籠の中の鳥


「仁王先輩、こっちの方の確認は終わりました」
「おう、ごくろうさん。こっちももう少しじゃよ」
 その日は、恋人たちが一年で最も心躍らせる日と呼んでも過言ではない…クリスマス・イブ。
 立海にも、無論例外なくその慣習は生かされている筈なのだが、一年生である竜崎桜乃はそんな色気とは無縁で、放課後になってもまだテニス部が利用している倉庫の中で備品の確認作業を行っていた。
 そんな彼女と一緒に作業を行っているのは、三年生の仁王雅治。
 世間では「コート上の詐欺師」と呼ばれている危険人物であるが、危害を加えない限りは軽くからかわれる程度の被害で済む。
 普段は面倒な作業を嫌う若者が、今日というイベントデーに大人しくこういう場所にいるのは非常に珍しい事なのだが、勿論、素直に引き受けた訳ではなかった。
 死なば諸共ともという訳でもないだろうが、実は、その場にいる桜乃をまんまと巻き込んだのが、彼なのである。
「すまんのう、こんな日に手伝ってもらって」
「いいえー、どうせ暇ですから」
「そうか、お仲間じゃの」
「…来年は脱出したいです」
 手伝う事は別に苦ではないのだが、わざわざこの日に、というのは何となく切ない。
「つれないのう、俺はおいてきぼりか」
「仁王先輩はいいですよ、ちょっと騙したらどんな女性もイチコロでしょ?」
「おう、でっかいトゲじゃな」
(…まぁ、期待した私も私だったんですけど)
 からからと笑う先輩を後ろに、桜乃はこっそりと反省した。

「竜崎…今度のイブ、お前さん暇か?」

 約一ヶ月前、仁王が実に思わせぶりな態度で、囁くように彼女に尋ねてきたのだ。
 その場で見たら、当人でなくても男女の何かを思わせるような聞き方だった。
 そして、憧れていた先輩からそれを受けた桜乃は、不覚にもどきりと胸を高鳴らせ、ささやかな期待を抱いたのである。
(え…も、もしかして…これって…?)
 期待はささやかなものだったが、乙女の背を押すには十分な力を持っており、促されるままに彼女は頷いた。
 すると、向こうは実に嬉しそうな笑顔を浮かべ…
「そうか! じゃあ済まんが、その日は俺と一緒に倉庫の整理をしてくれ。柳の奴に頼まれて困っとったんじゃが、二人ならその分早く終わるじゃろ」
と、にべもなく言い放ったのである。
「……え?」
 その時、ようやく相手の企みに気づいたものの既に手遅れであり、桜乃はそのままイブの日に倉庫へと拉致されてしまったのだった。
 それから結構時間が経過しているが、全く色っぽい進展などなく、淡々と事務的な作業をこなすのみ。
 いつもならこういう事にはさほど真剣にはならない詐欺師が、今日に限っては珍しくやる気になっていた。
(やっぱり早く帰りたいのかな…折角のイブなのは違いないもんね)
「あーそうじゃ、竜崎」
 まるで彼女の心の中を読んで答えを返したように、仁王が呼びかける。
「は、はい?」
「倉庫の整理が終わったら、ちょっと買い出しもあるんじゃよ。ついでじゃから帰りがけに終わらせてしまおう、今日以降に雑用を延ばすのはゴメンじゃ」
(ああ、そういう訳ですか…)
 何となく納得…
 ここまで来ると、桜乃も腹を括ったのか特に反対もせずに相手に従った。
「いいですよ。どうせ暇ですから」
「…段々返事がおざなりになってきたのう」
「だって他に返す言葉がないですもん…見栄張ってもしょうがないですし」
「はは、こういうのは諦めが肝心。いい心がけじゃよ」
「…仁王先輩が一番、逃げ足が速そうなんですけど」
「人間、時には逃げるのも面倒になる時があるんじゃ」
「そんなものですか」
「そんなもの」
 ここまできっぱり言い切られると、そうなのかなーと流されてしまいそうになる…と言うより、流されるしかなくなる、と言った方が正しい。
「…分かりました」
「よし」
 素直な後輩ににこりと笑い、仁王はそれからも彼女と共に倉庫の整理をこなすと、一緒に街へと繰り出していった。


「じゃあ、これは来年に部室に配送してもらいましょう。流石に二人では…」
「じゃな」
 スポーツ用品店に赴き、メモを眺めながら、仁王と桜乃は記載されていた物品を確実に間違いないように注文を済ませてゆく。
「じゃ、お前さんはこれ持って…俺はこっちじゃ」
「もう少し持てますよ?」
「いや、そういう訳にはいかん…よし、これで全部終わったか」
 間違いはないな、と再度確認し、二人は一つずつビニル袋を手に提げた状態になり、店を出た。
「もう一度学校に戻りますか?」
「や、これはそれぞれ家に持って帰って、明日にでも持って行けばええじゃろ。今日戻ったとしても意味はないし、ここからだとちょっと距離がある」
「それもそうですね…」
 それなら、今日はここでお別れかな…ちょっと色気には欠けたけど、仁王先輩と一緒に過ごせたのはラッキーだったよね…
 何だかんだとあったけど退屈しなかった、と思いながら、桜乃は仁王に軽く一礼する。
「じゃあ、今日はお疲れさまでした仁王先輩…」
「ちょっと待ち」
 お別れの挨拶をしようとした少女の台詞を、手を軽く前で振りながら途中で止めると、若者は相手の顔を見下ろしながら首を傾げた。
「お前さん、今から暇か?」
「……」
「…どうした?」
「いえ、次は何があるのかと…」
「ちょっとヒドいのー…心配せんでももう強制労働はなしじゃ」
(やっぱり強制って意識はあったのね…)
 思いつつも口には出さなかった桜乃は、じゃあ何なんだろうと首を傾げ返す。
「何か…?」
「ちょっと疲れたから、どっかで一服せんか?」
 さりげない誘いに、桜乃は思わずにこりと笑った。
「ああ…いいですねぇ」
 勿論相手に言うことはなかったが、倉庫での作業もあり、多少身体が疲れていたのだ…特に足が。
 何処かで少しの間でも休めることが出来たら、幾分かの体力の回復も望めるだろう。
「じゃあ、何処にしましょうか。近くである喫茶店なら…」
「ん…こっちじゃよ」
「え?」
 桜乃が迷っている隙に、既に目標を定めたらしい詐欺師は踵を返してすたすたと歩きだす。
 どうやら目当ての店があるようだ。
(わ、決断が早いなぁ…もしかしてお気に入りの店があるのかしら…)
 それならそれで楽しみだと、特にこだわりもない桜乃は素直に相手についてゆく。
 自分と同じく庶民であるだろう若者だが、美味いものは美味い、不味いものは不味いと歯に衣着せずにはっきりと言うタイプの人間であるから、その選択に妥協はないだろう。
 何処かな〜とわくわくしながら桜乃が仁王と一緒に暫く歩くと、先に綺麗なイルミネーションで飾られたとある店が見えてきた。
 そこは衆人が気安く入るような店…ではなく、明らかに食事などを目的に入る専門料理店。
 しかも、外に出されていたボードに記されているお勧めの料理名は横文字の羅列で、下の日本語訳がなければ想像すらも出来なかっただろう。
(あれ?)
 しかもそのボードには、別に「本日は予約で満席となっております」という注意書きまである。
 確かに、ガラス張りである店の壁越しに内装を見ると、センスも良く落ち着いたムーディーな店の様だ、今日みたいなイベントでは恋人達にも人気だろう。
「に、仁王先輩、ここもう満席ですよ、それに何だか高そうです」
「ええからええから」
 挙動不審になる桜乃に、仁王は笑みを含んだ声で答えながら、尚もずんずんと店の入り口まで歩いてゆく。
「ええから…って」
 どうせ断られるだけなんじゃ…いや、もしかして詐欺師の彼のことだから、店の人を騙くらかして中に入ろうとか?…でも、流石に今回は見破られて追い返されそうな……
「……」
「なーに考えとるかよく分かりそうな沈黙じゃの。心配せんでそのままついて来んしゃい」
「あう…」
 早速心の中を読まれてしまった、と恐縮しながら、桜乃は言われるままに男の後ろについていき、彼が入り口のドアを開けるのを見ていた。
 二人が中に入ると、暖房の熱気がふわりと優しく肌を包んでくる。
 そして同時に鼻腔に芳しい料理の香りまで運ばれてきて、少女は自分が実はかなり空腹の状態である事を思い知らされた。
 考えてみれば、放課後から今までずっと頭も身体も使っての作業だったのだから無理もない。
(ん〜〜…ここを追い出された後にファーストフードでもいいかな。後で仁王先輩に言ってみようっと)
 完璧に、自分達が追い出されるものと信じきっている桜乃の前で、仁王は二人に歩み寄ってきた店員にさらりと言った。
「仁王じゃけど」
 堂々としている若者の前で、そのウェイター姿の店員はほんの数瞬沈黙した後に、すぐに恭しくお辞儀をして返してきた。
「はい、仁王様…お二人様ですね。お待ちしておりました」
(…ふえ?)
 きょとんとする桜乃の前で、仁王はさも当然という様に店員と会話を交わしている。
「席は?」
「窓際をご用意しております、どうぞこちらへ」
「ん」
 全く自分の預かり知らぬところで、話が勝手にどんどんと進められている様な気が…
「何しとる? こっちに来んしゃい」
「は、はい…」
 追い出される気満々だった少女は、気後れしつつも仁王に言われるままに中へと入ってゆく。
 そこは照明が若干暗めに設定されており、一つ一つのテーブルの上に置かれていたキャンドルが、その場の主光源になっていた。
 十テーブル程しかないこじんまりとした店の中は既にほぼ満席で、各々の席で恋人達が良い雰囲気で愛を語らっている。
(うっわぁ…大人な雰囲気〜〜)
 中学生の自分がこんな所にいていいのか少々疑問に思うところはあったが、確かに雰囲気がいいのと、持ち前の興味も手伝って、桜乃は仁王に促されるままに後ろをついていき、彼らに割り当てられた席へと到着した。
 窓際で、外のイルミネーションが美しい街道を眺められる絶好のスペースだ。
 かなり早い時期に予約を入れていなければ、先ず今日座る事は不可能だったと思われる。
(…ってことは……あれ?)
 自分がしていない以上、予約をしたのは目の前で笑っている銀髪の若者しかいない訳で…でもどうして…?
 どうにも事態が掴めていない少女の前で、仁王はさっさと着席し、桜乃にも座るように促した。
「座りんしゃい…飲み物は何がええかの。ソフトドリンクも結構種類があるから、好きなのを選ぶとええよ」
「は、はい…?」
 聞き返している間に、脇から店員がメニューを少女に差し出した。
「どうぞ」
「あ、有難うございます。え、えーと…」
 何だか、雰囲気と流れにすっかり呑まれてしまっている気がする…まぁ元々押しが強い性格じゃないけど…
「えーとえーと…じゃ、じゃあこのブラッドオレンジジュースを…」
「畏まりました」
「じゃ、俺もそれで」
 飲み物の注文を受けると、店員はそれ以上の希望を取る事もなく、メニューを抱えてさっさと厨房のある方へと戻っていった。
 普通は、メニューを置いて、決まった頃にまた伺うのに…と疑問に思った桜乃に、仁王がけろりとして答えた。
「ああ、もうメニューは予めコースで頼んどったからの」
「はぁ……え!?」
 何それっ!?…いや、この状況なら、やはりそれしか正解はない…!
「え、ええっと…仁王先輩…ここ、予約して…?」
「当然じゃろ?…安心しんしゃい、何度かリサーチはしとるし、味も文句なしの店じゃよ」
「いえ、そうじゃなくて…そのう…こういう日にこういう場所に一緒に来るのは…その…」
「…」
「……」
 言いたいが、露骨に口に出すと自惚れていると思われるのでは…?と桜乃が口を濁らせていると、それを黙って聞いていた仁王が肘をつきながらにやりと笑った。
「…俺が、お前さんとそういう関係になりたいと言ったら?」
「え…」
「じゃから、ここに連れて来たと言ったら…?」
「!〜〜〜」
 アルコールも飲んでいないのに早くも真っ赤になってしまった少女を、仁王は楽しそうににこにこと笑いながら平然と眺めている。
 結構凄い台詞を言っている筈なのに少しも動揺も緊張も見せてくれない相手に、もしかしたらこれも冗談の類なのかとちょっぴり悔しくなって桜乃が質問を返した。
「わ、私が断ってたらどうするつもりだったんです?」
 つん、と少しだけ顎を上げて言ったものの、相手にはその揺さぶりも一切通じていない様子だ。
「じゃから最初は荷物整理に誘ったじゃろ? お人好しのお前さんなら、先ず間違いなく手伝ってくれるからのう。それに相手がおらん事も前もって調べがついとったし」
「う…っ」
 痛いところを…!と怯む桜乃に、それに、と若者が指差ししてとどめ。
「一応、お前さんには多少の猶予をやったぜよ? この店に到着して席に行くまでの時間をな。怪しいと思ったり嫌だと思ったら、そのまま逃げても良かったのにのう…」
「逃げる…って…」
 そんな事出来る訳がないじゃないですか…と心で答えた少女に、ふふんと詐欺師が勝ち誇る様に笑った。
「ま、結局お前さんは席に着いた…もう逃がさんぜよ」
「仁王先輩…」
 今の台詞…もしかして、本気で私を…?
「どーしても逃げたいんなら、今すぐここで俺のものになると誓うことじゃな…そうしたら『この場は』カンベンしちゃる。但し、シェフ渾身のスペシャルクリスマスディナーコースは二人分、俺の腹の中に入るがの」
「むぐっ…!」
 こんな時でも食欲が頭をもたげてくるのが少し悲しい…と思いつつ、桜乃は仁王に物申した。
「で、でもそれって結局…逃げても逃げなくても、仁王先輩の恋人になるって事じゃないですかぁ…!」
「おう賢いのう、その通りじゃ。お前さんはもうとっくに籠の中の鳥なんじゃよ…俺がお前さんを好きになった瞬間からな」
「!」
 絶対に逃がす気はないらしい若者は、その時桜乃も初めて見る様な優しい笑顔を浮かべ、彼女を諭す様に言った。
「外は危険が一杯じゃ、このまま俺の籠の中におりんしゃい。外を飛ぶより、俺の傍におった方がきっと楽しいぜよ? なぁ、桜乃?」
「…っ」
 男の言葉は、甘い毒の蜜の如く、少女の心に染みていった。
 そんな台詞を面と向かって言われてしまったら…もう自分には、逆らう術がない…
 逆らう、というのもおかしな話だ。
 本当は、自分も、この人とこうなる事を望んでいたのだから…だから、最初の彼の問いにも応じていた。
「…はい…」
 赤くなりながら頷いた少女の背中から、見えない羽がもぎ取られた。
 優しく笑う、詐欺師の手によって。
 心が震えているのは、羽を失った痛みか、それとも彼に囚われた歓びか…
 それがどちらであったにせよ、二度と戻る事は出来ないだろう…しかし、これからも彼のこの笑顔を傍で見ていられるのなら、きっと後悔はしない。
 そう思っているところに、二人の許へ頼んでいた飲み物が運ばれてきた。
「はは…クリスマスイブより、よっぽど大事な記念日になったの」
「えへ…そうですね」
 その記念日が何を意味するものか当然知っており、否定する気もない桜乃は、それ以上問わずに素直に認めた。
 グラスが二人に行き渡ったところで、仁王がそれを静かに掲げる。
「じゃ、これから改めて宜しくな…可愛い恋人さん」
「こ、こちらこそ、宜しくお願いします…仁王せんぱ…あ、雅治、さん…」

 そして、新たな恋人同士が掲げたグラスは、彼らを祝福するように、優しく耳に残る音を響かせた…





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