デートは誰と?
「精市お兄ちゃん、今何か欲しいものってある?」
「ん?」
とある二月の夜…
夕食も食べ終わり、ゆっくりとリビングで雑誌を読みつつくつろいでいた幸村精市は、妹である桜乃からそんな問いを投げかけられていた。
向こうはようやくキッチンの片づけが済んだばかりなのか、まだエプロンを身につけたままだ。
「欲しいものって…食後のデザートとか?」
「あ、ううん、そうじゃなくて…ええと、本とかCDとか、何かそういうモノ…ない?」
「?」
えへ、と何かを伏せている様に遠慮がちに尋ねてくる妹の様子に、幸村の脳内回路が働き出す。
自分の誕生日、三月五日…は確かに遠くはないが、まだ二月に入ったばかり。
リサーチをかけるには些か早すぎる気がする。
となると自分の誕生日プレゼントという訳ではないだろう。
では、二月で妹からプレゼントを受け取る機会がある行事とは一体…
「……ああ」
それほど時間をかけることもなく、その若者は納得したとばかりに薄い笑みを浮かべながら数回頷いた。
「…チョコでいいよ。あんまり苦くないのがいいな」
「え…それでいいの?」
「うん」
兄が「チョコ」という単語を出した時点でこちらの思惑が読まれてしまった事を察した桜乃は、その答えを聞いてやや拍子抜けな面持ちだった。
「う〜…何だかつまんない」
「どうして?」
「だぁって…」
少しだけ不満げな顔をする妹を、雑誌から目を離して幸村が楽しげに見やる。
いつも笑顔を絶やさない、よく出来た妹のこういう表情を見るのは珍しいのだ。
しかしそんな表情ですらも、いかに身内とは言え心底可愛いと思っている幸村は、もう十分にシスコン属性に入ってしまっているのかもしれない。
そんな兄の視線を受けながら、桜乃は両手を握って相手に力説した。
「お兄ちゃん、いっつもバレンタインには学校で沢山チョコ貰って来るじゃない。あんなに貰ってるなら、私があげなくてももう十分でしょ?」
そう、二月と言えば男女の一大イベントであるバレンタインデーがある。
大体この国では女子から意中の男子にチョコレートを贈るのが習わしとなっているが、幸村は特にその恩恵に預かる若者であった。
何しろ美形でスタイルも抜群、物腰柔らかく分け隔てなく優しく、成績優秀でスポーツ万能。
どこかの漫画の王子様が現実に抜け出てきたような存在の彼は、立海のみに留まらず、近郊の学校の女生徒達の憧れの対象なのだ。
なので、彼が毎年持ち帰ってくるチョコの数も半端なく、当日はチョコを抱えて帰路につくという臨時トレーニングをこなさなければならないのだった。
モテる男の、これも苦労というものだろうか…
「沢山貰えている事は否定しないし、感謝もしているけど…それと桜乃のチョコを貰うのは別問題だな」
雑誌をぱさりと床に置き、身を委ねていたソファーに更にころんと寝そべりながら、幸村は優しい笑みを妹に向けて反論した。
「同じチョコなのに?」
「同じじゃないよ。桜乃の手作りチョコは、他の誰の手作りよりずっと大事。可愛い妹が俺の為に作ってくれたものだろ?」
「っ…!」
恥ずかしげもなくさらりとそんな台詞をのたもうた兄に、妹の方が真っ赤になる。
「も、もうっ…そういう台詞は恋人さんに言うものでしょ!?」
「恋人ね…まぁ、出来るまでは桜乃に言うことにしようかな」
今のところは全く作る気もないけどね…と心の中で呟いてから、幸村は、で?と今度は自分が相手に問いかけた。
「勿論、今年も作るのは俺と父さんへのチョコだけなんだろう?」
「あ、ううん、今年はちょっと…」
「…」
てっきり身内で終わる話と思っていた若者が、意外な相手の返事を聞いた瞬間、その瞳を鋭いものへと変える。
まさか…中学に入って早速、誰かに恋心を抱いたというのだろうか…
いや! まだ早すぎる!!
大体、自分の眼鏡にかなう相手かも分からない様な男に、可愛い妹を任せられる訳がない!!
「…ふぅん、誰にあげるつもりなの?」
「お兄ちゃん、ちょっと目が怖いよ」
「気のせいだよ」
本当に気のせいかな…と思いつつ、桜乃はひいふうみいと指を折り、視線を上に向けながらチョコを贈る相手について反芻した。
「今年は、私も同じ中学校の生徒になったし、お兄ちゃんと同じテニス部レギュラーだった皆さんに感謝の気持ちを込めて、贈ってみようと思ってるの。入学してから色々と先輩として優しくして下さったし、何もしないのも失礼でしょ?」
「ああ…」
彼らにか…という事は、一人に限定してのものではないという意味でもあるし…つまり…
「…義理チョコだね」
「むー…義理って言い方は好きじゃないなぁ。強制じゃなくて感謝して贈るものだから、感謝チョコ、だよ」
「…世間では「義理チョコ」だよね」
「妙なトコロでこだわるね、お兄ちゃん」
「別に…」
どうあっても「義理」ということにしたいのか、幸村はそれを一際強調した後で、再び雑誌を取り上げてそれに目を通し始めた。
一応、話はそこで終わり、桜乃はつけたままだったTVに何とはなしに目を遣った。
先程まではニュース番組を放映していたその画面は、今は丁度CMのタイミングらしい。
「どうせ貰うなら手作りもいいけど、こういう時にしか出ない限定チョコっていうのもいいよねぇ…不謹慎だけど、この時期になると男の子って得だなって思っちゃう。色んなチョコを試せる機会だもん」
「……貰えない男子もいるんだけどね」
「う…まぁそれはおいといて…あ、これって凄く人気のチョコ。すぐに売り切れるだろうって言われてるんだよね、食べてみたいなぁ」
「ん?」
桜乃の声につられてTVを見ると、豪奢なイメージのチョコレートのCMが流れていた。
どうやら有名ブランドのチョコレート、しかもバレンタイン限定仕様らしく、画面にはハートや暖色系の色がこれでもかと散っている。
「こんなに立派なものは作れないだろうけど、私も頑張ろうっと、さて、研究研究」
「……」
雑誌を眺めたまま無言だった幸村は、ぎゅっとエプロンの紐を結び直して張り切る妹の後姿をちらりと見遣ると再び雑誌へと視線を落とし、それからも沈黙を守っていた…
「そういう訳で、多分君達にも妹からチョコが配られると思うよ」
「そうか…あまり気にしなくてもいいのだがな」
「感謝の気持ちということであれば、断るのは逆に失礼に当たる。喜んで頂こう」
翌日の昼休み、幸村は過去のレギュラーメンバーが揃ったことを幸いに昨日の妹の話を全員に披露していた。
テニス部の活動からは離れて久しいが、彼らの交友は勿論終わる事無く続いており、今日の様に昼食を共にすることも多いのだ。
話を聞いた真田と柳が、特に他意もない様子で兄である幸村にそう伝える一方では、丸井が手持ちのメモ帳に何かを熱心に書き込んでいる。
「何書いてるんだ、丸井」
「いや、これで貰えるチョコが一個増…と。ん〜、今年はやっぱ例年に比べると不作だからさ、一個の重みが違うよなー」
どうやら貰える予定のバレンタインチョコの数を今から勘定しているらしい相棒に、ジャッカルがはぁと溜息をつく。
「…お前も相変わらずだな。くれる相手じゃなくて先ずはチョコありき、か」
「いーじゃん、別に。俺、ちゃーんと全員に笑顔で受け取ってお礼言ってるぜい?」
「そりゃ最低限の礼儀だろ」
そんな事を言っている脇では、丸井の様子を仁王と柳生が苦笑しながら眺めている。
「まぁ今年はバレンタインが生憎の日曜じゃからのう」
「土曜も休みとなれば、決戦は金曜日ということになりそうですね。義理の分は今年は若干少なくなりそうですが、寧ろこちらとしては無理強いしている訳でもないので少々ほっとしています」
「えー、義理でもチョコはチョコじゃんか、俺は一個でも多く欲しいってのい。だから、今年は例年に増してアピールを…」
「するなっつうの!」
奥ゆかしさが美徳とされる筈の日本人相手に、何でハーフの自分がそれを嗜めなければならないんだ…と疑問に思いつつジャッカルが丸井に突っ込んでいると、二年の切原が悪戯っぽく笑いながら口を開いた。
「でもまぁ、ホントの本気の相手なら、いっそ日曜にデートに誘うって手もアリじゃないスか? 好きな子と映画に行ったり買い物したり…まぁ俺らは当日、久し振りに全員揃って練習試合ッスけど……あれ?」
『…………』
何かに気付いたらしい現部長の切原が言葉を切らし、同じく何かに気付いたらしい他の元レギュラー達も一斉に視線を元部長である幸村に向けた。
確か…今回の合同練習の日程を決めたのは……?
「…えーと…幸村先輩」
「ん、なに?」
にっこりといつもと変わらない笑みを浮かべる相手に、切原は恐る恐る尋ねた。
「今回の練習日の割り当て…確か、先輩がやってたッスよね…?」
「そうだよ。妹も来て応援してくれるって。君たちへのチョコもそこで配られるんじゃないかな?」
(ああ、兄の監視の許で配られるのか…)
全員が心で納得していると、更に切原は突っ込んだ質問。
「…で、練習は午前に終わる訳ですが、先輩のその後のご予定は…?」
「そのまま桜乃とデートだよ。映画に行って買い物、何処かに寄って美味しいものを食べるのもいいな」
(相変わらず隙が微塵もねぇな、この兄貴は!)
まんまとその日一日の妹の予定を塞ぐことに成功した兄は、ふふっと柔和な笑みを浮かべながら全員に断った。
「そんなに心配しなくてもいいよ。君達が桜乃から貰うのは感謝チョコで…あくまで「義理」だから」
(うっわー、くれる当人以外から「義理」だって断られるの、は・じ・め・て!)
ぜんっぜん嬉しくないなーと彼らが思っていたところで、その場に一人の女生徒が近づいてくると、彼女は幸村に恥ずかしそうに話かけてきた。
「あの…幸村君?」
「ん…何だい?」
「ええと、ひ、人から頼まれててちょっと聞きたいんだけど……幸村君って、どんなチョコが好きなのかな?」
「俺…?」
ああ、ここ最近自分達もよく聞かれるチョコの好みのリサーチってヤツか、と今更他の男達は驚きもしない。
頼まれた、と彼女は言っているが、その態度を見ると嘘であることは明白だ。
場合によっては当人ではなく、それぞれの仲間を通じて好みを訊かれることもあるのだが、今回はどうやら直球で来たらしい。
「チョコかい? そうだね…うーん…」
少しだけ考えた後、幸村はにこりと笑って相手を見た。
「アルコールが入ってなければ特にこだわりはないけど……あ、〇〇って会社が今度出すらしい限定チョコはちょっと気になるかな」
「え、限定の…?」
「うん、最近CMよくやってるから、見かける内に気になっちゃってね。でも、贈り物は相手への気持ちが篭っているのが一番だから」
「そっか…有難う」
「うん」
そんなやり取りを見ながら、真田と柳がこそりと囁きあった。
『珍しいな…精市があんなに具体的な好みを口にするとは』
『いや…これまでの情報を整理した上で考えると、奴の狙いはおそらく…』
そしてバレンタイン前の金曜日…
「ただいま」
「お帰りなさい、お兄ちゃん…うわぁ」
その日、妹が玄関先に兄を迎えに出ると、年に一度の壮観な光景が今年も同じく広がっていた。
持参していた紙袋にぎっしりと詰め込まれたチョコの山…が二つ、相手の両腕に握られていたのだった。
「こ、今年は少なくなると思ってたのに…何だか多くない?」
「卒業するからかな…特に下級生達からのが多くて。流石の俺でもちょっときつかった…周りの視線も凄かったし」
「それはそうだろうね…手伝うね、お兄ちゃん」
「有難う」
そして二人で大荷物をリビングに運び込んだ後、彼らは改めてその中身の検分を行った。
「あっ、あの限定チョコだぁ!」
「欲しいのあったら、何でも持って行っていいよ。お返ししないといけないから、カードとかは分かるようにとっておいて」
「うん! うわぁ、一杯ある〜」
きゃっきゃっと喜びながらチョコの入った箱を取り上げている妹に、幸村も嬉しそうに微笑んでいる。
ほんの少しだけのアピールだったが、どうやらあのチョコへのリクエストの噂は他の女生徒達にも十分に行き渡ったらしい…それを期待しての一言だったのだから、上手くいって良かった。
「…日曜のデートも忘れないでね、桜乃」
「うん、ちゃんと覚えてるよ。もう…これだけモテてるのにどーしてお目当てさんはなかなか見つからないかな〜…私は暇だからいいけど」
「そりゃあ、桜乃より可愛い子がなかなかいないからね」
「ま、またそういうコト言う〜〜〜」
「ふふふ」
(…私に恋人がなかなか出来ないのって、もしかしたらイケメンのお兄ちゃんがいるから理想が高くなっちゃってるのかな〜…別に人に責任を転嫁するつもりはないけど…)
確かに妹に恋人が出来ないのは兄に大きな一因があるだろうが、その内情は全く違う。
しかしそれを彼女に語る者はいないだろう…おそらく。
多少の勘違いはしたままではあったが、今年も立海一のイケメン男とのデート権は、彼の妹が行使することになったのであった。
了
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