょっとショック…と桜乃が少し落ち込んでいると、その心中を知らない柳生が嬉しさを滲ませた声で彼女に尋ねてきた。
「どうですか、なかなか素直で正直そうな人達でしょう?」
「う、うん…写真だけだと、正直かどうかはよく分からないけど…」
「いえいえ、正直な人達に違いありませんよ。何しろ何も言わない内から桜乃の事を褒めてくれたんですから」
「………………え?」
 今のって、どういう意味?
 きょとんとした桜乃に、兄は自慢げに繰り返した。
「私が桜乃の写真を見せた時に、妹だと紹介する前から『可愛い』って褒めてくれたんですよ、その三人が。彼女達はなかなか見所がありますね」
「……え、えーと…つまり…」
 混乱しながら、桜乃が相手に確認する。
「その人達が気になったのは、美人さんだとかそういう理由じゃなくて…私を褒めてくれたから?」
「はい」
「……」
 ちょっとそれは…別の意味で動機が不純じゃないですか?
 嬉しくも恥ずかしい事の真相に、桜乃は真っ赤になりながらそれを誤魔化そうとキッチンへと向かった。
「ま…まぁ、それじゃあお兄ちゃんが気になるのも仕方ないか、な…」
「でしょう!」
 相変わらず、柳生は妹を褒められたのが嬉しかったらしくそれを強調している。
 そしてそういう理由なら多少浮気でも許してあげようと思いつつ、桜乃もいつもより気合を入れてワッフルを作り、柳生にご馳走した。
「…私の方が、随分と枚数多くないですか?」
「ダ、ダイエット中だから…」
 それなりに、妹もこんな兄が大好きな様である。


「そんな事があったと、桜乃ちゃんに聞いたんじゃが…」
 後日、柳生は相棒の仁王から、例の出来事について妹から聞いたと絡まれていた。
「つれないのう、俺だってお前さんに会ったばかりの時、桜乃ちゃんのコトあんなに褒めとったのに、それについては彼女に黙秘か?」
「頼まれても言いたくありませんね」
 自分の机の処に来て話している詐欺師に対し、紳士はつーんと半分無視を決め込みながら、次の授業で使用する教科書などの準備を整えていた。
「べーつに構わんじゃろ? 俺とお前さんの仲なんじゃし。なんてったってパートナー」
「貴方があの時あんな事を言わなければ…」
 はぁ、と溜息をつく柳生の脳裏には、相手と初めて出会った時、別れ際に彼が呟いた一言がまざまざと思い返されていた。

『お前さんの妹の、桜乃ちゃんとか言うとったか? 随分と可愛くていい子らしいのう……まだ小学生ってことらしいし、当然フリー…ほ〜う』
『……』

 例え初対面でも、それまで仁王の噂については柳生もよく耳にしていた。
 人を欺き、騙し、それを楽しむ超危険人物!
 幸い女性にだらしないという噂は聞かないが、彼ほどの人間なら、あの純粋無垢な妹はころりと騙されてしまうだろう。
 もし…もし取り返しのつかない事態になってしまったら…!!
 そうならない為にもこれは何が何でも監視しなければ…しかし、小学生の桜乃は現時点では監視出来る時間はかなり限られてしまう…そうなると、その対象を考える必要がある。
 よって監視対象は必然的に狙われているらしい桜乃ではなく、自分と同じ学校にいる、彼女を狙う詐欺師にシフトチェンジされたのであった。
「まぁ動機は何であれ、お前さんもあれからテニスの楽しさを知ったんじゃから恨みっこなしじゃよ」
「桜乃に手を出したら末代まで恨みますからね」
 それまでプロゴルファーを目指していた男が、テニス部に入部した真の理由が妹の保護だという事実を知る者は殆どいない。
 その理由を知る数少ない人物である部長の幸村と副部長の真田が、廊下から遠巻きにそんな二人を眺めていた。
「相変わらずよく分からない仲の良さだね…でも、自分の身体を張って妹を守るなんて流石は柳生」
「…恨むのは仁王の奴だけに留めてほしいものだな」
 あくまで企んだのは仁王本人なのだから…と渋い顔をする親友に、幸村は大丈夫だよと楽しげに笑っていた。
「平気平気。最初こそ義務感だったろうけど、今はもう柳生もテニスの虜だからね…仁王もこうなる事を見越していたんじゃないかな。それに、テニスしているお兄ちゃんも格好いいって褒められてるみたいだし、柳生も悪い気はしていないんじゃない?」
「全く…常勝立海の名を背負うには少々動機が不純過ぎるぞ」
 部長の見立ての通りだと分かってはいても、副部長はそれでもなかなか苦渋の表情を消すことは出来なかった…






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