君の為の花を


「うーむ」
「何読んでるんだ丸井」
「んにゃ、ちょっくら実技の向上を…」
 十二月某日
 クラスの休み時間、丸井は自分の机で何かの本を開き、それを熱心に読み耽っていた。
 傍には、彼に貸していた辞書を返してもらいに来たジャッカルが立っている。
 普通は、辞書を借りた方が返しに行くのが道理なのだろうが、この赤毛の若者は気付いているのかいないのか、はたまたジャッカルだけなのか…
 しかしジャッカル本人も、最早諦めているのかそんなものだと達観しているのか、特に相手を非難する様子はない…尤も、そういう人の良さが本人にとっては不幸の種なのかもしれないが。
「何だそりゃ…ん、飴細工?」
 ひょいっと本の表紙を覗いたジャッカルは、そこに載せられていた様々な飴細工の写真を見て、そういう趣旨のものであるのだと察した…ところで首を傾げる。
「お前にしちゃ珍しいモノ読んでるな」
「そうかー?」
「だってお前は大体、そういう細工モンじゃなくて土台の方専門だっただろ?」
 土台と言うのは所謂、ケーキとかそういう物の類の意味である。
 確かに、丸井は元々甘い物好きで、食べるだけではなく作る方にも多少の造詣が深く、過去に創作菓子でそれなりの賞を受けたこともあるのだ。
 しかし、今回見ているのは飴細工についての教本。
 同じ菓子世界の芸術品であっても、何となく丸井の得意とする分野とは方向性が異なる気がする、というのが相棒の印象だった。
「前にも飴よりがっつり食えるケーキが好きだとも言ってたし…何か心境の変化か?」
「別に」
「……そうか、太ったか」
「な〜に勝手に納得してるのかなぁ、ジャッカルく〜ん?」
 背を向けしみじみと聞き捨てならない事をのたもうた相棒に、久し振りに丸井が視線を移し…途端に始まる廊下を使っての徒競争。
「天才の走りをナメんじゃね〜〜〜〜〜〜っ!!」
「こっちには四つの肺ってモンがあるんだよ!!」
 どたたたたたたっ!!と賑やかな足音を響かせて、各三年生の教室前を賑やかに渡っていく二人の姿に、通行人の生徒達や教室内の生徒達も一様に振り返った。
 三年目こそ準優勝に終わったとは言え、中学テニス界で二連覇を成し遂げ、「王者立海」との呼び名を不動のものにした立役者達の俊足は、一般人とは比べるべくもない。
 他の生徒達では到底追いつけず、確保など不可能だろうと思われた彼らの疾走だったが、それは意外にもすぐに止められることになった。
「こらっ!!」
 突然の怒声と共に、走っていた二人の襟首が背後から伸ばされた手で思い切り掴まれた。

『ぐえ!』

 同時に上がったカエルの様な声は、一見したら笑い話だが、実際に窒息した二人にとっては命に関わる事なのでとても笑えない。
 緊急停止して何とか事なきをえたところで、くるっと振り向いた丸井の顔が青くなる。
「げっ!! 真田ぁ!?」
「う…っ、幸村もか」
 ジャッカルの顔も、丸井同様に強張っている。
 そんな振り向いた二人の前には、テニス部の元部長と元副部長が並んで立っていた。
 二人の襟首を掴んでいたらしい元副部長である真田弦一郎は、手を離した今は腕組みをしていたが、顔は明らかにまだ怒っている。
 対し、元部長の幸村は、真田の様に手出しは一切行わず、憂慮の表情を浮かべているに留まっていた。
「騒々しいよ二人とも。廊下を走ったらダメじゃないか」
「全く、二人してたるんどるっ!! 誰かにぶつかって怪我でもさせたらどうするつもりだ!!」
 見た目も対照的なら叱る台詞も実に対照的な二人は、丸井達を軽く嗜めた。
(ここで『怪我でも「したら」どうするつもりだ』って言わないところが真田だよなぁ…)
(まぁ俺らはもう一般人の枠には入れてもらえないってのは、何となく分かるけどな…)
 それでも何か寂しいなぁ…と思いつつ、取り敢えず二人は素直に謝罪した。
「悪い…」
「すまん、ちょっとはしゃぎすぎた」
 ちゃんと謝るべきところは弁えている二人に、ようやく幸村は微笑を浮かべて軽く二人を見回した。
「何も起こらなかったから良かったけどね…何があったの?」
 二年の後輩ではなくこの二人がこんな騒ぎを起こすとは珍しい、と思っていた彼に、丸井が端的に答えた。
「だってジャッカルが俺のコト「太った」って言うからよい」
「……人って図星指されると怒るよね」
「違うっ!!」
 誤解だ〜っ!と訴えている若者を他所に、幸村は今度はジャッカルに向けて一言。
「ブン太はともかく、女性にそんな事言ったら一生独身で終わるからね、ジャッカル」
「いや、流石に俺もそれぐらいは分かってるって」
「それならいいんだ」
「良くねぇよ!」
 俺ならいいのかよ、と丸井が異議を唱えるも、脇で聞いていた真田には特に同情の気持ちはないらしい。
「違うなら堂々としていたら良かろう!」
「だって言わなきゃソレが本当だって言いふらされるじゃねーか!!」
「…自分を基準にしたらそうなるんだな」
 情けない…と真田が目を伏せたところで、幸村がくすりと笑った。
「兎に角、勢いに任せて人に迷惑を掛ける様な真似は止めておくんだね…そもそも何でそんな話題になったんだい? ダイエットの本でも読んでたの?」
「あ、いや…読んでたのは飴細工の本だったな」
「飴?」
「……」
 ジャッカルの暴露に、丸井が何処となく落ち着かない様子で脇見をしている様を見て、ああと何かに思い至った様に幸村が笑った。
「そうか…クリスマスも近いしね」
「クリスマス? クリスマスって言ったらやっぱりケーキじゃないのか?」
 ジャッカルの指摘に、幸村が答える。
「他の人が焼いてきてくれたら問題ないじゃないか…ね、ブン太」
「う…」
「他の人?」
「竜崎さんだよ」
 ジャッカルが幸村の答えを聞いて、ああと頷いた。
「あいつか…そう言えば、俺らにケーキ焼いて来てくれるって言ってたな。丁度イブの夜には部室も借りられることになったし」
 テニス部レギュラーであった男達だが、既に現役を退いている為、今はもう以前ほどに堂々と部室を利用することは出来ない…いや、やろうと思えば出来るのだが、そこは先輩として後輩達の権利を尊重しているのだ。
 しかし今年のイブの日だけは、切原赤也という彼らにとっては弟分的な存在である若者が現部長になっていることと、他部員が練習後は特に部室を使用するという予定もないという事もあり、久し振りに過去のレギュラーメンバーがその場に会し、クリスマスパーティーを開こうという話になっていたのである。
 そこに、青学の一年である竜崎桜乃も彼らから招待を受け、無事に参加出来るらしいという話をジャッカルが聞いたのは一週間前の事だった。
 誰が吹聴しているのかは定かではないが、最近、あの娘とこの丸井という赤毛の男が恋人同士になったのだという噂は、元レギュラー達の耳にも届けられている。
「あー…成る程ねー」
 何かを察してうんうんとしたり顔で頷くジャッカルの隣では、にこやかに幸村が人差し指を立てながら丸井に確認。
「どんなケーキがいいかリクエストしていたところでデコレーションの話になって、イイトコ見せようと引き受けたってところかな? ブン太」
「うるせーうるせー! 何だっていいだろいそんなんっ!!」
 ぶんぶんと丸井は両手を振り回して声を上げると、ぷいっと後ろを向いて行ってしまった。
 肯定こそしなかったが否定もしなかったところを見ると…どうやら図星か。
「…やっぱりね」
「何故そこまで分かるのだ、お前は…」
 ふふっと笑っている隣の親友を青い顔で眺めながら、真田は小さく呟いていた…


 そしてイブ当日の放課後…
「お邪魔します」
「おっ、来た来た! 丁度良かったぜい、桜乃!!」
「ブン太さん、こんにちは」
 桜乃が部室を訪れた時には、先に授業が終わっていたのか丸井だけがその場に先着していた。
 丁度他に誰もいないところで、恋しく思っていた恋人に久し振りに会えた若者は大はしゃぎで相手に抱きついていく。
「きゃっ、ブ、ブン太さん…!」
「ひっさしぶりーっ! なぁなぁ、元気だった!? 俺に会えなくて淋しかった!?」
「も、もうっ…! 誰か来たらどうするんです!?」
「えー? 知らねー、言ってくんなきゃ離さねーよい」
 べっとりとひっついてくる厄介な恋人に赤くなりながら、桜乃はもう、と唇を軽く尖らせた。
「元気でしたよ…でも、淋しさを感じる暇はありませんでしたけど」
「え…? 何で?」
 寂しくなかったの?と少々不満げな顔をした相手だったが、桜乃は一切怯む事もなく、逆に強い気迫をもって彼に迫った。
「ブン太さんがリクエストしたケーキの作り方が、ひっじょう〜に手間がかかって難しかったから、それどころじゃなかったんです!」
 むーっと責めるような少女の視線に、丸井はけろっと悪びれることもなく頭に手をやって笑う。
「あ、わりーわりーそうだった。俺が面倒で挫折したヤツだったんだソレ」
「やっぱり〜!」
 道理で…と言う桜乃に、まぁまぁと彼は両手を出して諌めた。
「そう怒るなって…でもそのケーキボックス提げてるって事は、出来たんだろい?」
「苦労しましたよ…まぁ、会心の作ですけど」
「やりぃ! さっすが俺の恋人!!」
「調子良いんですから…あら?」
 先程まで、部室のドアを開けてすぐに恋人の抱きつき攻撃に遭っていた少女は気付くのが遅れたが、相手の若者の両手に、軽く包帯が巻かれていた。
 巻かれている薄さから大怪我という程のものではないらしいが、映えた白の色が痛々しい。
「ど、どうしたんですか? その包帯…怪我したんですか?」
「ああこれ? いや、まぁちょっとな…大した事ねーんだけど…・あ、そうだ」
 言葉を濁しつつ、丸井は思い出したとばかりに自分の荷物を置いていた棚へと歩き出す。
「俺もちゃーんと準備しといたぜ、お前のケーキに負けてらんねーもんな」
 そして鞄の奥に隠されるように置かれていた人の頭ほどの大きさの白い紙箱を取り出し、近くの机へと置いた。
「見る? キッレーに出来たぜ、俺の天才的妙技」
「え? え?」
 ちょっぴり勿体ぶりながら丸井がぱかりとその上蓋を開くと、覗き込んでいた桜乃の瞳が大きく開かれ、口からは感嘆の声が漏れた。
「まぁ…!」
 そこに見えたのは、煌々と輝く薔薇の花々。
 いや、十分に練り上げられ、艶を放つ飴によって象られた見事な造詣を誇る薔薇達だった。
 茎や葉は緑色に統一されているが、花々はそれぞれ白だったり赤だったり黄色だったりと実に色鮮やかだ。
「すごーい! 本物みたい!」
「へっへー、大したもんだろい? 結構花弁の形とか苦労したんだぜ〜」
「本当にプロが作ったみたいですよ…私のも自信作だったけど、負けちゃうなぁ…」
 苦笑する少女に、丸井がぶんぶんと首を横に振った。
「んなことないって! なぁ、ケーキどんな感じ? 早く出して飾りつけようぜ、皆が来る前にさ!」
「はいはい…あまり急かさないで下さいよ」
 出来栄えを見られるのが気恥ずかしいのか、桜乃もまた苦笑しながらケーキ箱を机の上に置いて、中身を披露する。
「おおお! 見事な膨らみ具合っ、クリームのデコレーションも完璧じゃん!!」
「膨らませるのに苦労したんですよ、いつもの材料と配分が違うんですもん…あ、じゃあ薔薇を飾ります?」
「そうだな…っと、悪いんだけどさ、桜乃」
 ふと、自分の包帯を巻かれた両手を見て、丸井が桜乃にすまなさそうに声をかけた。
「飾りを置くの、お前がやってくんない? 俺の手、痛みはそんなじゃないんだけどさ、力加減がまだ難しいんだよ」
「ええ…それは構いませんけど…あ」
 不意に、桜乃は丸井の手の包帯の意味について思い当たった。
 もしかして…
「…ブン太さんの手…もしかして、この飴細工の時に?」
「…」
 困った様に視線を逸らす若者の姿が、何より雄弁に正解を物語る。
 飴細工に用いる飴は、熱い内に手早く練って空気を封入してあの輝きを得る。
 その時の温度は、時に八十度にも及ぶという、無論、繊細な作業であり敏感な感覚が不可欠なので手袋など使えるものではない。
 この芸術品とも言える薔薇達を生み出す為に、きっと彼は歯を食い縛って痛みと熱に耐えながら…
「ブン太さん…」
「い、いいんだって、たまにはこういうのも面白いと思ってたしさ。折角のお前のケーキだから、綺麗に飾ってやりたいって思うじゃん」
 にひゃっと男はおどけるように手を振って、それからほっと息を吐く。
「あーでも、やっぱケーキがお前で良かったよ。あんなあっちい飴弄らせたら、お前の手ひでぇことになっちまってたもんな。大好きな桜乃に痛い目遭わせたくないし、怪我もさせたくねーもん」
「〜〜〜〜」
 ちょっと配合が難しくて、手間が掛かって、焼く作業にも技術が要るケーキ作りを押し付けられていた少女だったが、最早そんな事はどうでも良かった。
 いや、彼の努力と熱意に比べたら、自分の苦労など何と言うことはない。
 彼の心遣いに触れて、桜乃は瞳を潤ませながら笑った。
「あ、は…勿体無くて食べられませんね」
「えー? 折角作ったんだから食べようぜ?」
 丸井がそんな事を言っていたところで、部室の中に他のメンバー達もぼちぼちと入室してきた。
「ああ、竜崎、もう来ていたのか」
「お久し振りです、柳さん。あ、ケーキの準備、もう少しですから」
「うわーっ! すげぇなコレ! あ、キレーな飴細工もあるっ!」
「赤也! 変なちょっかい出して割るんじゃねーよい!」
 それから全員が揃って賑やかな雰囲気になり、ケーキも桜乃の手によって美しく装飾された後で、いよいよそれを切って皆に配布しようということになった。
「よーっし! 俺が切るぜい」
 喜び勇んでケーキナイフを持ったのは、やはり予想通り丸井だったのだが、そこで数人から待ったがかかった。
「あ〜っ! 異議ありッス!! 丸井先輩、絶対自分の分だけ多めに切るつもりでしょ!?」
「切るなら他の奴らに任せろよ、丸井」
 切原やジャッカルの提言に誰も否定する様子がないという事は、彼らの言い掛かりではなく過去にも前例があったということなのだろう。
 しかし、勿論丸井にナイフを手放す様子はない。
「やだ! 俺がやる」
「丸井よ、その手だとまだ握ったら痛むじゃろ」
「へーきだって」
 仁王達がやれやれと苦笑し、これはかなりの量を持っていかれるぞ、と覚悟したところで、そこでやや控えめな飛び入りが入って来た。
「あ、じゃあ…私がサポートしますよ」
「へ?」
 丸井の横から桜乃がそっと割り行って来て、彼の手の上から自分が更にナイフを握る形で手を置いた。
「ズルはダメですよ、ちゃんと公平に切らないと。私がしっかり誘導しますから」
「うぇっ、桜乃!?」
 丸井は驚いたが、他のメンバー達はそれなら大丈夫だろうと桜乃に任せることで納得する。
「まぁ竜崎さんなら、しっかり公平に分けてくれるでしょうね」
「それなら俺達も安心だな」
 柳生と幸村がそう語っている間に、丸井が桜乃にこっそりと囁く。
『べ、別に一人で切れるって…』
『いいからいいから…ほら、切りますよ』
 対し、桜乃も微笑みながらケーキの上にナイフをかざして密やかに言った。
『はい、ケーキ入刀っ』
「っ!!!」
 さく…っ
 柔らかな抵抗を手に残しながら、ケーキのスポンジがナイフによって切られてゆく。
 しかし手はその抵抗をしっかり感じながら、丸井の脳は既にケーキではなく、二人の重なった手にばかり意識を向けていた。
 ケーキを切る角度とか、載せる飾りとか、そういうものはもう一切が興味の対象から抜け落ちている。
(ケーキ…入刀って…)
 それってやっぱり…よくあるウェディングケーキの前でやる…アレ、だよな?
 じゃあ、今のが俺達の最初の…いや、ああいうのって一回しかやらないだろうけど…!
(…リ、リハーサルってやつ…かな…)
 そうだよな本番じゃないけど…やっぱこういうのって慣れてた方がいいもんな、本番で緊張して下手こかないように…けど、何か…
(ああっ! 何か勿体ね〜〜〜〜!! そんな事何も覚悟してなかったから〜〜!!)
 もうちょっと切る瞬間の感動を味わいたかった!!と若者が悔しがっている間に、彼の当初の目的であったケーキ割り増し作戦はあっさりと失敗に終わり、彼らの目の前には綺麗に等分されたケーキのピースが並んでいた。
「む、見事に切り分けたな」
「えへへ」
 なかなかの観察眼だ、と真田から桜乃が褒められている間に、紙皿に載せられたケーキがメンバー達に渡っていく。
「おっ、上等上等。元が大きかったから、そこそこの量があるッスね」
「ま、丸井には気の毒だったがな」
(そんなん、もうどーでもいーぜ)
 切原とジャッカルが聞いたら耳を疑いそうな台詞をさらっと心の中で吐き出しながら、丸井は自分の分のケーキ皿を取る前に、こっそりと桜乃に耳打ちする。
『なぁ桜乃…』
「?」
『「本番」は、俺がリードするからな?』

 「本番」って意味、ちゃんと分かってるよな…もう逃がさないぜ?

「っ…」
 鳥肌が立つ様な、誘うような声に、ぞくんと桜乃が微かに震えて相手を見ると、彼はにやりと挑発的な目で楽しそうに笑っていた。






Shot編トップへ
サイトトップへ